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2008年8月29日 (金)

次はあなたの番ですよ

アフガニスタン復興の一助となる農業指導のため現地で汗を流していた心優しい青年が残忍な原理主義者に殺害された。
理由は「アフガニスタンから全ての外国人を追い出す」だそうだ。

9/11のテロ以来、イスラムと西欧文明との価値観の違いが散々論議されてきた。
民主主義を取り入れ、このように国づくりをしたほうが幸せになれるんですよ、と西欧文明は自分たちの価値観を彼らに「押し付けて」きた。
押し付けることなく精魂こめて説得したところで、やはり、どんな説得も彼らにとっては無意味なのだろう。
彼らにとってもまた、我々が「普通だ」「常識だ」と思っていることが異常であり非常識なのだ。

人を残忍な方法で殺したり、無差別テロを起こす過激集団というのは、イスラムを代表するものではなく、単なる凶悪犯罪者集団で、何ら同情の必要のない連中だとは思う。
しかし、価値観の違う二つの文明の衝突が、これらの犯罪集団を一掃できない大きな要因であるならば、相互理解のためのどんな話し合いも無理なのではないかと、考えるだけで疲労感を覚える。

そんなことを考えている時、なるほど、と思える論説に出合った。→≪地球温暖化を歓迎する≫  産経新聞コラム「解答乱麻」政策研究大学院大学教授 岡本薫

なんたる大局観。

平和を愛する人たちが譲歩の精神の美しさを強調するなら、これぐらいの譲歩を提案してこそ、その主張は本物の輝きを放つ。

みなさん、よろしいか。温暖化が進んだぐらいで「地球が壊れる」ことはありませんぞ。

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2008年8月25日 (月)

「誰にも見せない泪があった」

北京オリンピックが大成功のうちに終わった。
テロもなく、競技に支障をきたすような不備も表面化せず、開会式閉会式ともに豪華絢爛で失敗もなかった。良かった良かった。
オリンピックを国威発揚の場にしているとかなんとかの批判はさておいて、すごいものを見せてやろうとする中国の意気込みはさすがだ。
これでもかこれでもかといった演出は凄すぎて長すぎてお腹一杯になった。

スポーツにあまり興味のない私も数々の日本選手の活躍や涙には感動させてもらった。LIVEで見たのは金メダルの北島康介だけだったけれど。

「感動」は人間の行動の原動力となる。
いいものを見せてもらって本当に感謝している。
オリンピック万歳。
選手たちに賞賛と感謝の気持ちをもって、この歌を聞く。

          ゆず 「栄光の架橋」 

     

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2008年8月23日 (土)

日本を磨く

街中の案山子さんが前記事にコメントをくださった。→  こちら  

【 今の憲法の精神は、「日本を磨くために」変えなくてはならない性質を含んでいるようには思えない 】

このことについて書きたい。

アレルギーを起こす人が多いので避けている言葉だが、「愛国心」である。
サンデープロジェクトでの櫻井よしこ氏の発言の意図するところもこれであると思われる。
司会の田原総一郎氏が櫻井氏に言っっていた、「なんで『愛国心』とはっきり言わないんですか」

私はこのブログで「愛国心」について何度も何度も書いてきた。
反論も多く、「そんなもので国がまとまると危険だ」とか「そんなものわざわざ教えなくたって個々の人間がしっかりと働きしっかりと義務を果たせばいいことだ」とかの意見に私は一生懸命に答えてきた。

今また、それらの議論を繰り返すのはさすがにしんどい。

ただ、「愛国心」の欠如が日本人を劣化させている、というような単純なものではないとは思う。
人間の劣化は豊かさとともに進むから、先進国ではどこも同じような悩みを抱えているものと思う。

しかし、そんな中、日本だけは同じような劣化に甘んじるものか、と奮起したっていいじゃないか、と思う。

それは、豊かさが劣化の原因だから昔のような貧乏に戻ればいい、ということではない。

豊かさの質を変えるということだと思う。

国際社会の一員であるし、グローバリゼーションが進んだ今、世界と関わらないわけにはいかないけれど、世界情勢に振り回されてどうすることもできず、オロオロしてばかりでは安心安全も確保できないし、国家としての自信も身につかない。

例えば食料自給率であるが、なぜこれを上げることができないのか。
政府の政策が悪い、と言ってしまえばそれまでだが、もう少し踏み込んで考えてみることはできないか。

 「熱」 という記事で、評論家井尻千男氏の文章を紹介したことがある。
「ヨーロッパでの自給率の高さの根源に共同体意識がある」という趣旨だ。

≪_____ここまでいえば、もうお気づきだろう。戦後の日本が一貫して推し進めてきたことの一つが「共同体の解体作業」であったことに。
最初はGHQの占領政策として始まったわけだが、バブル経済以降は、市場原理主義がその解体作業を引き継いだといえる。
この二つの流れに身を置く限り、自給率の上昇を語る根拠を構想できない。だから「40%台前半」ぐらいのことしかいえないのだ。
ところが重大なことを最後に言わねばならない。ヨーロッパ諸国の自給率の高さは政策の結果ではなかったという一事だ。
それぞれの国の生き方そのものが自給率を高めたということ。それが共同体意識の関数だったということ。

日本だって国民各位が共同体意識に目覚めれば、政策当局が放っておいても自給率はごく自然に上昇するのである。
イタリアの自給率の高さはこの国特有のパトリオティズムによるだろう。
1985年以降イギリスは自給率を70%台に乗せた。戦闘的な女性宰相サッチャーの共同体論の強固さがしのばれる。≫

また、以前、先の戦争のことについて中国に謝る謝らないの議論をしていた時に、「そんな議論をするより、中国に負けないよう国力をつけることに専念するべきだ。資源獲得のための宇宙開発。そしてそのための人材育成、科学教育に力を入れるべきだ」と書いてくださった人がいて、私はその意見は尤もだと思った。
その人は、こう言った。
「民主主義体制に措いては政策に関して、問いかけ・受容・推進という過程を踏む」

つまり、国民に対し、政府は「この政策で行くが、同意してもらえるか」と問いかけ、国民の賛成が得られればそれを推進する、ということだ。

しかし、国民が「国力をつけるため」「国のため」の政策に同意するかどうかが問題なのだ。
「国のためなんかいやだ」「科学教育なんかに大きな予算を割くより、大事なのは目前の我々の生活だ」そう国民が思えば、政府はそっちに配慮しなければならない。

「国」を意識するかしないか、このことは非常に重要だ。
自分の属する共同体を強固なものにする、それはやがて一人ひとりの幸せにつながる、このことを理解することが必要だ。

何度も言ってきたように、愛国心とは、「愛国心を持て!」とひたすら鼓舞するものではない。アレルギー反応を起こす人たちは勘違いをしてはいけない。
自分たちの共同体を良いものにしよう、という人間として当たり前の意欲である。国が生き残るための共同体意識の必要性である。

個人の権利と同じくらい、共同体の一員としての義務も重要だということを、憲法で謳わなくてもいいのだろうか。

憲法をわざわざ書き換える必要がない、人は規定などなくても変わることができる、というなら、そもそも憲法とはいったい何なのだ、という疑問が湧く。
そんな、何が書いてあっても何の影響もないようなものなら、なぜそんな憲法は廃止してしまわないのだろうか。
人は、憲法こそ大事、と言いながら、憲法は関係ない、などと憲法の無力を語る。矛盾していないだろうか。

櫻井よしこ氏の言う通り、憲法に権利ばかりが強調されて、義務がおろそかにされているのなら、書き直したらどうなのだろうか。
その必要はない、というなら、それは憲法をなめている、そういうことなのではないだろうか。
実は私もそういうところがあって、「ただの条文なんて、あってもなくてもどっちでもいいじゃん、やるべきことさえきちんとやってれば」 なんて思ったりもするのだが、よく考えてみると憲法ってそんなに軽いものなのだろうか。

憲法の精神に則って、教育の方針も決まる。

自分にしか興味がなく周りが見えない人間が増えている、というなら、教育でそれを変えていくしかないと思う。

一番の責任は家庭にあると私は思うが、人は親を選べない。

ならば学校教育しかない。

教育が間違っているかもしれないなら、そこに手をつけてみるしかないと思う。

「人を育てる」ことをしなければ、国は劣化する。

「日本を磨く」とは、人を育てるということだ。

ところで、話は変わるが、近頃私は若い世代に愛国心が広がりつつあるのを感じている。
それは、例えば国際的スポーツイヴェントにおける熱狂や、インターネットで見られるような右翼的言説の広がりとは別のところにある。

介護中の母の検診に来てくれるベテラン看護師さんは言う。
「近頃の若い人は、すごく国のことを考えているんですよ。私なんか、自分の仕事を地道にこなす、ということだけで、国がどうのなんて考えたことなかったけど」
そして、「お年寄りの人たちにもう少し国のことを考えて意識改革をしていただきたいと思うんですよ」と本音を語る。

若い人たちの胸になぜ愛国心が芽生え始めたのだろうか。
周辺諸国の理不尽な振る舞いを見て、防衛本能が呼び起こされたのか。
現場で働くうち、この困難な状況は国民の意識を変えるしかない、というところににたどりついたのか。
日本の良さを見直そうとか、愛国心は大切、という最近の社会の動きに影響されたのか。

国の状態が悪くなってから、「ああ、やっぱりあまり個人主義に傾くと良くないのだ」と気がつく。そして遅ればせながら軌道修正する。
そういう道程をたどっても良いとは思うが、やはり他国に遅れをとっては取り返すのに時間がかかる。
できれば、早くから共同体意識を持ったほうがいい。
私はそう思う。

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2008年8月20日 (水)

人類はみな友だち、って言うんなら

日本人は何をされても怒らない。

領土をとられても、拉致されても、ODAで一所懸命に援助してあげている国にコケにされても、北方領土付近でいきなり漁船員を射殺され、船を没収されても、60年以上「謝れ謝れ」と頭を押さえつけられ続けても、二酸化炭素削減問題で、まんまと他の先進国にしてやられても、ほんとうに、何をされても本気で怒ることがない。

お人好しというのか、弱腰というのか、戦略がないというのか・・・・・、でもこの調子で長年やってきて、先進国に上り詰めたのだから、もしかしたら良い対処の仕方だったのかもしれない。

それにしても、日本以外の世界の国々のなんと狡猾で強引なことか。
このような国際社会で、日本はその一員としてこれからも生きていかなくてはならない。

日本はこのままお人好しでやっていけるのか、それとも変わらなければ生き抜くことができなくなるのか、よくわからない。

たしかに、人を陥れない、強引でない、裏切らない、あしざまに批判しないことは良いことで、とても美しい。

そういう面で日本は国としてとても美しい。

戦略的であることと、美しいことはたぶん両立しないだろう。

どちらが正しいという問題でもない。

何かを選択し、その結果として起こる事態を、それがどんなものであれ、選択したのだから受け入れる、という覚悟の問題である。

お人よしでも損をしても良い、とにかく争いは避けたい、というなら、その結果としての損失はちゃんと受け入れるべきだし、損してたまるか、負けてたまるか、と思うなら、そのための態度や行動は必要だろう。

世の中の人はみんな良い人で話せばわかるので、そんなにガツガツしなくても、話し合いで分け合うことができる、と古来そう考えてきた日本人は、たぶんそういうDNAを持っているのだろうと思う。

そんな日本人の気質を全世界に広めるのは無理だと思う。

これは決して「美しい精神」とか「正しい思想」なんかではなくて、持って生まれた「気質」とか「性格」なのだろうから無理だと思う。

「思想」ならばそれを広めることはできるが、「性格を変えろ」と迫るのは無理だと思う。

「みんな良い人になりなさい」とか「無欲になりなさい」とか、そんなことを人間に要求するほうが無理なのである。

貧しさが争いの原因だから、貧困がなくなるように世界の経済システムを変えればいいのだ、という考えはあまりにも人間を知らなさ過ぎる。
人間は満足しない動物だ。
必ず、更なる欲を出してくる。

「適当に幸せな状態」は長続きしないし、ユートピアは堕落の始まりとなる。
人間をそのように造り給うたお方の「思し召し」は我々には如何ともしがたい。

小林よしのりの両親は、夫婦でしょっちゅう議論をしていたそうである。

マルクス主義にかぶれ、理想は実現されるはずだと信じる父親と、真言宗の寺の娘で人間が煩悩の生き物であることを知っている現実的な母親の対決である。

やがて、真面目な働き者だった父親は、権利ばかり主張してストばかり繰り返す労働組合に嫌気がさし、マルキストをやめた。マルクス主義が仏教に負けた。

さて、前記事のコメント欄で書かれているように、生き延びるため豊かになるために「曖昧な態度」を一つの手段として貫いてきた我が国であるが、この曖昧さは今後もずっと続けていくことができるのだろうか。

続けていって何も問題がないなら、そうすればいいと思う。
世界のどこの国もそんなに首尾一貫してるとも思えず、曖昧さやずる賢さは普通に持っているものと思う。

しかし、日本の場合、国家体制の根本のところで曖昧になってはいないだろうか。
日本の防衛や外交の曖昧さは、これからの時代、致命的となるのではないか。
第一、その曖昧な国に育つ子供たちはどんな精神を持つようになるのだろうか。
私はこれを心配し、今までもたびたびこの「子どもの育ち方」について書いてきた。例えば→「独立宣言」 

「国家体制」と「子どもの精神の育ち方」、これは関係がないだろうか。
共同体の土台が曖昧な状態で、人間はしゃんとしていられるのだろうか。

先日、「サンデープロジェクト」で秋葉原事件など若者による無差別殺人問題を取り上げ、櫻井よしこ、東浩紀、姜尚中、香山リカの各氏が考えを述べていた。

社会の問題、家族の問題などを論客たちが挙げる中、櫻井よしこ氏が、「これは憲法の問題ではないかと思います」と発言した。

この発言について、「憲法が秋葉原事件を起こしただって!バカバカしい」と嬉々として櫻井氏をこきおろすブログも目にしたが、私は女史の言わんとすることがわかる。

つまり、国民としての義務より個人の権利に重きを置く憲法の規定が社会を歪めているというのだ。
「憲法というのは、実生活に関係がないように見えますけど、国民生活全般の根本であり、全てはそこから始まるわけです」と彼女は言う。
「憲法第三章≪国民の権利及び義務≫を読むと、権利や自由ばかりが謳われ、義務がおろそかにされています」

そう、「社会が」「家庭が」「教育が」「政治が」と、人は事件の原因をそれぞれそんな言葉で探そうとするが、それらのおおもとは、つまりは「国のかたち」であり「国の方向」である。

もちろん、憲法を変えれば無差別殺人がなくなる、というような話ではない。

そして、秋葉原事件に表れるような若者の行動だけが問題なのではない。

日本人全体に表れている「何か」である。

その「何か」は、カネを抱え込む老人であったり、子供をないがしろにする親であったり、権利を盾に無理難題要求する庶民であったり、売春する女子高生であったり、ゲームに熱中して外遊びをしない子どもであったりするわけだ。

_____________

しかし、私は「憲法を変える」ことに関しては、強硬に反対している人がいるのだから(9条を含め)、それを押し切ってまで変えなくてもいいんじゃないか、と思っている。
ただ、日本は「強くならなければいけない」とは思う。曖昧な国のかたちや方向を改善するためにも。

軍事に関してはよくわからないから、そういうことは専門の人にちゃんと考えてもらうとして、少し大人の国になりたい、と思う。
商売の面で、科学技術の面で、国際貢献の面で。

お金を儲けて強くなって、科学技術の最先端を担って世界を牽引し、それをもって途上国の発展に協力し、発言力を増せばいい。

真の世界平和を願うならば、自分が強くならなければならない。
「地球人」を目指すならば、そのことを理解するべきだ。

日本は「自国を磨くこと」、そのことに一所懸命になればいい。

そのために教育を変え、政治を変える。

更にそのために必要であると国民が判断したならば、我々独自の新しい憲法を作ればいい、と思う。

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2008年8月15日 (金)

63年経った

産経新聞「正論」で、慶応大学教授・阿川尚之氏の≪終戦は日本の「選択」だった≫を読んだ。  →http://sankei.jp.msn.com/life/education/080811/edc0808110302000-n1.htm

爽やかな意見だなあ、と思う。

この63年間に、このような考え方を表明した人はたぶん、阿川氏だけではないだろうし、別に目新しいものではないかもしれない。
でも、このような考え方がもっともっと日本国内に広まれば、60年以上も前の戦争のことについていつまでもいつまでも思い悩むような青少年の域から脱して、日本人ももう少し大人になれるのかなあ、と思う。

しかし、右でも左でもない私なども、左翼の人々がヘンなことを言うと「ヘンだ」と思うし、反論している人たちを応援したくもなる。ヘンなことを認めるわけにはいかないし、傍で議論を見ているナイーヴな人々がヘンな理解をしてしまうのも日本の脱皮のためにならない。
一方で、左翼の人々とて宗教のように長年信じてきたことをおいそれと転換するわけにはいかないだろう。
だから、いつまでもいつまでも左右平行線の状態が続くのは仕方がないのかもしれない。

実際には、左翼的な思い込みは徐々に払拭されてきて、左翼のかたがたには生きにくい世の中にはなってきたとは思うが、論壇では相変わらず何の進展もない平行線状態が続いている。
そしてそれが原因なのだろうか、なぜなのかわからないが、日本の防衛体制や外交姿勢はあいまいで歯がゆい。

大人への脱皮は日本人にとってなぜこんなに難しいのだろうか。

ところで、阿川氏の文章の9段落目に、「戦争に負けて真っ先にすべきは、敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをすることである。」という文章があって、ブログ検索してみると、この部分について長々と否定的に論じている人もいる。

しかし、私の解釈では、これは「“その当時として真っ先にすべきこと”をせずに、左右の意見に別れてそれぞれ自己弁護に走り、今なおそれが続いているのは見苦しい」、という単純な意味だろうと思う。
この一文は、「少なくともその当時はそうあるべきだった、それが筋というものだろう」、という意味であり、「普通の国ならそうするはずだ」という意味であり、「武力戦争に負けたのなら経済戦争に負けない備えをするべきだ」、という意味でもあるだろう。

第二次世界大戦が終わって以来、世界情勢も国内事情も変化し、日本にとっての「次の戦争」などというものが起こり得ない時代、また起こしてはならない時代になったことを阿川氏が認識していないはずはなく、この一文についてことさら目くじらをたてることもないだろうと思う。

8/11産経新聞コラム「透明な歳月の光」で曽野綾子氏は、ODAに絡む賄賂や、日本の経済を握るタンカーが攻撃される危険などの例を挙げ、「醜悪な現実を正視して備えることを日本人は卑怯にも避ける傾向がある。国民が過度にナイーヴであることは決して望ましい状態ではない、と誰も言う人がいなかったのだろうか。」と結んでいる。

我々日本人が大人になる、というのは、例えばこういう論を理解することであると思う。

    
           

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