日本人は何をされても怒らない。
領土をとられても、拉致されても、ODAで一所懸命に援助してあげている国にコケにされても、北方領土付近でいきなり漁船員を射殺され、船を没収されても、60年以上「謝れ謝れ」と頭を押さえつけられ続けても、二酸化炭素削減問題で、まんまと他の先進国にしてやられても、ほんとうに、何をされても本気で怒ることがない。
お人好しというのか、弱腰というのか、戦略がないというのか・・・・・、でもこの調子で長年やってきて、先進国に上り詰めたのだから、もしかしたら良い対処の仕方だったのかもしれない。
それにしても、日本以外の世界の国々のなんと狡猾で強引なことか。
このような国際社会で、日本はその一員としてこれからも生きていかなくてはならない。
日本はこのままお人好しでやっていけるのか、それとも変わらなければ生き抜くことができなくなるのか、よくわからない。
たしかに、人を陥れない、強引でない、裏切らない、あしざまに批判しないことは良いことで、とても美しい。
そういう面で日本は国としてとても美しい。
戦略的であることと、美しいことはたぶん両立しないだろう。
どちらが正しいという問題でもない。
何かを選択し、その結果として起こる事態を、それがどんなものであれ、選択したのだから受け入れる、という覚悟の問題である。
お人よしでも損をしても良い、とにかく争いは避けたい、というなら、その結果としての損失はちゃんと受け入れるべきだし、損してたまるか、負けてたまるか、と思うなら、そのための態度や行動は必要だろう。
世の中の人はみんな良い人で話せばわかるので、そんなにガツガツしなくても、話し合いで分け合うことができる、と古来そう考えてきた日本人は、たぶんそういうDNAを持っているのだろうと思う。
そんな日本人の気質を全世界に広めるのは無理だと思う。
これは決して「美しい精神」とか「正しい思想」なんかではなくて、持って生まれた「気質」とか「性格」なのだろうから無理だと思う。
「思想」ならばそれを広めることはできるが、「性格を変えろ」と迫るのは無理だと思う。
「みんな良い人になりなさい」とか「無欲になりなさい」とか、そんなことを人間に要求するほうが無理なのである。
貧しさが争いの原因だから、貧困がなくなるように世界の経済システムを変えればいいのだ、という考えはあまりにも人間を知らなさ過ぎる。
人間は満足しない動物だ。
必ず、更なる欲を出してくる。
「適当に幸せな状態」は長続きしないし、ユートピアは堕落の始まりとなる。
人間をそのように造り給うたお方の「思し召し」は我々には如何ともしがたい。
漫画家の小林よしのりの両親は、夫婦でしょっちゅう議論をしていたそうである。
マルクス主義にかぶれ、理想は実現されるはずだと信じる父親と、真言宗の寺の娘で人間が煩悩の生き物であることを知っている現実的な母親の対決である。
やがて、真面目な働き者だった父親は、権利ばかり主張してストばかり繰り返す労働組合に嫌気がさし、マルキストをやめた。マルクス主義が仏教に負けた。
さて、前記事のコメント欄で書かれているように、生き延びるため豊かになるために「曖昧な態度」を一つの手段として貫いてきた我が国であるが、この曖昧さは今後もずっと続けていくことができるのだろうか。
続けていって何も問題がないなら、そうすればいいと思う。
世界のどこの国もそんなに首尾一貫してるとも思えず、曖昧さやずる賢さは普通に持っているものと思う。
しかし、日本の場合、国家体制の根本のところで曖昧になってはいないだろうか。
日本の防衛や外交の曖昧さは、これからの時代、致命的となるのではないか。
第一、その曖昧な国に育つ子供たちはどんな精神を持つようになるのだろうか。
私はこれを心配し、今までもたびたびこの「子どもの育ち方」について書いてきた。例えば→「独立宣言」
「国家体制」と「子どもの精神の育ち方」、これは関係がないだろうか。
共同体の土台が曖昧な状態で、人間はしゃんとしていられるのだろうか。
先日、「サンデープロジェクト」で秋葉原事件など若者による無差別殺人問題を取り上げ、櫻井よしこ、東浩紀、姜尚中、香山リカの各氏が考えを述べていた。
社会の問題、家族の問題などを論客たちが挙げる中、櫻井よしこ氏が、「これは憲法の問題ではないかと思います」と発言した。
この発言について、「憲法が秋葉原事件を起こしただって!バカバカしい」と嬉々として櫻井氏をこきおろすブログも目にしたが、私は女史の言わんとすることがわかる。
つまり、国民としての義務より個人の権利に重きを置く憲法の規定が社会を歪めているというのだ。
「憲法というのは、実生活に関係がないように見えますけど、国民生活全般の根本であり、全てはそこから始まるわけです」と彼女は言う。
「憲法第三章≪国民の権利及び義務≫を読むと、権利や自由ばかりが謳われ、義務がおろそかにされています」
そう、「社会が」「家庭が」「教育が」「政治が」と、人は事件の原因をそれぞれそんな言葉で探そうとするが、それらのおおもとは、つまりは「国のかたち」であり「国の方向」である。
もちろん、憲法を変えれば無差別殺人がなくなる、というような話ではない。
そして、秋葉原事件に表れるような若者の行動だけが問題なのではない。
日本人全体に表れている「何か」である。
その「何か」は、カネを抱え込む老人であったり、子供をないがしろにする親であったり、権利を盾に無理難題要求する庶民であったり、売春する女子高生であったり、ゲームに熱中して外遊びをしない子どもであったりするわけだ。
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しかし、私は「憲法を変える」ことに関しては、強硬に反対している人がいるのだから(9条を含め)、それを押し切ってまで変えなくてもいいんじゃないか、と思っている。
ただ、日本は「強くならなければいけない」とは思う。曖昧な国のかたちや方向を改善するためにも。
軍事に関してはよくわからないから、そういうことは専門の人にちゃんと考えてもらうとして、少し大人の国になりたい、と思う。
商売の面で、科学技術の面で、国際貢献の面で。
お金を儲けて強くなって、科学技術の最先端を担って世界を牽引し、それをもって途上国の発展に協力し、発言力を増せばいい。
真の世界平和を願うならば、自分が強くならなければならない。
「地球人」を目指すならば、そのことを理解するべきだ。
日本は「自国を磨くこと」、そのことに一所懸命になればいい。
そのために教育を変え、政治を変える。
更にそのために必要であると国民が判断したならば、我々独自の新しい憲法を作ればいい、と思う。
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