« 人類はみな友だち、って言うんなら | トップページ | 「誰にも見せない泪があった」 »

2008年8月23日 (土)

日本を磨く

街中の案山子さんが前記事にコメントをくださった。→  こちら  

【 今の憲法の精神は、「日本を磨くために」変えなくてはならない性質を含んでいるようには思えない 】

このことについて書きたい。

アレルギーを起こす人が多いので避けている言葉だが、「愛国心」である。
サンデープロジェクトでの櫻井よしこ氏の発言の意図するところもこれであると思われる。
司会の田原総一郎氏が櫻井氏に言っっていた、「なんで『愛国心』とはっきり言わないんですか」

私はこのブログで「愛国心」について何度も何度も書いてきた。
反論も多く、「そんなもので国がまとまると危険だ」とか「そんなものわざわざ教えなくたって個々の人間がしっかりと働きしっかりと義務を果たせばいいことだ」とかの意見に私は一生懸命に答えてきた。

今また、それらの議論を繰り返すのはさすがにしんどい。

ただ、「愛国心」の欠如が日本人を劣化させている、というような単純なものではないとは思う。
人間の劣化は豊かさとともに進むから、先進国ではどこも同じような悩みを抱えているものと思う。

しかし、そんな中、日本だけは同じような劣化に甘んじるものか、と奮起したっていいじゃないか、と思う。

それは、豊かさが劣化の原因だから昔のような貧乏に戻ればいい、ということではない。

豊かさの質を変えるということだと思う。

国際社会の一員であるし、グローバリゼーションが進んだ今、世界と関わらないわけにはいかないけれど、世界情勢に振り回されてどうすることもできず、オロオロしてばかりでは安心安全も確保できないし、国家としての自信も身につかない。

例えば食料自給率であるが、なぜこれを上げることができないのか。
政府の政策が悪い、と言ってしまえばそれまでだが、もう少し踏み込んで考えてみることはできないか。

 「熱」 という記事で、評論家井尻千男氏の文章を紹介したことがある。
「ヨーロッパでの自給率の高さの根源に共同体意識がある」という趣旨だ。

≪_____ここまでいえば、もうお気づきだろう。戦後の日本が一貫して推し進めてきたことの一つが「共同体の解体作業」であったことに。
最初はGHQの占領政策として始まったわけだが、バブル経済以降は、市場原理主義がその解体作業を引き継いだといえる。
この二つの流れに身を置く限り、自給率の上昇を語る根拠を構想できない。だから「40%台前半」ぐらいのことしかいえないのだ。
ところが重大なことを最後に言わねばならない。ヨーロッパ諸国の自給率の高さは政策の結果ではなかったという一事だ。
それぞれの国の生き方そのものが自給率を高めたということ。それが共同体意識の関数だったということ。

日本だって国民各位が共同体意識に目覚めれば、政策当局が放っておいても自給率はごく自然に上昇するのである。
イタリアの自給率の高さはこの国特有のパトリオティズムによるだろう。
1985年以降イギリスは自給率を70%台に乗せた。戦闘的な女性宰相サッチャーの共同体論の強固さがしのばれる。≫

また、以前、先の戦争のことについて中国に謝る謝らないの議論をしていた時に、「そんな議論をするより、中国に負けないよう国力をつけることに専念するべきだ。資源獲得のための宇宙開発。そしてそのための人材育成、科学教育に力を入れるべきだ」と書いてくださった人がいて、私はその意見は尤もだと思った。
その人は、こう言った。
「民主主義体制に措いては政策に関して、問いかけ・受容・推進という過程を踏む」

つまり、国民に対し、政府は「この政策で行くが、同意してもらえるか」と問いかけ、国民の賛成が得られればそれを推進する、ということだ。

しかし、国民が「国力をつけるため」「国のため」の政策に同意するかどうかが問題なのだ。
「国のためなんかいやだ」「科学教育なんかに大きな予算を割くより、大事なのは目前の我々の生活だ」そう国民が思えば、政府はそっちに配慮しなければならない。

「国」を意識するかしないか、このことは非常に重要だ。
自分の属する共同体を強固なものにする、それはやがて一人ひとりの幸せにつながる、このことを理解することが必要だ。

何度も言ってきたように、愛国心とは、「愛国心を持て!」とひたすら鼓舞するものではない。アレルギー反応を起こす人たちは勘違いをしてはいけない。
自分たちの共同体を良いものにしよう、という人間として当たり前の意欲である。国が生き残るための共同体意識の必要性である。

個人の権利と同じくらい、共同体の一員としての義務も重要だということを、憲法で謳わなくてもいいのだろうか。

憲法をわざわざ書き換える必要がない、人は規定などなくても変わることができる、というなら、そもそも憲法とはいったい何なのだ、という疑問が湧く。
そんな、何が書いてあっても何の影響もないようなものなら、なぜそんな憲法は廃止してしまわないのだろうか。
人は、憲法こそ大事、と言いながら、憲法は関係ない、などと憲法の無力を語る。矛盾していないだろうか。

櫻井よしこ氏の言う通り、憲法に権利ばかりが強調されて、義務がおろそかにされているのなら、書き直したらどうなのだろうか。
その必要はない、というなら、それは憲法をなめている、そういうことなのではないだろうか。
実は私もそういうところがあって、「ただの条文なんて、あってもなくてもどっちでもいいじゃん、やるべきことさえきちんとやってれば」 なんて思ったりもするのだが、よく考えてみると憲法ってそんなに軽いものなのだろうか。

憲法の精神に則って、教育の方針も決まる。

自分にしか興味がなく周りが見えない人間が増えている、というなら、教育でそれを変えていくしかないと思う。

一番の責任は家庭にあると私は思うが、人は親を選べない。

ならば学校教育しかない。

教育が間違っているかもしれないなら、そこに手をつけてみるしかないと思う。

「人を育てる」ことをしなければ、国は劣化する。

「日本を磨く」とは、人を育てるということだ。

ところで、話は変わるが、近頃私は若い世代に愛国心が広がりつつあるのを感じている。
それは、例えば国際的スポーツイヴェントにおける熱狂や、インターネットで見られるような右翼的言説の広がりとは別のところにある。

介護中の母の検診に来てくれるベテラン看護師さんは言う。
「近頃の若い人は、すごく国のことを考えているんですよ。私なんか、自分の仕事を地道にこなす、ということだけで、国がどうのなんて考えたことなかったけど」
そして、「お年寄りの人たちにもう少し国のことを考えて意識改革をしていただきたいと思うんですよ」と本音を語る。

若い人たちの胸になぜ愛国心が芽生え始めたのだろうか。
周辺諸国の理不尽な振る舞いを見て、防衛本能が呼び起こされたのか。
現場で働くうち、この困難な状況は国民の意識を変えるしかない、というところににたどりついたのか。
日本の良さを見直そうとか、愛国心は大切、という最近の社会の動きに影響されたのか。

国の状態が悪くなってから、「ああ、やっぱりあまり個人主義に傾くと良くないのだ」と気がつく。そして遅ればせながら軌道修正する。
そういう道程をたどっても良いとは思うが、やはり他国に遅れをとっては取り返すのに時間がかかる。
できれば、早くから共同体意識を持ったほうがいい。
私はそう思う。

.

         
           いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.

|

« 人類はみな友だち、って言うんなら | トップページ | 「誰にも見せない泪があった」 »

コメント

>若い人たちの胸になぜ愛国心が芽生え始めたのだろうか。

他にロールモデルとなる国が無くなっちゃったからではないでしょうか。

例えば戦後の日本が手本としたのはアメリカだったと言えます。経済的繁栄、民主主義、生活スタイルなどなど、それはまばゆいものだったと思いますが、近年のアメリカのやり方は日本人を幻滅させるに十分です。

経済的繁栄は格差社会の上に成り立つものですし、民主主義にしても、911からイラク戦争への流れは国民の大半が支持した結果。生活スタイルも日本人の感覚からすれば受け入れかねる部分も多々あります。

その祖先たるヨーロッパも同じ。そしてかつては素朴な好意を持っていた中国にしても、ネットから伝えられる情報を基にすればかなりデタラメな国で、日本人とは相容れないということがわかってしまった。

そうやって周りを見回すうち、ふと足元を見てみれば、自分達が住んでいる日本はかなり恵まれていて、完璧とは言わないまでも他の国に比べればナンボかマシだ、と気が付いた。「日本も捨てたもんじゃ、ないんじゃね?」と。

それと同時に、日本を「ナンボかマシ」たらしめていた要因が、国内外の様々な勢力に徐々に脅かされつつあることにも気が付いた。だからそれを守りたい…こういうことではないかと思うのです。

つまり彼らの(そして若くはないですが自分の)「愛国心」とは、「単純に日本が好き」という感情の発露ともいえるし、robitaさんの仰るような防衛反応ともいえます。

投稿: かせっち | 2008年8月23日 (土) 16時03分

コメントを取り上げていただきありがとうございます。
で、
「憲法をわざわざ書き換える必要がない、人は規定などなくても変わることができる、というなら、そもそも憲法とはいったい何なのだ、という疑問が湧く。
そんな、何が書いてあっても何の影響もないようなものなら、なぜそんな憲法は廃止してしまわないのだろうか。
人は、憲法こそ大事、と言いながら、憲法は関係ない、などと憲法の無力を語る。矛盾していないだろうか。」
という、robitaさんのご趣旨に対して、私の憲法観が異なるのです。
私が条文としての憲法に接したのは中学校の社会科でした。前文から始まって、国会の項の40条ぐらいまで、丸暗記してしまうほど覚えたものです。

その頃に覚えた感慨は今でも覚えています。そして、日本国憲法に掲げられている理念に、まだ至っていないのではないかと思宇野です。さらに目指すことこそが、国際社会の中での日本の役割ではないでしょうか。
日本国憲法には義務がない、との論調のようですが、教育、労働、納税の3つの義務が謳われています。
個人の尊厳を踏みにじることのないと謳っている国の構成員として、コレラの義務は担おうではないか、国民が考え、行動しようとするって、健全だと思うのですが…。いかがでしょう。
確かに、憲法改正もできないようながんじがらめは、いかがなものか、それは不公正だと、一時、考えたこともありました。
けれども、今の日本の政治家、政府の実態を思うと(小泉チルドレンの80余票をたよりに、民意を問うことなく、小泉政治とは別の路線の政治を行なっていく)、憲法の手直しや改正が可能な状態ができると、またまた民意を無視して、与党の数の力で、舵取りをしていくように考えるのです。
よって、一時は、憲法の見直しを否定してばかりはダメだ、と思ったこともありますが、現在は、私たちの始めての民主主義憲法を持ち続けたいと思っています。

投稿: 街中の案山子 | 2008年8月24日 (日) 09時38分

愛国心というと、ついつい、またやってしまう・・・・。

「ああっダメです、ダメですぅ、愛国心なんてダメですぅ。」
(福島瑞穂さん風)

「愛国心なんて、また国民を騙すだけやろ。それよりも年金はどないなるの。年金は払わん、それで国を愛せよというのは納得できへんで。まず安心できる年金制度を国民に示してもらいますか。」
(辻元清美さん風)

「戦前、国は戦争を行い、膨大な数の国民を死に追いやったわけですね。あの戦争の責任について、今だなに一つなされることなく、またもや愛国心を持つことを強制されるのは、戦後民主主義の否定以外のなにものでもないわけです。現状、憲法で禁止されている海外派兵も行われています。根本的な問題はアメリカ従属ですね。アメリカ従属を続けている限り憲法をどう変えようと同じです。」
(志位和夫氏風)

「ダメなものは、ダメ!!」
(土井たか子さん風)

投稿: 真魚 | 2008年8月24日 (日) 11時19分

「共同体の解体作業」「共同体意識を持ったほうがいい」
ということばに関し、
保守の方は、「国策」として進めてきた、
と盛んに言うのだけど、
それは本当に国民が「はめられて」解体されてきた
んでしょうかね。
田舎で生きてきた人ならわかるけど、濃淡はあれど
かなり小さな精神的共同体というのはぎりぎり存在して
いる。プライバシーも何もない、
上の世代の言うことは絶対、
自由も何もない、と感じられるような雰囲気の中で
生きている。
おそらく人は自ら共同体を壊してきたんだと考えます。
「よかった昔の共同体に戻ろう」というのは
非現実的なんだと思う。
「緩やかに結びつく共同体」のようなものを
志向する必要があると考えます。

また、若者の愛国心は、日本の経済分野での
苦戦と関係があると考えます。
日本は経済という戦争で非常に劣勢となってきている。

投稿: みつばち | 2008年8月25日 (月) 08時06分

★かせっちさん、

>他にロールモデルとなる国が無くなっちゃったからではないでしょうか<

なるほど。納得です。
昔ばなし「ねずみの嫁入り」みたいな話ですね。
なんだ、結局自分の国が一番良かったじゃないか、と。

投稿: robita | 2008年8月25日 (月) 09時43分

★街中の案山子さん、

>前文から始まって、国会の項の40条ぐらいまで、丸暗記してしまうほど覚えたものです。<

凄い教育を受けられたのですね。筋金入りだ(笑)

>教育、労働、納税の3つの義務が謳われています<

これらは国民として当然の義務で、言うまでもないのですが、私がの言いたいことの趣旨は、「個人」と「国という共同体の一員」のバランスをもう少し改善したほうがいいのではないかという単純なことです。

>またまた民意を無視して、与党の数の力で、舵取りをしていくように考えるのです<

民意を無視して、と仰いますが、そういうおかしな政治状況を作ったのも、「国」の意識がない我々国民の責任だろう、というのが私の考えなのです。
国民は口々に政府批判をしますが、結局は「目前の自分の利益しか考えない国民」が多いからそういう状況になる、じゃないですか? まあ、民主主義というのはそういうものだと思いますが。

でも、愛国心はすでに若い世代を中心に広がりつつありますし、教育基本法にも「国を愛する態度」が盛り込まれたことだし、ま、とりあえずこれでいっか。

投稿: robita | 2008年8月25日 (月) 09時48分

★真魚さん、

あーもうめんどくさ。愛国心アレルギーの人は、そういう仲間で集まって、自分らの共同体作ったらええやんか。で、仲間を増やすためにせいぜい仲間意識を高めて、自分らの共同体を愛し続けていかはったらよろしいねん。

投稿: robita | 2008年8月25日 (月) 09時51分

★みつばちさん、

地域コミュニティは、都市部では崩壊したけれど、地方では根強く残っていますよね。
都会に住む人は、仰るように自らそれを壊してきたと思います。

しかし、「国」レベルでいうところの「日本という共同体」は、アメリカにとって脅威でありGHQはこれを解体することに専心した。
井尻氏の言う解体作業は、日本人から「愛国心」を取り除く作業、ということではないでしょうか。
で、その解体作業を引き継いだのが市場原理主義、と書かれていますが、これがまた矛盾を引き起こしますね。
世界で負けないよう商売するには世界ルールに乗らなければならない、だけどそれは弱者にとっては苛酷な試練となる。
結局、誰も「最善の策」など考えつかないのです。
だけど、日本ならできる、というパトリオティズムが私にはあるんです。
理性や情や我慢強さは誰にも負けない。この日本が科学技術でなおいっそうの力を発揮すればすごいことになる、私はそう思ってるんです。

>また、若者の愛国心は、日本の経済分野での
苦戦と関係があると考えます。<

人間は、困難に出合えば団結しますからね。

投稿: robita | 2008年8月25日 (月) 09時58分

>自分にしか興味がなく周りが見えない人間が増えている、というなら、教育でそれを変えていくしかないと思う。一番の責任は家庭にあると私は思うが、人は親を選べない。ならば学校教育しかない。

いや、学校教育に丸投げしなくても、誰にだって教えることはできるんですよ。何故なら教えるべきことはたった一つしかないんですから。

「他所様にご迷惑をお掛けしてはいけません」

これだけです。難しい教育論も専門知識も要りません。自分の行動がこれに照らし合わせて合致しているか考えよ、ということを何度も問いかけることです。

勿論、この行動原理には功罪両面ありますが、これが日本社会の安定性の基礎になっていることも確かです。というかこれこそが日本人たらしめていると言ってもよい。

そしてこれが個人主義の野放図な拡大によって大きく後退させられていることが、今の日本の不幸。

投稿: かせっち | 2008年8月25日 (月) 23時09分

★かせっちさん、

>「他所様にご迷惑をお掛けしてはいけません」
これだけです。難しい教育論も専門知識も要りません<

仰る通りですね。
これができればなんの問題もありません。
で、たとえば、かせっちさんは、具体的にどのような場面で誰にこれを教えますか。
ブログなんかで、こういうことを発信しますか。
そんなことを発信しているブログを「なるほど」と読んでくれる人々は元々何の問題もないわけです。
心ある人がことあるごとにこういうことを発信していけば、「社会的気運」のようなものは高まる、と考えられるのかもしれません。
しかし、日本人が劣化した、などということはもう何十年も前から憂慮されていて、多くの人が「昔は良かった」と懐かしみ続けているにもかかわらず、モンスターな人々は増え続けているようです。
私は直接には良く知りませんが、社会に出ている人の話や報道などによると、ヘンな人は減るどころか増え続けているという印象を受けます。
非常識な人は減っている、というたしかなデータがあるのなら心配はないと思いますが、実際はそうではないとみんなが思っているんですよね。

崩壊した家庭や地域が常識的人間教育の受け皿となれないなら、それを担うのは学校ぐらいしか私には思いつかないのですよ。

投稿: robita | 2008年8月26日 (火) 09時40分

なるほど、今のご時世、赤の他人の不逞の輩に説教垂れるのは勇気のいることです。それでも自分自身が手本になることはできます。そして自分は他人様にご迷惑を掛けぬよう、日々努力しているつもりです。

そもそも、学校が子供に「他所様にご迷惑を掛けてはいけません」と教えたところで、子供が帰る家庭や地域の人間が他人に迷惑の掛け通しならば、子供も学校で習ったことなど真面目に覚えません。

だから我々大人もやるんです。「他所様にご迷惑を掛けていないか」自問するんです。そして不逞の輩を直接説教できなくても、「あれはいけないことだ」と子供に諭すことはできるはずです。

このことは、学校という他人に任せなければならないようなものではない、寧ろ我々大人が子供に対し率先して行うべきものである、と考えます。

投稿: かせっち | 2008年8月26日 (火) 21時20分

★かせっちさん、

>寧ろ我々大人が子供に対し率先して行うべきものである、と考えます。<

大賛成です。
子どもに説教するより前に我々大人が自分を律しないでどうするのです。
こんなの書いたことあります。 → 「立派な大人」  

地域の再生も重要なカギです。主婦や年寄りにばかりそれを任せるのでなく、大人がみんな地域に関心を持ち、健全な子育てに参加する気持ちを持たないとうまくいきません。
さらには地域と学校の連携を強化することです。
このように、大人が地域の子育てに関心を持ち、自ら身を引き締め、立派な大人になるよう精進すれば、何も学校でことさら道徳なんか教えなくても子どもは立派に育つと確信します。
頑張りましょう。(問題はこの立派な志をどうやって周知させるかということですが)

投稿: robita | 2008年8月27日 (水) 09時26分

robitaさん

またまた、真魚さんは国なんてどうでもいいと思っているから、そんなことを言うのですと思われるかもしれませんか、そのへんの右翼のアンチャンよりも、もっと愛国であるワタシはこう思います。日本国のために、国は教育に口を出さない方が良いと思います。

教育基本法とか、学習指導要領とか、教育委員会とか、そんなものは廃止すべきです。いっそのこと、文科省もなくしましょう。税金のムダです。教育を全国斉一的に管理する、これがそもそも間違っているのです。教育を全国斉一的に管理するようになったのは明治時代からです。そんなものがなかった江戸時代の日本の教育は、その当時の地球上のあらゆる国の中で最高水準でした。この戦後半世紀間の文部省、文科省が行ってきたすべての教育改革は失敗しています。そもそも、国による上からの斉一的な教育改革という発想そのものが教育を破壊するということなのです。あるべき教育というものがあって、それを国が全国の教師たちに従わさせるという教育行政のあり方そのものが今の教育をダメにしているのです。これによって教育が今より少しでもよい方向に行く可能性はまったくありません。

国の管理はもうやらない。政治家と官僚たちは教育について関わらない。学校教育は、現場の学校や教師が行う。これが今の教育を良くする方法です。これが日本国のためです。日本国の国益のために、ぜひともこうやって欲しいものです。

投稿: 真魚 | 2008年8月31日 (日) 11時54分

★真魚さん、

デジャブかな いつか来た道 見た論議(笑)
私たち堂々巡りやってますよねー。

真魚さんたぶん私の趣旨を誤解してらっしゃるのだと思うんです。
今までも書いてきましたが、「教育はすべて国が管理すべき」なんて私言ってないですよ。

じゃあ、言い方を変えましょう。
嫌国教育はやめる、これでどうですか。
例えばずいぶん前ですが、kakuさんもどこかのコメント欄で「嫌国教師は即刻やめさせるべき」と仰っています。
公教育の基本にこれを据える、これでどうですか。
とはいえ、長らくこの国を覆ってきた嫌国、自虐の暗雲はこのところようやく晴れてきましたので、もうそういうことを頑張って言わなくても国の雰囲気自体正常に戻ってきたと思います。
しかし、いつなんどき嫌国勢力が息を吹き返すかわかりません。彼らはしぶとい。通常の愛国心などとてもかなわないほど団結心が強く、仲間愛、同志愛でしっかり結びついています。(その彼らが愛国心を危険視するわけです)
我々はこういう強い結束力を持ったグループにこそ警戒心を持たないといけないと思うのですよねえ。ですから、油断せず、備えをしておくことは大切だと思います。

で、教育の国の関与についてですが、私は元々、地方分権を進めればいいと思っていて、国民生活に関わることは各地方ごとに、そこの住民が望むようにやっていったらいいと思っています。そうすれば自分の住む地域を良いものにしようという意欲も出てきますし、住みたくなるような良い政治を行っている地方には人も集まってきます。
国は外交と防衛だけに責任を持ってくれればいいと思っています。
教育のやり方についても、自主的に決めればいい。
ただ、日本国民としての自覚は不可欠だろうということで、教育基本法にその基本だけは謳うべきでしょう。

>教育基本法とか、学習指導要領とか、教育委員会とか、そんなものは廃止すべきです。いっそのこと、文科省もなくしましょう。<

そのほうがうまくいくんならそうしたらいいと思いますよ。

>そんなものがなかった江戸時代の日本の教育は、その当時の地球上のあらゆる国の中で最高水準でした。<

国民として平等に基礎教育を受けるためには公教育が統一されるのは仕方のないことだったでしょうし、江戸時代の好ましい教育風景は今の時代もう取り戻せないでしょう。人口規模も社会的背景も全然違います。
そういう古きよき時代の教育を「あれが良かった」と懐古し再現することは地方分権の時代になればあるいは可能かもしれませんが、悲しいかな、「優れた師範」が育っていない。これを、日本の戦後国家体制がそうさせた、と私は思っているのですが如何。

投稿: robita | 2008年9月 1日 (月) 10時47分

robitaさん、

いえいえ、ワタシは嫌国教師もあったっていいと思います。また、そんなことを言って、真魚さんも嫌国なんでしょう、日本が嫌いなんでしょう、と思われるかもしれませんが、ワタシはそのへんの右翼のアンチャンよりもずっと愛国な・・・しつこいか(笑)。

「優れた師範」が育っていない、ということについてですが、誰もが「ああ、あの先生は立派だ、尊敬できる」と感じることができる、確固不動たる優れた教師がいるわけではありません。金八先生だって、いいという人もいれば、あんな先生は嫌だという人もいますね。

「優れた師範」というものは存在しないんです。いや、存在しないというか、「優れた師範」というものが「優れた師範」として存在するのではなく、生徒や学生が「ああ、この人はえらい先生だ」と「思いこむ」ことによって「優れた師範」というものが存在しているのです。このへん、ややこしいですが。誰もが認める「優れた師範」がいて、それが若者たちに良き教えを教育するものなのである、というわけではありません。その先生がえらいかどうかは、国とか権威とか教育基本法とか教育委員会とか校長とかPTAとかが決めるのではなく、学ぼうとする側の主観的な判断によって決まるものなのです。

「学ぼうとする側の主観的な判断によって」でも、いい先生っていないじゃないと言われるかもしれません。そのへんはまあ、良き師との出会いというのは、結婚相手との出会いみたいなもので、運とか縁とかそういうところがあります。逆から言えば、そういうもんであって、国の体制とか、日教組が悪いとか、そういうものではないと思います。robitaさんご自身のこれまでの人生の中でも、robitaさんご自身の主観的判断で、良い先生もいれば、そうでもない先生もいたのではないでしょうか。先生って、そーゆーもんです。

投稿: 真魚 | 2008年9月 2日 (火) 00時51分

★真魚さん、

いやあ、寛大な考え方ですねえ。
私もそう思います。
政治家だって、良い政治家もいれば悪い政治家もいて、そんなのは国民がちゃんと見てちゃんと判断するべきだから、政治が機能していないのは国民のせいということになりますから、私は政治家だけの責任にするべきじゃないと思います。
でも国民の死活問題じゃないか、と言われても、それはあなた、そういう政治家を選んだ国民の責任でしょう、と私は言いたいのですが、真魚さんはどうですか。

私が「優れた師範が育っていない」というのは、「良い先生に出会うか出会わないか」の問題ではなく、この日本は戦後、「志」を持った指導者を育てる社会環境ではなかったじゃないですか、という意味です。

江戸時代の師範たちと今の教師たちを同列に並べて、「良い先生もいれば悪い先生もいる」というのであれば、なぜ、真魚さんの仰るように、「江戸時代の日本の教育は、その当時の地球上のあらゆる国の中で最高水準だった」のでしょうか。
国の管理がいけないんだ、と仰ると思いますが、管理をはずして自由にやらせても今の時代良い教育などできないと思いますよ。教師などという面倒くさい仕事を、「子どもは国の宝だ」という強い気持ちを持って引き受けてくれる人、この日本にそんなにたくさん育っているんでしょうか。

そういう人がたくさんいて、その人たちが教師になってくれると仮定するならば、その自由なやり方は成功すると思います。現に色々な地方で独自の教育を行っている学校もあるようです。
地方分権、道州制が実現すれば、それは加速されます。
これすなわち、国の体制の大転換です。

だから、道州制を主張する政治家を議会にたくさん送り込まねばならない。
しかし、国民はそんなことにはあまり関心がなく、ひたすら、「私の生活を、私の給料を、私の老後を」と言い続ける。
政治とはうまくいかないものですねえ。

投稿: robita | 2008年9月 2日 (火) 11時43分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/23183942

この記事へのトラックバック一覧です: 日本を磨く:

« 人類はみな友だち、って言うんなら | トップページ | 「誰にも見せない泪があった」 »