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2008年9月29日 (月)

鈍くて傷つきやすい

メロンぱんちさんのお怒りはごもっともです。 →「余りにも不敬」 

失敬な質問をする近頃の記者は、相手が人間だということを忘れてしまっているのではないでしょうか。

たぶん、テレビやネットなどでの意見発信がより自由により刺激的になってきて、世の中全体が感覚麻痺の状態になってきているのではないかと思います。

個々の単語には非常に神経質で、いわゆる「言葉狩り」に息がつまるような状態でありながら、人の意見そのものは、しまりがなくなってきていると感じます。

何でも言ってやろう、何言ってもいいんだ、総理大臣だってからかってやるんだ、どうだ面白いだろう、なんか世の中がそんな雰囲気です。

先日「TVタックル」での出演者たちの嬉々とした言いたい放題について書きましたが、(昔の政治家は立派だったという幻想)、ストレス解消ならもっと他の方法があるだろうと思います。

ネット上では気が大きくなりがちで、それを通じての意見発信がこういう風潮を助長しているのかな、と自戒しつつ思います。

今、「犯人に告ぐ」(雫井脩介)を読んでいます。
勧められてなんとなく読み始めたのですが、警察の失態に対する記者会見でのつるし上げ、どう答えても責められるしかない質問を執拗にぶつけられる捜査官の苛立ち、そして、叩くだけ叩く世間の風潮に静かに物言う老刑事の「犯人は人間なんだ」という言葉などが出てきます。

たしかに、緩みによる失態もあるでしょうし、憎んでも憎みきれないクズのような人間もいます。許されないことはたしかにある。

でも、何から何まで、面白いから叩いてやろう、では人間社会収拾がつかなくなります。

お調子に乗って人を責めるのでなく、どうしてこうなったのか、どうしてそんなことを言うのか、想像力を働かせる感性を持っていたいものだと思います。

あるワイドショーで、室井佑月という作家が、福岡市の小戸公園で母が我が子を殺害した事件を「ぜーんぜんわかんない。せっかく痛い思いをして産んだのにー」と、あっけらかんと評していました。

ぜんぜんわかんない、って、あんた作家でしょ、と突っ込みを入れたくなりました。

お腹を痛めて産んだ子を殺してしまうには、いったいどんなことがあったのか、よほどのことがあったにちがいない、とかあれこれ想像することはないんでしょうか。

罪は罪として厳しく裁かれるべきですが、作家でなくても、この母の苦しみはどんなものだったのか、事件の裏にあるものを探ろうとしますよ、普通。

コメンテーターとしてはああ言うしかない、というのであれば、作家はコメンテーターなんか引き受けないほうがいいんじゃないかと思います。

今の世の中、人の感性は鈍いんだか鋭いんだかわかんないですね。

たぶん、他人に対しては鈍く、自分に対してはとてつもなく繊細な心遣いをするんでしょう。

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2008年9月28日 (日)

大久保利通

最近、色々な文章に明治の元勲大久保利通が取り上げられることが多いように思う。

大改革が求められる今の時代、旧体制旧勢力と否応なしに闘わざるを得ない為政者の姿を大久保に重ね合わせている。

大久保利通その人に擬えられる特定の人物がいるかどうかわからないが、このところ政権担当した総理大臣全員が大久保のような立場だとも言える。

産経【正論】櫻田淳氏の≪麻生新政権に期待するもの≫ が、今日の日本の姿を簡潔に言い表しているのではないか。

≪「過去と争い、急進な将来と争った」という大久保への評価は、政治という営みの意味、そして政治家の責任を考える上で誠に興味深い。≫

明治維新、第二次世界大戦後に次ぐこの変革期は、「ぐいぐい引っ張る指導力」とか「こうと決めたらブレることなく突き進む」ではなく、たとえ「風見鶏」と言われようが「日和見」と言われようが、臆することなく「屈伸性」や「柔軟性」を保持する「強い信念」が必要だということだろうか。

確かに旧体制と闘うのは大変なことだ。おまけに今の時代、「世論」というやっかいなものを自在に操作する最大の権力マスコミが肥大化しているため、為政者の苦労は並大抵のものではないだろう。私のような素人がちょっと考えただけでも容易に想像できる。
むやみと総理大臣を批判できないのはそういうわけだ。

もちろん批判や異論はなければならないものだから、したい人は人はどんどん物言えばいい。
でも、同情論も一定数なければ、政治家も救われないではないか。

ところで、大久保利通という人は、明治政府樹立の重要な功労者でありながら、西郷隆盛のようには目立たず親しみを込めて語られるということがない。
暗殺されてしまったために政治家としての仕事が半ばであったのだろうか、また盟友西郷を討伐したことなどが理由だろうか。
私も大久保については何も知らなかったが、検索してみると、実に魅力的な人であったようだ。
威圧感に満ちていたのに、家族を大事にする。私利私欲がなく、ひたすら国のために生涯を捧げた。
強い意志と慈愛に満ちた、理想的な政治家だ。

我々もこういう政治家を育てていかなければなりませんねえ。
こういう人材が自然に湧いて出てくるのを期待するだけじゃだめだと思いますよ。

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2008年9月25日 (木)

保険の掛けすぎ

現代は「保険を掛けすぎる時代」なのかなと思う。

「こうなった時心配だから、こういう手を打っておこう」という用意周到さは極めて真っ当な人間の生き方ではあるし、たしかに計画性のなさは不幸を招く。

しかし、時間的空間的に広く世の中を眺めると、「不幸」ってなんだ。「幸福」ってなんだ、と思えてくる。

「不幸・不足」は人を成長させ、「幸福・満足」が退廃につながるのであれば、なんだか禅問答のようではあるが、なぜ人はそれほどまでに、幸福で豊かであろうと必死になるのか。

たしかに、幸福は追い求めて当然の価値である。人はそのために生きるのである。

しかし、先回りして手を打ちすぎて不幸を回避することが「ためになる」ことなのかどうかは、前記事でも指摘したように、なかなかの難問だ。

女手一つで苦労して子供を育てる母親の姿を見て、子供が大きく成長することもある。 →「ヨイトマケの唄」

「家貧しくして孝子顕わる」は、今の時代当てはまらないので、人はそれを過去に求め、教訓にしようとするのだろう。

なぜ人はいつまでもいつまでも、戦争を語り継ぐドラマを造ることにこれほどまでの情熱を傾けるのか、常々考える。

それは、戦争を語り継いで、二度とこういう悲惨なことが起こらないようにしようという反戦の意味があると同時に、この豊かで平和な時代にせめてもの疑似体験をしたい、という渇望によるものだろう。

戦争という一大事業にともなう飢餓や辛い別れや純愛のせつなさや折り目正しい上下関係の好ましさに対する憧れが強いあまりの活動ではないのか、と思ったりする。

それを言っちゃあおしまい、なことを言ってしまいました。

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2008年9月24日 (水)

たまらなくおいしかったもの

戦後の復興期、日本が貧しかった頃、子供だった私が初めて口にしたプリンという食べ物の、この世のものとも思えぬおいしさに驚喜したという話などすると、24歳の娘が「いいなあ。そんな感動を味わってみたい」と羨ましがる。

彼女は「貧しさ」を羨ましい、と言っているのである。

9/18 産経新聞【正論座】(昭和49年1/16掲載)で1973年の石油危機についての、政治学者故高坂正堯のこのような一文を読んだ。

≪_____昨年モノ不足がおこったとき、人々の表情には不思議と生き生きしたものがあった。それは大会社の資材係から、家庭の主婦に至るまで共通していた。
しかし、それは考えてみるとそう不思議ではない。スーパーマーケットに行けば品物がちゃんとあって、それを買い物用の車に放りこんでカウンターにまで行き、カネを支払って帰るという買い物は決してスリリングではない。それは日常性の退屈さを持っている。___中略___それよりもよいモノがあるかどうかわからない買い物のほうがはるかに面白い。「戦後の闇市の買い物は実に面白かった」と私に語ってくれた友人があったが、昨年それに似た感情を持った人がいたのではなかろうか。____≫

「近頃、日本人は別れなくなった。また、別れる人を送らなくなった」、とジャーナリストの徳岡孝夫氏がエッセーの中で書いているそうだ。→ 9/9≪産経抄≫  
携帯電話という、常に人と人を結びつける道具のおかげで、人は「切なさ」の感情の大きな部分を失った。

豊かさ便利さが人の心を貧しくする、なんてもう散々言い古されていることだけれど、世の中をもっと豊かにもっと便利にするために頑張ってきたことが、人間らしい感性を奪ってしまうというのだから、この大きなパラドックスを抱えながら生きる人間の悩みは尽きない。いや、「尽きない」ではなく、ついにどん詰まりに来てしまった、と言うべきか。

ところで、今の世の中は全体的に豊かで便利である反面、経済的格差も開いていて、生活困窮者がなかなか這い上がれないという。

格差というものは、当然昔からあったが、昔の「単純な貧困」と、今の「複雑な貧困」は質がまるで違うので、「今の若者は根性がない。我々の若い頃はもっと貧しかったがくじけなかった。歯をくいしばって頑張った」と、単純に比較するのは的外れと言っていいと思う。

景気や雇用問題は政治が対策を打つべきことだと思うが、以前「見ろよ青い空白い雲」で書いたように、大学生という幸福な身分でありながら未来に希望が持てない状態を、我々はどう考えたらいいのだろう。

「希望」とはなんだろうか。

それは政治に用意してもらうものなのだろうか。

「希望が持てないのは政治の貧困のせいだ」というのは何かおかしい。

9/18産経新聞に「産経志塾」(21世紀を担う若者の人間力育成を目指す)の開塾式での数人の講師の講義の内容が掲載されていた。

その中での、石原都知事の言葉である。

≪若者が生きにくい時代になった。レイモン・アロンというフランスの哲学者に会ったとき、僕が日本の学園紛争を「つまらないことだ」と批判したら、レイモンは「彼らに同情する」と言った。「青春が青春として確認されるための取っ掛かりを、われわれ大人がすべて奪ってしまった」と。____中略____
貧困は、金がなくて本や食べ物に苦労した自分の体験を振り返っても、非常に豊かで懐かしい。そんな経験がない諸君は気の毒だ。____中略___(現代のように情報が労せずしてネットで入ってくる時代は)若い世代は勘違いをしないが、勘違いは本来、大事なことだ。
10代は感性の宝庫だ。人間の一番の価値は地位でも名誉でもなく感性であり、感性が個性や情念を育て、その情念でいろんな仕事ができる。____中略____
どうすればいいかと聞かれたら「趣味を持て」と答えている。俳句でもテニスでもいい。うまくなろうとする工夫が感性を高め、ふくよかな情念と自信を育てる。しかし、「おれはこうしたい」と思っても、職場の秩序や社会の常識が否定することもある。それは敗北ではない。挫折であっても繰り返すことで自我は修練され、強くなるものだ。
当たり前の横並びの人間なんてつまらない。できない人間のほうがよっぽど面白い。自己中心でいい、自分を信じて生きてほしい。≫

「青春が青春として確認されるための取っ掛かりを、われわれ大人がすべて奪ってしまった」とは、私も常々思っている。

レイモン・アロン氏や石原氏の言うのは、「彼らから貧困や苦悩を奪ってしまったために、あのような形で青春のエネルギーを爆発させるしかなかった」という意味だろうか。

それもあるが、もう一つ、例の「通過儀礼」である。

「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳の基本からいえば、例えば学生運動などは、迷惑以外の何ものでもない。
「あの世代」は世間に迷惑をかけたことをいまだに突っつかれ、彼ら自身も後ろめたい気持ちを払拭することができないでいる。
私も以前は「革命ごっこをやっているのか」と冷ややかな目で見ていたものだが、年をとるにつれて、あれは青春の儀式の一つに過ぎなかったではないか、と思うようになった。→「時には昔の話を」 

もちろん、警察を出動させるほどの暴力沙汰を歓迎はしないが、若者につきものの勘違いや暴走やその他諸々を「馬鹿げたこと」として、それをしないうちから抑え込んでしまうのは大人の罪なのではないだろうか。

一方で、「バカな夢など追いかけてないで足元を見つめ、地道な生き方を探ったほうが賢明であり、周りに迷惑をかけないで済む」という考え方もよーくわかるので、大人としてはいったい若者に対してどう接していいか迷ってしまう。

歴史的にも、世界的にも、上の者が下の者の暴走を、ガス抜きとしておおらかな目で許容してきた事実は数多くあるようだが、安全第一の今の時代、それは許されない。

結局、「若者というのはバカなものなんだ」と、寛容な眼差しで見守っていてやれるほど、今の大人は大人でないということなのかもしれない。あるいは、情報過多で複雑すぎる今の時代は、大人も昔のような単純な大人でいられなくなったということかもしれない。

しんどい時代だ。

ところで、「感性を育てるために趣味を持て」と石原氏は言う。

感性が何より大事ということには同感だが、趣味というのは「持て」と言われて仕方なく持つものではなく、興味が湧くからこそ、誰に言われなくても入っていくものだ。

だから、「物事に興味を持つ」というその感性をはぐくむことがまず基本だろうと思う。

それは、親の感性の伝わり方であったり、本を読むことや人との交流とかさまざまな経験であったりするだろうが、最も大事なことはよく言われるように自然現象への興味の涵養だろう。植物や生き物や川や海や空や土など、つまり自然と接することで育まれるものではないかと思う。

バーチャルな世界だけを拠りどころにしていては決して感性は磨かれない。だから私は、パソコンや携帯電話は否定はしないけれど、それらに幼いうちから没入することによって「自然現象」に驚く時間が大幅に減ることを危惧するのである。

勝負は小学校低学年ぐらいまでではないか。

便利なモノにあふれた時代、お行儀良くしていなければいけない時代、そんな時代に、飢えと噴出と破壊が専売特許の若者が自らをコントロールするには何が必要なのか。

感性を育むことが最も大事、というなら、そのためにどういうことをすればいいのか、政治を論ずる前にまずそのことを考えなければならないだろう。

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2008年9月21日 (日)

誰にもわからない

世界的金融不安が広がり、「金融資本主義の限界だ」とか「新自由主義の破綻だ」とかの言葉がよく聞かれるようになった。

そして、新自由主義者の竹中・小泉が進めた構造改革路線がやはり間違っていたのだ、と言う人たちの声が大きくなっている。

中には、「竹中は罪人だ。逮捕だ」などと物騒なことをブログに書く人もいる。

私など、金融や経済のことは何もわからないので、「そうか、小泉改革というのは間違っていたのか」と思うのが正しいのかどうかさえわからない。

昨日の新聞に、東洋大学教授高橋洋一氏の意見が載っていた。テレビで時々見る人だ。

「米国の金融不安などを受け、構造改革路線を『市場原理主義』だと批判する声があるが」という問いかけに対して、高橋氏は「(小泉純一郎元首相が進めた)構造改革は市場原理主義ではない。その証拠に金融システム維持のため、金融機関に公的資金を投入した。民間でできることは民間に任せるが、政府にしかできないことは政府がする考えだ」と答えている。

自民党総裁選に5人が立候補し、それぞれ、国の経済対策について述べている。

「まず景気対策だ」とか「消費税を上げて財源確保だ」とか「構造改革を止めてはいけない」とか、みなさんそれぞれいろいろなことを仰る。

私たち庶民は専門的なことはよくわからないから、どの人が総理大臣になれば景気回復して財政健全化に近づくのか本当はわからない。

庶民どころか、政治家や経済専門家でさえ、どうすればどうなるかの確信などきっとないにちがいない。

だけれども、専門家が色々な意見を出し合って論戦を交わしているのを見て、なんとなく、それこそ「なんとなく」この考えがいいんじゃないか、程度の判断で私たちは政策を支持し政治家を選んでいる。

100年に一度の世界的金融危機だ、などという暗い雰囲気が世界中を覆っても、これから先どうなるのか、何が起こるのか、経済専門家にもわからないみたいだ。事実そう言っている経済評論家をテレビで見た。

それなのに、「我々の考え方が絶対に正しいのだ。小泉構造改革は間違っていた」と言って、「あの一派は全て排除すべきだ」と敵意丸出しで、憎悪に満ちた文章を書き続けているブログなど垣間見ることがあるが、とても怖い。こういう人が指導者になったら粛清とやらいうものが行われるのだろうか。

「金融資本主義自体が間違っていた」という言い方は、「女性の社会進出自体が間違っていた」と同じくらい、みもふたもない言い方ではないかなあと思う。

たぶんこれは間違っているとかいないとかの問題ではなく、資本主義の当然の成り行きであって、世界の中で生きている日本が、世界の成り行きにただ一人抵抗することは不可能だったと思われる。

世界がその成り行きに行き詰まって、「やはり、行き過ぎは良くない。地道に物を作って売る、という素朴な行為を取り戻さなければいけない」という意見が出てくるようになるのだが、果たして人間は元の素朴な生き方に戻れるのかどうか。

女性が家庭に戻って子供をたくさん産み、家事や地域活動に精を出すようになるかどうか、それと同じくらい難しいのではないか。

資本主義が「カネがカネを生む醜い構造」に移行していかないようにする手立てはいったいあるのだろうか。
あるとしたら、それを実行するのはどれくらい難しいのだろうか。

知識のない庶民の素朴な意見だが、変でしょうか。

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2008年9月17日 (水)

マスコミに対抗する静かなる運動

教養と筆力があれば、こんなにも胸のすくような文章が書ける。 →産経新聞 【正論「雅量を欠くメディアの醜態」 芳賀 綏 東京工業大学名誉教授 

上に立つ者の悪口を言うことが知識人の証であるかのように政治家の批判に明け暮れるマスコミ。

マスコミの言説を聞いた大衆はそれを自分の意見と思い込んで、マスコミと同じ口調で政治家や誰それを責める。

マスコミが大衆に与える影響の大きさを考えると、その責任のなんと重大なことか。

マスコミは世論を形成し、国民の質を決定し、その国民の気まぐれによって政治家は右往左往する。

私も知識や教養や論理力が優れていれば、芳賀氏のように、世間のおかしな流れに歯止めをかけることができるものを。
年齢からして今からそれらを身につけるのは不可能に近い。
付け焼刃の知識は次から次へと脳からこぼれていくし、いくらかの知識があったとしても、それを巧みに文章に織り込んで明快な論文に仕上げるのは容易なことではない。

森首相(当時)が「日本は神の国」と発言した時、日本中が大騒ぎになり、「『神の国』なんてへんなことを言わないでほしいです」などと子供までが口にしていた。
芳賀氏が言うように、神道の理解という教養が多くの日本人の身についていれば、あそこまで一国の首相をバカにする風潮もでき上がらなかったはずだ。

人の心を動かすのは教養に裏打ちされた言葉と論理力だ。
教養は若い頃からの積み重ねによって重厚なものとなる。

若い人たちはこれからだ。
決してマスコミが喧伝する薄っぺらな表現を鵜呑みにすることなく、自分自身の教養と経験による自分自身の意見というものを持ってほしい。

我々は、世間で何が起こっているのか、大方のことはマスコミの報道でしかそれを知ることができない。
しかし、その起こった事実を読み解くことや、それに対する人々の反応を咀嚼することは、自分自身でできるはずである。

急がずあせらずゆっくりと知識や教養を身につけ、物事の全体を見る力というものを身の内に育てておけば、マスコミの欺瞞などはすぐ見抜くことができる。

マスコミをぎゃふんと言わせ、少しは正しい道に導いてやるのも心ある国民の仕事ではないのかな。

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2008年9月16日 (火)

テレポリティクス

昨日、本屋さんで、文藝春秋10月号【「福田康夫 その虚像と実像」田勢康弘】に目を通させてもらった。

「虚像と実像」などというと、「表の顔は良いが、実像はこんなに悪い」というのが定番だが、田勢氏の記事はその逆だ。

福田首相にインタビューを行っているが、首相に対する好感、もしくは公平な見方を感じる。

(ざっと斜め読みしただけなので、ちゃんと読みたい方は買ってください)

この中で、田勢氏は「政治に関して大衆は決して賢明とは言えない」と言う。

たとえば、
福田首相は人気がないが、街頭などで、首相のどこが具体的に悪いのか聞くと、「他人事のように話す」という解答が最も多い。
しかし、他人事のようでなく我が事のようにして語れば政治は良くなるのか。】

【内閣の顔ぶれについて感想を聞くと、決まって「パッとしない」という答えが返ってくる。
しかし、「パッとする顔ぶれ」とはどんな顔ぶれなのか。テレビなどでよく目にする顔が揃えてあればパッとする顔ぶれなのか。】

【テレビでキャスターや評論家の怒りを聞いているうちに、それが自分の意見だと思い込んでしまうのだろう】

テレポリティックスという言葉は田勢氏が最初に使い始めたらしいが、まさに大衆はテレビに表れる意見や表現をそのまま取り入れ、特に考えもせずにあたかも自分の意見であるかのように発表する。

よく大衆が使う言葉に「茶番だ」というのがある。
この言葉を使うことで、政治家を冷笑しフラストレーションを解消しようとしているのかもしれないが、どこがどう茶番なのかは実際わかっていない。(私もよくわかってはいないが)
しかしわかるのは、政治家は闘っているのであり、それが政権内の権力闘争や政権を野党に取られまいとするための闘いであるならば、それは必然なのではないかということである。

「自分が政治をやりたい」と思うのであれば、まず権力を手に入れなければならない。そのための闘いが大衆に「茶番」と映ったとしても、政治家はそんな大衆の冷笑にいちいち傷ついたりもしていられないだろう。

記者に「首相の態度は他人事のようだ」とか「パッとしない内閣だ」とか「茶番劇だ」とか言われて、いちいちムッとする福田首相は、きっと生真面目で仮面をかぶることができない性格なのだ。

つくづく政治家に向かない人だなあ、と思う。

北京で金メダルを取った柔道の石井慧選手が、福田首相に面会し、首相を評して;
「腹黒くないから人気が出ないのかな」と言ったそうだが、卓見であるとして田勢氏はこの福田評で文章を結んでいる。

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2008年9月12日 (金)

首相に物申す前に

櫻井よしこさんが怒っている。→産経ニュース【櫻井よしこ 福田首相に申す】国家観なき「雇われ社長」  

「国家としての誇りも自覚もない国は侮られるのだ。この上なく浅薄な友好の言葉しか発しなかった福田首相」と厳しく批判する。

気持ちはわかるが、福田さんにかぎらず、戦後の日本の首相は、誰も国家としての誇りを我々に提示してくれたようには見えなかった。

外交で、毅然たる態度、信念ある対応をとれなかったのは何も福田さんだけではない。

日本の弱みにつけこんで嵩にかかる中国や韓国に多少なりとも気概を見せたのは、小泉さんと安倍さんくらいなものだ。

その他のどの首相が、外国に対して毅然たる態度をとり、言うべきことを言ってきただろうか。

政権を担当する立場にない人々は、毅然たる態度を取らないからといって首相を厳しく責める。

でも、我々国民がすべきことは、ただ責めるだけじゃなく、いったいどうして日本は外国に対して言うべきことを言わないのか。言えないのか。 どうしてそんなことになっているのか。それを本気になって考えることじゃないだろうか。

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2008年9月10日 (水)

共同幻想維持に不可欠なもの

9/6(土)産経新聞“eye”で、≪福田首相「客観」と無念≫ と題して、心理学者の岸田秀氏が、福田首相の「あなたとは違うんです」発言を分析している。非常にわかりやすい。

「日本国のアイデンティティに整合性を持たせるにはアメリカと戦争をして勝つこと」という言い方は聞いたことがあるので、岸田氏はずっと以前からこういうことを言っているのかもしれない。

日本の歴代首相がこの「葛藤を解消できない宿命」を背負ってきた苦労を日本国民は知るべきじゃないだろうか、と思う。

小泉さんは国としてのプライドを強く主張することで日本人の「内的自己」を満足させたけれど、福田さんは現実的路線をとろうとしたが国会対策がうまくいかず国民から支持されなかった、と岸田氏は分析する。

アメリカに対する「復讐心」があるかどうかはわからないが、国の姿勢をあいまいにせざるを得ないことで「誇り」が持てず、そのことに日本人は苦しみ、総理大臣も苦しんできた。これだけは確かだと思う。

こんなことで長年悩み続けた国は世界中探してもないのではないだろうか。

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2008年9月 9日 (火)

昔の政治家は立派だったという幻想

昔の政治家はもっと強靭だった、石にかじりついても「これをやるんだ」という強固な意志で政治をやった、と世間は口々に言う。

しかし、昔の政治は良かったのか。政治家はそんなに立派だったのか。

若い人たちが知らないのはわかる。しかし、私よりずっと年上の政治家や評論家がそんなことを言うのを見ていると「忘却し、懐古するとはこういうことか」と思う。

佐藤栄作は7年以上も首相を続けた、という。どんなマスコミの攻撃にも負けなかった、という。

しかし例えば佐藤が行った沖縄返還の際の密約は、今に続く米軍への「思いやり予算」の問題として、日本を悩ませる。

田中角栄は人間的魅力があって、ブルドーザーのごとく勇猛果敢でエネルギーに満ちあふれていた、という。

しかし派閥の親分としてカネを集めてはバラ撒いていた。

昔の政治家が良かった、というその心は、カネに汚くてもいい、裏工作をしてもいい、力技で物事を決断する政治家がほしい、ということなのか。

昔の国会の騒乱は今より暴力的で醜かったのを覚えている。
政治の裏側は国民にはわからず、汚い取引や裏工作が今より激しく行われていたのではなかったか。

しかし、そういう自民党政治のもとで、我々は高度経済成長を遂げ、豊かさを手にしてきたのだから、非難ばかりもできない。

大衆情報化時代を迎え、週刊誌やネットが騒ぐものだから政府与党は政治の裏を隠すことができなくなり、荒技も使えなくなった。

たしかに昔の総理大臣は在任期間が長かった。
今はすぐに変わってしまうし、辞めざるを得ない状態に追い込まれる。

でもたぶんそれは、昔の政治家が立派だったというより、国民の意識が変わったことに伴って政治の形態も変わったということなんじゃないだろうか。

産経ニュース「一筆多論」≪やはり憲法改正しかない≫(乾正人) を読むと、古い手法で政治をやっていた頃の、ある意味「やりやすさ」を思い起こすことができる。

たしかに海千山千の「やり手タイプ」の政治家は少なくなったし、真面目なお坊ちゃんが首相になる時代だ。

しかし、それを言うなら、国民全体がひ弱になったことも棚に上げてはいけないと思う。

ひ弱になったというより、もしかしたら首相が生真面目になった反面、国民の雰囲気は不真面目になったと言えるかもしれない。

昨日の「TVタックル」はひどかった。

福田首相を晒し者にして引き回し、嘲笑し、そこまで言うかというほど馬鹿にして、出演者全員で笑いころげ盛り上がっていた。

真っ当な批判は私は否定しないけれど、ああいうのを見せられると、「所詮バラエティだものな」とつぶやく以外にない。
しかし、あれを見て影響される人間もまた多いということを念頭において、もう少し低劣さを調整してほしかった。

産経NEWS「正論」≪政治家の「養成」という課題≫(東洋学園大学准教授 櫻田淳) を読み、「筆者は、政治の世界に限らず、罵倒や冷笑で人材が育った事例を知らない」というところに共感した。

櫻田氏の主張する、「一般国民もまた有権者たる資格や意識を自問すべきである」  は同感だ。

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2008年9月 8日 (月)

首相はこうすれば良かった

福田総理の突然の辞任について世の中の人は一様に批判する。
「石にかじりついても続けるべきだ。総理の椅子はそんなに軽いものなのか」という批判ばかりだ。
誰も、「辞めなくてもこういう道があったじゃないか」と具体的なことを言わない。
一般国民ならそれも仕方がないと思うが、政治を論ずるブロガーたち、そして政治家や評論家までがそんな有様では何のために批判しているのかわからない。

櫻井よしこさんは、批判しっぱなしでなく、具体的にこうすればよかったという案を出している。(9/11号週刊新潮連載コラム「日本ルネッサンス」)

「福田首相が日米関係と日本の安全保障を重視するなら、政権放棄の前に、試すべきことがあったはずだ。____中略____新テロ特措法の延長に賛成の議員は民主党にも多い。なぜ彼らに呼びかけなかったのか。
この問題は、党派を越えた日本の問題だ。日米同盟を堅固ならしめ、日本の国益を守るために大同団結してほしいと、氏の政治生命をかけて呼びかける手があった。民主党には30名規模の新テロ特措法を支持する人々がいるはずだ。衆院公明党の31議席にほぼ匹敵する数が、民主党から賛成に回る、回ってもらう、もしくは回らせる可能性を、なぜ模索しなかったのかと思う。」

しかし、70歳を越えた、古いタイプの政治家にそんな発想ができただろうか。いや、たとえ若くてもできなかっただろうと思う。
たとえ、発想があったにしても、そんなこと不可能ではないか。
それは民主党分裂工作を仕掛けるに等しい。

ひたすら政権奪取に一丸となっている民主党の議員に、政権与党に協力してくれと頼んで、なんでYESの返事がもらえるなどと思うのだろうか。
自民党の政権継続につながるようなことにどうして野党議員が協力するだろうか。

たとえ、民主党の中に「国の大事のためには民主党が割れてもいい」と思っている人がいたとしても、それを仕掛けるためには膨大なエネルギーと時間が必要だろうと思う。残された時間はそんなにあったのだろうか。

それをやる勇気がないから、といって福田さんを責めるのならわかる。よくわかる。私もそれぐらいのことしてほしいと思ったもの。
たとえ、自分の所属する自民党を分裂させてでも、国のために動いてほしい、と思ったもの。

しかし、福田さん以外の誰がそういうことができただろうか、と思うと、批判するだけの人はお気楽なものだと思わずにいられない。

総裁選では「世代交代が必要だ」といって若い人も出ている。
この中で、自分の所属する党を壊しても、国のために動く覚悟のある人がいるかどうか。

立候補を表明している若手の棚橋議員が「自民党国会議員の良心を信じていますから」などと言っていたが、国家の一大事は党の結束力の問題ではない。

自民党政権を存続させる、という考えが出発点になっているかぎり、政治を正常化するのは絶対に無理だと思う。

         
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2008年9月 6日 (土)

ブチ切れた

当ブログでは、「惻隠の情」 から始まる昨年9月のいくつかの記事は、安倍さん擁護の論立てになっている。

そして、今回の福田さんの辞任に関しても、私は擁護論を唱える。

表面的な現象だけを見て、浅薄に好き勝手なことを言いたくないからだ。

この二つの事例を比べてみると、「唐突に辞任した」という点と、衆参ねじれの行き詰まりがそもそもの原因というところは共通しているが、首相の心理は大いに違っていると思う。

安倍さんの場合は、病気のまま続けることはかえって多大な迷惑をかける、とのぎりぎりの判断だったと思うが、福田さんの場合は、ある意味「ブチ切れた」とも言える。single40さんが、「首相は短気な性格だ」 と書かれたが、それは事実だろう。

でも、その後、晴々とした顔で、「ぜひ国民がわくわくするような、そしてエネルギーに満ち溢れた自民党を多くの皆様に見せてほしい、そのように思っております。私の総裁としての最後のお願いでございますけれども、この際徹底してやっていただきたい」と両院議員総会で挨拶し、その通り、自民党内が戦いに向けてアドレナリンが噴出し「いざ出陣じゃあ!」みたいな雰囲気になってきたのをみると(政治記者によると本当にそのような盛り上がりを見せているそうだ)、福田さんは、あれを言うために辞任したんじゃないかとさえ思えてくる。

たしかに自民党の支持率は上がり、民主党はかすんだ。

総理はあの後、ぶらさがり会見にも応じず、ひたすら自分の存在を消そうとしているようにも見える。

「それじゃあこうしてやる。見てろよ」と次の展開を用意してから「ブチ切れた」、そんなことだったんじゃないかなあ。

「そんな政界闘争は国民のことを考えていない証拠ではないか」という批判はちょっと待っていただきたい。
国民目線になろうにもなれなかった状況が続いていたのではなかったのか。

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2008年9月 4日 (木)

無責任とは

福田首相の突然の辞任を受けて、新聞もテレビもネットも強い批判で埋めつくされている。
表面に表れたことを見て、「政権を放り出した」だの「無責任」だの言うのは簡単だ。

single40さんの丁寧な分析を読んでいただきたい。→「茨の道」 

見えないところでどんな展開があったのか、本当のところは我々にはわからない。
しかし、どういうことが起こっているのか、どうしてこんなことになっているのか、そこのところに色々考えをめぐらせなければ、批判は薄っぺらなものとなる。

外国のリーダーはたとえ支持率が低かろうが議会のほとんどが野党でも政権を投げ出したりしない、などと言って日本の首相を批判する人もいるが、国家体制も政治システムもリーダーの権限の大きさも違うだろうと言いたい。

「もう少し頑張るべきだった」などと人は言うが、これは、例えば「スポーツ選手が壁にぶつかったが、あきらめずに歯を食いしばって頑張った結果、努力が実を結んだ」といったたぐいの話ではない。
頑張って歯を食いしばってどうにかなるようなことではないのである。

断っておくが、私は福田首相を素晴らしい指導者だと言っているのではない。福田さんだから擁護しているのでもない。

この政治状況では誰がやっても似たような結果になっただろうし、誰が首相でも私は同じ事を言う。よほどひどい人でないかぎり。

「二世のひ弱さ」「わがまま」「迷惑を省みない」「自己中心的」「リーダーの心構えがない」「未熟」などと、あらん限りのいかにもありきたりな言葉をぶちまけてこの政変を批判しているブログなども目にするが、冷静な分析とは私には思えない。

指導者の立場に自分を置いてみる気などさらさらないから、好き勝手なことが言えるのだ。

ひ弱、わがまま、迷惑を省みない、自己中心的、未熟、と言うなら、国民のほうが余程当てはまっているんじゃないか。

政治の劣化より、国民としての劣化を心配するほうが先だと思うよ。

ゆめゆめ忘れまい、国家は国民の姿の反映だということを。

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2008年9月 2日 (火)

老人の知恵だとしたら

他ブログのTBをたどって、こういう記事に出合った。→ http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52022898.html

コメント欄は2ちゃんねるみたいで殺伐としているが、『福田首相の辞任は壮大な「仕掛け」だった』という記事の趣旨は面白い。

福田首相の電撃辞任について、あちこちで「無責任だ」とか「放り投げた」とかいろいろ批判が噴出していて、そういう批判ももちろんあっていいのだけれど、私は、さぞかし苦労しただろうなあ、と同情するほうである。

前記事のコメント欄にも書いたけれど、衆参ねじれで、大連立もできなかったとなると、いかに有能な総理大臣であっても立ち往生してしまうのは仕方がないではないか。

「指導力がない」などと、そういう漠然とした抽象的な言葉を使って人は批判するけれど、どういう「指導」があるのか、具体的には誰も言わない。何も策がないからだろう。

福田さんは実直な人だから、山積した難問を片付けようときっと一所懸命に働いていただろうと思う。

お疲れ様でした、と言いたい。

そして、本当にこれが政界再編への仕掛けだったとしたら、自分の面子を捨ててまでの行動はそこらへんの若造にはできない芸当だろう。

     
          

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