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2008年9月24日 (水)

たまらなくおいしかったもの

戦後の復興期、日本が貧しかった頃、子供だった私が初めて口にしたプリンという食べ物の、この世のものとも思えぬおいしさに驚喜したという話などすると、24歳の娘が「いいなあ。そんな感動を味わってみたい」と羨ましがる。

彼女は「貧しさ」を羨ましい、と言っているのである。

9/18 産経新聞【正論座】(昭和49年1/16掲載)で1973年の石油危機についての、政治学者故高坂正堯のこのような一文を読んだ。

≪_____昨年モノ不足がおこったとき、人々の表情には不思議と生き生きしたものがあった。それは大会社の資材係から、家庭の主婦に至るまで共通していた。
しかし、それは考えてみるとそう不思議ではない。スーパーマーケットに行けば品物がちゃんとあって、それを買い物用の車に放りこんでカウンターにまで行き、カネを支払って帰るという買い物は決してスリリングではない。それは日常性の退屈さを持っている。___中略___それよりもよいモノがあるかどうかわからない買い物のほうがはるかに面白い。「戦後の闇市の買い物は実に面白かった」と私に語ってくれた友人があったが、昨年それに似た感情を持った人がいたのではなかろうか。____≫

「近頃、日本人は別れなくなった。また、別れる人を送らなくなった」、とジャーナリストの徳岡孝夫氏がエッセーの中で書いているそうだ。→ 9/9≪産経抄≫  
携帯電話という、常に人と人を結びつける道具のおかげで、人は「切なさ」の感情の大きな部分を失った。

豊かさ便利さが人の心を貧しくする、なんてもう散々言い古されていることだけれど、世の中をもっと豊かにもっと便利にするために頑張ってきたことが、人間らしい感性を奪ってしまうというのだから、この大きなパラドックスを抱えながら生きる人間の悩みは尽きない。いや、「尽きない」ではなく、ついにどん詰まりに来てしまった、と言うべきか。

ところで、今の世の中は全体的に豊かで便利である反面、経済的格差も開いていて、生活困窮者がなかなか這い上がれないという。

格差というものは、当然昔からあったが、昔の「単純な貧困」と、今の「複雑な貧困」は質がまるで違うので、「今の若者は根性がない。我々の若い頃はもっと貧しかったがくじけなかった。歯をくいしばって頑張った」と、単純に比較するのは的外れと言っていいと思う。

景気や雇用問題は政治が対策を打つべきことだと思うが、以前「見ろよ青い空白い雲」で書いたように、大学生という幸福な身分でありながら未来に希望が持てない状態を、我々はどう考えたらいいのだろう。

「希望」とはなんだろうか。

それは政治に用意してもらうものなのだろうか。

「希望が持てないのは政治の貧困のせいだ」というのは何かおかしい。

9/18産経新聞に「産経志塾」(21世紀を担う若者の人間力育成を目指す)の開塾式での数人の講師の講義の内容が掲載されていた。

その中での、石原都知事の言葉である。

≪若者が生きにくい時代になった。レイモン・アロンというフランスの哲学者に会ったとき、僕が日本の学園紛争を「つまらないことだ」と批判したら、レイモンは「彼らに同情する」と言った。「青春が青春として確認されるための取っ掛かりを、われわれ大人がすべて奪ってしまった」と。____中略____
貧困は、金がなくて本や食べ物に苦労した自分の体験を振り返っても、非常に豊かで懐かしい。そんな経験がない諸君は気の毒だ。____中略___(現代のように情報が労せずしてネットで入ってくる時代は)若い世代は勘違いをしないが、勘違いは本来、大事なことだ。
10代は感性の宝庫だ。人間の一番の価値は地位でも名誉でもなく感性であり、感性が個性や情念を育て、その情念でいろんな仕事ができる。____中略____
どうすればいいかと聞かれたら「趣味を持て」と答えている。俳句でもテニスでもいい。うまくなろうとする工夫が感性を高め、ふくよかな情念と自信を育てる。しかし、「おれはこうしたい」と思っても、職場の秩序や社会の常識が否定することもある。それは敗北ではない。挫折であっても繰り返すことで自我は修練され、強くなるものだ。
当たり前の横並びの人間なんてつまらない。できない人間のほうがよっぽど面白い。自己中心でいい、自分を信じて生きてほしい。≫

「青春が青春として確認されるための取っ掛かりを、われわれ大人がすべて奪ってしまった」とは、私も常々思っている。

レイモン・アロン氏や石原氏の言うのは、「彼らから貧困や苦悩を奪ってしまったために、あのような形で青春のエネルギーを爆発させるしかなかった」という意味だろうか。

それもあるが、もう一つ、例の「通過儀礼」である。

「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳の基本からいえば、例えば学生運動などは、迷惑以外の何ものでもない。
「あの世代」は世間に迷惑をかけたことをいまだに突っつかれ、彼ら自身も後ろめたい気持ちを払拭することができないでいる。
私も以前は「革命ごっこをやっているのか」と冷ややかな目で見ていたものだが、年をとるにつれて、あれは青春の儀式の一つに過ぎなかったではないか、と思うようになった。→「時には昔の話を」 

もちろん、警察を出動させるほどの暴力沙汰を歓迎はしないが、若者につきものの勘違いや暴走やその他諸々を「馬鹿げたこと」として、それをしないうちから抑え込んでしまうのは大人の罪なのではないだろうか。

一方で、「バカな夢など追いかけてないで足元を見つめ、地道な生き方を探ったほうが賢明であり、周りに迷惑をかけないで済む」という考え方もよーくわかるので、大人としてはいったい若者に対してどう接していいか迷ってしまう。

歴史的にも、世界的にも、上の者が下の者の暴走を、ガス抜きとしておおらかな目で許容してきた事実は数多くあるようだが、安全第一の今の時代、それは許されない。

結局、「若者というのはバカなものなんだ」と、寛容な眼差しで見守っていてやれるほど、今の大人は大人でないということなのかもしれない。あるいは、情報過多で複雑すぎる今の時代は、大人も昔のような単純な大人でいられなくなったということかもしれない。

しんどい時代だ。

ところで、「感性を育てるために趣味を持て」と石原氏は言う。

感性が何より大事ということには同感だが、趣味というのは「持て」と言われて仕方なく持つものではなく、興味が湧くからこそ、誰に言われなくても入っていくものだ。

だから、「物事に興味を持つ」というその感性をはぐくむことがまず基本だろうと思う。

それは、親の感性の伝わり方であったり、本を読むことや人との交流とかさまざまな経験であったりするだろうが、最も大事なことはよく言われるように自然現象への興味の涵養だろう。植物や生き物や川や海や空や土など、つまり自然と接することで育まれるものではないかと思う。

バーチャルな世界だけを拠りどころにしていては決して感性は磨かれない。だから私は、パソコンや携帯電話は否定はしないけれど、それらに幼いうちから没入することによって「自然現象」に驚く時間が大幅に減ることを危惧するのである。

勝負は小学校低学年ぐらいまでではないか。

便利なモノにあふれた時代、お行儀良くしていなければいけない時代、そんな時代に、飢えと噴出と破壊が専売特許の若者が自らをコントロールするには何が必要なのか。

感性を育むことが最も大事、というなら、そのためにどういうことをすればいいのか、政治を論ずる前にまずそのことを考えなければならないだろう。

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