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2008年10月31日 (金)

ブルー

就職活動において「内定ブルー」という現象があるそうです。

内定をもらったのに、「これでいいのだろうか」「まだもっと自分に合った会社があるんじゃないか」と不安になって、就職活動を続け、いくつもの内定をもらい、それでもなお「まだまだ」と満足しない心理状態に陥るのだとか。

結婚でも同様のことが起こっているみたいです。 →「独身を続ける男性 不幸な結婚への恐怖」 

この調査はオーストラリアのものですが、日本でも同様のことはあるんじゃないでしょうか。

「自分にとって最良でなければ選択しない」
一生寄り添うべき相手であり、子供を成して家庭を築かなければならない、となると、慎重になるのも当然だと思います。
さらに、愛し合って結婚したのに次々と離婚していく先輩たちを見るにつけ、不安に駆られるのも致し方のないことです。

お見合いで誰もがそれなりの人とそれなりの結婚をしてそれなりの人生を送っていた時代とはちがいますから、今の結婚難は起こるべくして起こっている事態であり、誰にも止めることはできません。

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結婚と違って就職の場合はもっと気楽に考えてもいいでしょうに、内定ブルーだなんて、心配性の若者が増えているのでしょうかねえ。

うちの子供たちも、選び後悔し選ばず後悔し(たぶん)、つまづいてあがいてもがいて(たぶん)、それでも毎日生きてます。

選ぶことも選ばないことも、勘違いも失敗も挫折も、全ての経験に意味があると私は思うのですけどねえ。

金融不安が全世界を覆い、えらいことになっているというのですが、まわりを見回しても、街中を人々が右往左往してあわてふためいている様子もなく、テレビでは相変わらずノンキにお笑いやってるし、スーパーへ行けばモノがあふれていて、誰も飢え死にしていません。

たしかに「家計を工夫して節約しなきゃ」と言ってる人たちと、明日さえ知れぬ危機的事情を抱えている人たちとのギャップはあると思いますが、戦時中の話など親の世代から直接聞いている者としては、母がよく言っていた言葉を思い出します。「戦時中のことを思ったら、どんなことでも我慢できる」

もっと下をみれば耐える余地はある、というのは単純な励ましではありますが、この単純な励ましをあまり人は口にしなくなりました。

戦争の悲惨さを忘れてはならない、二度と過ちを犯してはならない、と人々は言葉を尽くして語り継ぐことに熱心ですが、「あれほどのことを経験し、乗り越えた日本人だ、これぐらいのこと耐えられなくてどうする」という発想はどうも鬱陶しがられるようです。

選ぶ会社を間違えたとしても、命までとられるわけじゃなし。

こういう時代は「頑張ろう!」とむやみに奮起して歯を食いしばるより、やんわり受け止めて機を待つ、流れに身を任せてみる、あるいは発想の転換をする、というのも一つの手じゃないでしょうか。 中島みゆきの「時代」でも聴きながら。  

あの「就職氷河期」の辛酸を舐めた若者たちを思えば、もう少し気楽になれるんじゃないかなあと思うんですけどねえ。

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2008年10月28日 (火)

職業に貴賤ありやなしや

この世は欺瞞で成り立っている。
「成り立って」いるものだから、その欺瞞を言い立てることはこの世のためにならない。

勇猛果敢な呉智英先生は、それでもそれを言い、時々、均衡状態に「破れ」を生じさせる。

たとえばこんなコラム↓

【断 呉智英】職業に「貴賤」あり  

「女性が男性を癒す究極の尊い仕事」としての売春の一面を考えれば一概に「賤しい」と断ずることにもためらいがあるのだが、一方で、少女たちが易々と体を売るようになったのは「貴賤」の意識がなくなったからではないかとも思い当たる。

そうだとすれば、そういった風潮は人権意識が若い世代に行き渡ったこととして歓迎すべきなのか。

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2008年10月25日 (土)

左翼とは何ぞや

私はいつも不思議に思っているのですが、「左翼」の人々こそ「愛国心」を叫ばなければならないはずなのに、なぜそれをしないどころか強硬に拒否するのでしょう。

彼らはいつも政権与党に反対で、「こんなやつらに国を任せられない」などと考えているはずです。
しかし、「こんなやつら」を国会議員に当選させている張本人は他ならぬ国民です。

ならば、彼ら左翼としては、「国民がバカだから、こんな選び方しかできないのだ。国民がもっと国のことを真剣に考えて選挙に行かなければいけない」と考えているはずです。

「国のことを真剣に考える」、つまりこれは愛国心です。

しかし彼らは愛国心を忌み嫌います。

これはどういうことか、う~~~ん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・考えてみたところ、「野にあって国家批判をすること」こそが彼らの楽しみであり、生きがいなのではないでしょうか。

要するに、「反政府」でなく「反国家」ということなのかなあ・・・・・。

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2008年10月24日 (金)

煽られませんよう

ワイドショーなどを見ていると、コメンテーターや街頭インタビューに答える人々のコメントに違和感を覚えることがありますが、ネットの中では健全さが躍動していて頼もしい。

総理大臣の「贅沢」について、テレビの人々は概ね首相批判をしているようですが、ブログ界ではこんなご意見を見ることができます。

メロンぱんちさん 「番記者を疑うべき」  

single40さん  「分相応」  

一知半解さん 「嫉妬心が滲み出ている赤旗記事」 

私がこういったご意見を「健全」と思うのは、私が偏っているからなのかどうか、ただただマスコミの煽りに乗せられないよう気をつけましょう、と願うばかりです。

追記:もう一つみつけました。

ねこまんまさん 「くだらない質問」

「庶民と同じ程度の考え方しかない政治家なんて価値がないと思うんです」

同感です。

要するに、「くだらない質問」だったんですよね。

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2008年10月18日 (土)

高みの見物

私がどうしても宗教を信じることができないのは、宗教がいくつもあるからです。

いくつもあるものそれぞれが真理を語り、それぞれの真理を信者たちは信じます。

宗教は真実である必要がなく、一人ひとりの信仰心に意味があるということなんでしょうか。

私はキリスト教の学校で教育を受け、とても素敵な宗教だと思い(だってクリスマスとかイースターとか楽しい行事がたくさんあるじゃないですか。キリスト教式の結婚式もカッコいいし)、子供を持ってからもたまたま知り合った人たちがクリスチャンだったりして教会に通ったり家庭集会に誘われて参加したりする中でなんとか信じようと努力しましたが、やっぱり神さまを信じることはできませんでした。

仏教の考え方のほうが受け入れやすいのです。

仏教のことほとんど何も知りませんが、輪廻転生とか、因果応報とか、地獄とか、そういったものがなぜかしっくりきます。

それらを真実として信じることはできないけれど、自己を律する規範として信仰することは必要だと思いますし、ほとんどの人はこういう信仰を小さい頃から身につけさせられていて無意識に自分を律してきているのではないでしょうか。

nazunaさんのブログの『占い、「オーラ」、「霊視」 バラエティならいいのか!2 輪廻への恐怖 』を拝読しました。 

「罰が当たる」ということの恐ろしさを教えることが大事なのだ、と素人の私は解釈して、それは本当にそうだと思いました。とても怖いけどとても有難い教えだと思いました。

ところで、私は、そういう「宗教」とは別に、自分にとっての真実を信じています。

それは「自分が消滅すればこの世も消滅する」ということです。  →「追悼 池田晶子様」  

「自分」という主体が存在しなければこの世界を認識することができない、ゆえに「自分」は常に存在しなければならない、ということです。おそらく哲学の偉人たちの本でも読めばそういうことが書いてあるのかもしれませんがめんどくさいので読んだことがありません。

しかし、こういう哲学と「輪廻転生の恐怖」は相容れないので、私の中では全くの別問題として決着させなければなりません。

哲学は科学と同様、「真実」なのでしょう。つきつめていくと、両者は同一地点に到達すると思います。

そういうところから考えると、「人間は古来同じことを繰り返しているのだから、これから先も同じことを繰り返していくだろう」、という予想は間違っているかもしれません。もちろん、短いスパンでは戦争や小康状態や不景気や好景気を繰り返していくでしょうが、もっともっと遠い未来と遠い宇宙に目をやると、人間はまっすぐな一本道をあるところに向かってひたすら歩んでいるのかもしれないなあと思います。

最新の素粒子論だか量子論だかに到達した人間を、「やっとここまできたか」とどこかで誰かが見ているかも知れません。もしかしたら「意外と早かったじゃんか」なんて感心してたりして。

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2008年10月15日 (水)

ビオトープ

もう50年近く前になる。中学に入学して、「生物」という教科の初めての授業で、K先生が教壇に立って開口一番、
「一番下等な植物は何だと思いますか」と問いかけられた。

小学校を卒業したばかりの無邪気な子供たちは次々と手を上げて、思いつく限りの植物の名を挙げていった。どんな植物の名が挙げられたか、今となっては忘れてしまったが、役に立ちそうもない木や道端で見かける草などだった。

子供ながらに、その答えは少しずつ「下等」に近づいて行く。

先生は良いとも悪いとも仰らずに、穏やかな表情で頷きながら、次々と子供たちを指していく。

そういうことを延々続けていくうち、「コケ」、さらに「カビ」という答えが出てきた。

先生はきっと「いいぞいいぞ。もう少しだ」と心の中で思っておられたに違いない。

私はその「カビ」にヒントを得て、思い切って手を上げ、「細菌」と言ってみた。

先生は正解とも何とも仰らなかったが、そこで答えを集めるのをストップして、よく覚えていないが、原生動物の説明を始められたように思う。今思えば、子供自身の考える力で植物か動物か判然としない生き物の領域の理解というところに到達させたかったのではないだろうか。

私は今でも菌類とか原生生物とかがどのように分類されているのかさえよくわからないが、授業時間の大半を費やして先生がひたすら無言で子供たちにアイデアを出させたそのプロセスは非常に貴重なものだったと思っている。

私たちは「あっそうか!」と自分で気づく、今はやりの「aha体験」をしたのではないだろうか。

よくお勉強して知識の豊富な今の小学生ならすぐに、カビだのプランクトンだのいろいろな微生物の名を挙げ、しかもそれらは動物でも植物でもなく第3の分野に属するということまですらすらと答えるかもしれないけれど。

今、学校ではこんな風にのんびりと時間をかけた学習はできないかもしれない。なにせ「ゆとり教育」は子供の学力を大幅に下げたし、親たちは受験のためにできるだけ効率よく沢山の知識を詰め込んでほしいと願うのだから。

もちろん、昔も、のんびりと時間をかけた授業ばかりやっていたわけではない。がんがん演習をやらされることもあった。教科や先生によっても違った。

でも、遠い昔の学校生活を思い出すにつけ、知識の詰め込み授業でもなく、あんなにたくさんの行事があり、それらにかける時間も情熱もたっぷりあって、なぜ今の学生生徒より「学力」があったのだろうと思う。

なぜ昔は「よく学びよく遊び」ができたのだろう。そしてなぜ今はあんなに勉強しているにも関わらず学力が低下し、真の「知力」が育っていないと言われるのだろう。私はこれをとても不思議に思う。

それは、我々昔の人間が、学校時代のことを細部にわたって思い出し、ていねいに検証することからわかってくるのかもしれない。

時間をかけた知力の育成というのは学校だけで行われることではないと私は思う。

それは自然や友だちとの「遊び」の中にあり、「周りの大人との対話」の中にあると思う。

単なる「知識」でなく、「知力」を育てるために、あの生物の先生のような導き方が必要であるなら、そして学校でそれができないのであれば、家庭で親がそれをやればいいことだ。

こんなことを言うとまた「親はそんなこともやらなければならないのか」とプレッシャーを感じてますます子供を持つ意欲がなくなってくるだろうか。

今の親はそんな悠長なことをやる時間も気持ちの余裕もないのだとしたら、それをする意思のある親を持った幸運な子供だけが本物の知性を身につけることができるのかもしれない。

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2008年10月 2日 (木)

民主主義と宗家

「政治を家業にしていいのか」「地盤のない者が新規参入できないじゃないか」「二世三世はとにかく苦労知らずでお坊ちゃんで甘ちゃんで頼りない(あまり根拠のない決め付け)」と、政治家の世襲が批判されます。

メロンぱんちさんは≪「世襲=社会悪である」と言いきれるだろうか≫と仰います。→「世襲制~遺伝子レベルで考えれば」 

どんな政治形態であれ、最大多数の国民が幸せになることが政治の目的であるのなら、「世襲は悪だ」との決め付けは正しくないかもしれません。

政治家が世襲になっていくのは仕方がないことではないか、と私は思います。

政治は世襲にしてはならない分野だ、と言いたいのはわかりますが、考えてみると、当の世襲政治家たちは、果たして「楽して政治家の地位を手に入れた。ラッキー♪」なんて能天気に喜んでいるのでしょうか。

私はよく考えるのですが、親の跡を継いで好きでもない職業につくのはそんなに幸せなことでもないんじゃないかと思います。

もちろん、親の姿を見て「ぜひ政治家になりたい」と子供の頃から志を持っている人もいると思いますが、大抵の場合、政治家の家に生まれた宿命としてそれを受け入れている、ということがあるんじゃないでしょうか。

それは、選挙区の支援者との関係の問題でもあります。

地元後援会の人たちが、渾身のエネルギーと情熱と年月をかけて築いてきた地盤を引き継がない選択は許されない、ということでしょう。

「政治に興味はない」「政治家になりたくない」と言って、それらの人々の汗と努力の結晶を踏みにじるようなことはおそらく、子供の頃から親しくしてきた人々や家族とさえも縁を切るというほどの覚悟がなければできないのではないでしょうか。

これは「宗家」としての逃れられない宿命とも言えます。

例えれば、皇太子が天皇即位を拒否することに似ていなくもありません。そんなことできるわけないだろう、ということです。

政治に「宗家」はおかしいでしょうか。でも現実はそうなっています。
それはその宗家たる政治家一家が悪いのでしょうか。
何が悪いのかといえば、支援する勢力と政治家との癒着関係とも言えますが、その地域の選挙民がそれを望むのであれば、ちゃんと民主主義は機能していると言えます。

single40さんはご自分の記事「老兵は去りゆく」のコメント欄で「八百屋と政治家が同じ論理であるというのが、民主主義の素晴らしいところであります」と言い切っておられます。

世襲議員は、政治家になった以上は一生懸命政治に取り組もうと決意するでしょうし、選挙区だけでなく国全体のことや世界のことも考えながら忙しい政治生活を送ることでしょう。

辛いこともきっとたくさんあると思います。

仕事が大変なわりに受ける批判は激しく、国民の敵のような言い方をされることにひたすら耐えなければならない。

政治家の家に生まれなければ、あんなこと、こんなことやりたかったなあ、と夢想することもあるでしょう。

自由に職業を選べる人間に、世襲を逃れられない宿命を背負った者の気持ちはわからないと思うんですよね。

「世襲」は、地元選挙民への利益誘導という構造的なものだと思うので、それをなくしたいのであれば、地方分権して、地方の政治は地方がやる、ということにすればいいのではないでしょうか。
少なくとも国会議員の世襲は起こりにくくなりますよね。

そうして分権した後、その地方の知事なり議員なりに「地盤引継ぎ」という世襲現象は起こるでしょうか。そうだとしたら、それこそ、世襲は人間社会では当然の成り行きという証しでもあるわけでして。

いずれにしましても、「地方分権」も「親の選挙区からの出馬を禁止」も、実現するのはなかなか難しいことです。民主的にそれを決めなければなりませんから。

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