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2008年10月15日 (水)

ビオトープ

もう50年近く前になる。中学に入学して、「生物」という教科の初めての授業で、K先生が教壇に立って開口一番、
「一番下等な植物は何だと思いますか」と問いかけられた。

小学校を卒業したばかりの無邪気な子供たちは次々と手を上げて、思いつく限りの植物の名を挙げていった。どんな植物の名が挙げられたか、今となっては忘れてしまったが、役に立ちそうもない木や道端で見かける草などだった。

子供ながらに、その答えは少しずつ「下等」に近づいて行く。

先生は良いとも悪いとも仰らずに、穏やかな表情で頷きながら、次々と子供たちを指していく。

そういうことを延々続けていくうち、「コケ」、さらに「カビ」という答えが出てきた。

先生はきっと「いいぞいいぞ。もう少しだ」と心の中で思っておられたに違いない。

私はその「カビ」にヒントを得て、思い切って手を上げ、「細菌」と言ってみた。

先生は正解とも何とも仰らなかったが、そこで答えを集めるのをストップして、よく覚えていないが、原生動物の説明を始められたように思う。今思えば、子供自身の考える力で植物か動物か判然としない生き物の領域の理解というところに到達させたかったのではないだろうか。

私は今でも菌類とか原生生物とかがどのように分類されているのかさえよくわからないが、授業時間の大半を費やして先生がひたすら無言で子供たちにアイデアを出させたそのプロセスは非常に貴重なものだったと思っている。

私たちは「あっそうか!」と自分で気づく、今はやりの「aha体験」をしたのではないだろうか。

よくお勉強して知識の豊富な今の小学生ならすぐに、カビだのプランクトンだのいろいろな微生物の名を挙げ、しかもそれらは動物でも植物でもなく第3の分野に属するということまですらすらと答えるかもしれないけれど。

今、学校ではこんな風にのんびりと時間をかけた学習はできないかもしれない。なにせ「ゆとり教育」は子供の学力を大幅に下げたし、親たちは受験のためにできるだけ効率よく沢山の知識を詰め込んでほしいと願うのだから。

もちろん、昔も、のんびりと時間をかけた授業ばかりやっていたわけではない。がんがん演習をやらされることもあった。教科や先生によっても違った。

でも、遠い昔の学校生活を思い出すにつけ、知識の詰め込み授業でもなく、あんなにたくさんの行事があり、それらにかける時間も情熱もたっぷりあって、なぜ今の学生生徒より「学力」があったのだろうと思う。

なぜ昔は「よく学びよく遊び」ができたのだろう。そしてなぜ今はあんなに勉強しているにも関わらず学力が低下し、真の「知力」が育っていないと言われるのだろう。私はこれをとても不思議に思う。

それは、我々昔の人間が、学校時代のことを細部にわたって思い出し、ていねいに検証することからわかってくるのかもしれない。

時間をかけた知力の育成というのは学校だけで行われることではないと私は思う。

それは自然や友だちとの「遊び」の中にあり、「周りの大人との対話」の中にあると思う。

単なる「知識」でなく、「知力」を育てるために、あの生物の先生のような導き方が必要であるなら、そして学校でそれができないのであれば、家庭で親がそれをやればいいことだ。

こんなことを言うとまた「親はそんなこともやらなければならないのか」とプレッシャーを感じてますます子供を持つ意欲がなくなってくるだろうか。

今の親はそんな悠長なことをやる時間も気持ちの余裕もないのだとしたら、それをする意思のある親を持った幸運な子供だけが本物の知性を身につけることができるのかもしれない。

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コメント

先日聞き、耳に残ったコメントです。
ノーベル物理学賞を受賞した益川先生が文部科学省を訪ねられたときの会話。
「イヤー、最近の親は、教育熱心なのではなく、教育結果熱心なんですよ」と。
全く、だと思いました。
どこの中学だと、T大に何人合格するとか、どこの大学だと大企業に就職有利だとか。
昨今、その系統の雑誌類にしても、教育の質も、どういう結果に結びつくか、見える形にアクセクしている風潮を一刺。

家事は電気製品がやってくれるし、時間ができたから、40年50年前と様変わり、要するに手持ち無沙汰なんでしょうね。

投稿: 街中の案山子 | 2008年10月17日 (金) 12時07分

★街中の案山子さん、

益川先生はずいぶんと鋭く教育批判されたようですね。

>「イヤー、最近の親は、教育熱心なのではなく、教育結果熱心なんですよ」<

でも、これは周りのみんながそうであればどうしてもそうなっちゃうのかな、と思わないでもないです。

より良い学歴、より良い教育を求めて、より高い学校に入れようと親が必死になるのは、そうしなければ幸せになれないからですよね。
「学歴信仰は崩壊した」なんて言われますけど、実際そんなことはないのであって、やはり、より高い学歴があれば豊かになれる確率は増すと思います。

お金がなくても心豊かにしていれば幸せになれるかもしれないけれど、多くの人はお金がないのはイヤなわけです。

自分の家庭だけは受験競争に巻き込まれないぞ、と頑張ってもそれは結局自分だけが損をすることになりかねません。
教育については、日本国内のことですから、教育行政をなんとかすればなんとかなるような気もしますが、人間の欲望は抑えることができませんからねえ。

子供が心身ともに豊かに育つ成育環境(ビオトープのような)を整えてやりたいとは思うものの、社会環境はそれを恐ろしく難しくしています。
しかし、これが人間社会というものでしょうね。この中でたくましく生き抜くしかない。

グローバル経済に似ているなと思います。

投稿: robita | 2008年10月18日 (土) 09時25分

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