« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月26日 (金)

報道は公平に

企業の派遣切りや内定取り消しが批判されています。
大企業なんて内部留保がこんなにあるのに、弱者切捨てだ、冷酷非道だ、と言われます。

内部留保というのは、今まで儲けて貯めてあるお金のことだそうです。

私はこれは、「大企業とて、いつ何があるかわからない。天災もあるだろうし、とてつもない訴訟を起こされることもあるかもしれない。そういう時のために是非とも確保しておかなくてはならないお金なのではないか。そういうものまで使ってしまうことは良くないのではないか」と思っていました。

でも、昨日たまたまつけていたラジオで内部留保の話をしていました。

≪ 今、企業は国際化していて、海外投資家による支えがあって成り立っているところが多い。筆頭株主が外国企業ということも珍しくない。首を切られる派遣社員が可哀想だからといって日本が雇用のために内部留保を取り崩すことは、外国人投資家を納得させるものではない。彼らは「我々の儲けを日本の雇用対策の税金のように使われるのか」と怒り出すだろう。そんなことをすれば誰も日本に投資しなくなる ≫と、こんな説明でした。

また、日本の企業はこれまで従業員の面倒を見過ぎてきたというのです。企業年金など、本来国がやるべきことを企業が手厚くやってきたし、福利厚生の面でも充実していて至れり尽くせりのようなところがあった、と。
でも今は時代が違う。だから一方的に企業だけを責めるのは可哀想だ、という話でした。

そうですねえ。思い返してみればあの温かさが日本人を甘やかしてきたのかもしれませんねえ。

温かい処遇はとても良いことだけれども、「ためにならない」のかもしれません。荒波が襲って来た時、どうしていいかわからず、政治や企業に「なんとかしてくれ」とぶつけることしかできなくなります。

麻生首相がハローワークを訪ねて、職探しの若者に「やりたいことを絞らないとね」と言ったことをマスコミが報道し、「麻生は何もわかっていない。やりたいことを絞るなんてそんなレベルの話じゃないんだ」とあちこちで非難ごうごうでした。私も「この人は何を言ってるんだろう」と思っていましたが、事実はそんなことではなかったようです。
妹に聞いたのですが、若者が「六本木で何かおしゃれな仕事をしたい」と言った後に首相はあのように返したらしいです。ところがほとんどのマスコミはそこをカットし、故意に「麻生はバカだ」という印象を世間に振りまいています。

内部留保の事情だって、私はたまたまラジオで知ったけれど、テレビなどでそういう説明を聞いたことがありません。

マスコミがちゃんと双方の言い分を報道すれば、ほとんどの人は納得すると思います。

今さら改めて言うまでもないことなんでしょうが、マスコミというのは、国民が理性的に納得して落ち着くと困る業界なんですね。
騒ぎ立て、ことを大きくし、社会不安を煽ることによって儲けてる業界、ということでよろしいでしょうか。

この辺のことは、山本大成さんの記事とコメント欄の沢山の方のご意見をお読みになるとよくわかります。

.

           いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.

| | コメント (5) | トラックバック (2)

2008年12月22日 (月)

対立するな

先日のリチャード・クー氏の論文に続き、産経に、竹中平蔵氏の「最も失われた1年」 が掲載されました。

両者の意見は真っ向から対立すると言われてきたようですし、この二つの論文を読み比べてみても、印象としては反対のことを言っているように見えます。

でも、私としてはどっちも正しいんじゃないかと思います。

景気浮揚策も大事だし、構造改革を止めてはならないというのも間違ってはいないのではないでしょうか。

竹中さんは、 ≪構造改革が停滞したために規制緩和が進まず税率も高いままの日本からいかに撤退するか、グローバル企業はしたたかに考えていよう。≫ と指摘していますが、たしかに世界の動きを視野に入れなければ生き残ることはできないでしょう。

大事なことは、クー派とか竹中派とかに分かれて対立することでなく、さまざまな経済対策をいかにすり合わせていくかの努力なのではないのかなと思います。
そのすり合わせこそが至難の業なのかもしれませんが、「日本のため」、この一点でまとまることができれば、そんなに難しいことなのかなあ、なんて思えてきます。

「お国のため」だなんて考えたこともないような国民には、その方向性をもって政治家を見つめ批判し要求を出していくことなんか無理なのかもしれませんけどね。

.

         いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月17日 (水)

エコノミストはいろんなことを言う

野村総研のリチャード・クーさんは、小泉改革の時代には表に出なかったけれど、このところ出番がまわってきたそうです。
昨日の産経新聞コラム「聖杯は何処に」で、「日本の経験伝え恐慌防げ」という文を寄せておられます。

前半の日本の財政のことについてはわからないけれど、クーさんは、「現在の日本の総理大臣、麻生太郎氏は日本経済が抱える問題の本質を当初から完全に理解していた数少ない政治家であった」と、麻生さんを大変高く評価しています。

「麻生首相は日本が世界を正しい方向へ導くためには不可欠な人物なのだ」とも書いています。

もしそうなら、麻生さんを支持しなければいけないじゃないですか。

でも、「麻生さんがこれほど総理としてダメだとは思わなかった。当初期待した不明を恥じる」という専門家もいます。

いったいどっちなんですか。

たしかに、朝令暮改的発言の多さは自信のなさを表しているようだし、「学力のなさ」は、単に「漢字の読み間違い」という瑣末な問題ではなく、いったい、どういう姿勢で人生を送ってきたのだ、という人間性の問題として私はとらえています。そんな不真面目で感性の鈍い人が総理大臣という重職にいったい真面目に取り組むことが可能かどうかという危惧です。

リチャード・クーさんが、いくら麻生さんを褒めようと、それはクーさんがアドバイザーと称して麻生さんを介して自分の考えを広めようとしているだけともとれます。

で、庶民にはクーさんの考え方が正しいのかどうかなんて判断はできません。

ですから、ほんとうに、諸外国が麻生さんの語る日本成功体験談を参考にしようとしているのなら、そこのところをこそマスコミに大きく報道してもらいたいものです。

.

    いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.  

| | コメント (20) | トラックバック (0)

2008年12月15日 (月)

人の気持ち

いまの政治や社会の状態が明治維新前夜に擬えられる昨今、「自民党の役割が終わった」と盛んに言われる。
「日本を共産主義にしないこと」「国民に欧米並みの豊かな生活をさせること」、これが戦後自民党の主なる役割だったが、その目標にはとっくに到達した、というのだ。

しかし、現実を見てみると、不景気は貧しさと格差を生み出し、国民は不満足の状態である。

だから、と、ある人々は力説する 「昔の、あの格差のない、一億総中流意識が持てたあの幸せな時代の政治を取り戻せばいいのだ」と。

私は経済理論を知らないが、それでも、「経済の動きというのは予想がつきにくい。なぜなら『人の気持ち』が大きく関わるから」ということは知っている。

全ての人が傷つき貧しかったスタートラインから出発し、「豊かになる」、この一点で同一の目的を持ってひたすら頑張ってきた時代と、今の時代の人の気持ちは大きく違う。

例えば 「愛の日だけど」 につけられた真魚さんのコメントは戦後数十年の日本人のひたむきさを適切に表現されていると思う。

「あの豊かさを目指した挙国一致」だなんて、今の日本人の気持ちがなんであの頃の人と同じだと思うのだろうか。
経済を理論でしか考えないからそういうことになってしまうのではないだろうか。

価値観が変化しているのだ。

義務の完遂に満足感や喜びを感じた人々(共同体の生き残りのためにはある程度の滅私を受け入れる人々)の時代と、個人的自由に無上の価値を置く人々の時代では経済に与える影響は全く違うのではないだろうか。

例えば、少子化だ。

前に「子どもが忌避される時代」という本のタイトルについて書いたことがあった。このタイトルだけで今の世相を表しているような気がする。

経済評論家たちは、「子どもを3.4人は持ちたいという人が多いのに、経済的な理由でかなわない。安心して子育てできる環境を国が整えるべきだ」と言う。

本気で「子どもを3・4人持ちたい」という夫婦がほんとうにそんなにたくさんいるのかどうか私には感じられないけれど、つまりそれは「子育てが楽ならば子どもがたくさんいるほうが楽しい」という程度のことであって、そんなことなら、特筆すべき少子化の理由などではないと私は思う。

昔は貧乏でもなんでもとにかく子どもを沢山産んで育てた、今は貧乏だから子どもを育てられない。時代の違いなのだ。人の気持ちの問題だ。

しかも、貧乏ではないけれど子どもはいらないというカップルだってたくさんいる。「子どものいない人生を選択する」という例のあれだ。私のまわりにもたくさんいる。

「子育て」を「犠牲」ととらえる人々の時代だから仕方がない。私はそれが間違っているとは思わない。
人の価値観は変化する。変化すればそれに伴う結果だって受容すべきだろうし、その変化に対応する対策こそ重要だ。

住所がないために正規の職業につけない人々がいる、という。
これは家族の崩壊の所産ではないのだろうか。
年老いて身寄りがない人はともかく、まだ若い「ネットカフェ難民」が実家を帰るべき所として頼れない理由はなんなのだろうか。
家族崩壊は政治の責任とは思えないが。

結婚観だってものすごく変わった。

地域社会も空洞化した。再構築に向けて努力している人々はいるものの、担い手は限られており、昔のようなお付き合いや助け合いもできにくい。
地域社会を大切に思う気持ちは、商店街の活性化にもつながるとすれば、これも経済に及ぼす影響はあると思う。

少子化も家族崩壊も地域の空洞化も、すべて人の気持ちの変化に導かれてやってきたものではないのか。

そう考えると、いくら経済理論を振りかざして、こうすればこうなる、などと叫んだところでどうなるものでもないと思うのだが。

人の気持ちは「変えろ」といって変えられるものではない。

もちろん、政治がやるべきことはたくさんあると思う。でもたぶん対症療法に過ぎない。対症療法で充分なのかもしれないが、疲弊はまたすぐやってくる。

こんな価値観の時代に合った政治が何なのかを探るのが重要なのであって、昔の「温かみのある自民党政治」に戻すことではないと思う。

温かさを言うなら、もっと小さい単位の温かさ、家族や友人や地域社会の温かさを頼みにしたほうがいいと思う。人間の土台というのはそういう場で育まれるものだから。

.

        いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年12月12日 (金)

「仕事はなくなるもの」

好景気と不景気は順繰りにやってくるものだ、と理解はしていても、自分自身が不景気の影響をもろに受けてしまうと、それはとてつもなく理不尽なことであり、うまくすり抜けた人々との格差を感じるにつけ、自分の不幸を呪い、たまりにたまった不満は社会や政治への憎悪となって噴き出す。

先日、朝のワイドショーで、司会のみのもんたが、アシスタントの女性に「みのさん、就職活動に苦労している人たちに対して何かアドバイスはありますか」と聞かれ、カメラに向かい「今ね、汚くてきつくてみんなが嫌がる仕事ならいくらでもあります。こういう時こそ、そういう場所で汗を流してごらんなさい」と言った。

この言葉に抗議は来たのだろうか。それとも、視聴者は頷いたのだろうか。

みのもんたのギャラは高額らしい。家業のほうでも稼いでいるらしい。きっととてつもないお金持ちなんだろう。
しかし、彼の報酬はその労働に見合うものだという印象がある。
いったいいつ寝ているのだろうと思うくらい、テレビに出ているし、政治番組の司会者としてもかなりの勉強をしていると思う。
身を粉にして働いていると、私には見える。

皆が皆、みのもんたのようにエネルギッシュに働けるわけではない、生まれつき能力の劣る人だってたくさんいる、ただ真面目に働いて人並みの生活を送りたいだけの純朴な若者たちが可哀想ではないか、政治は何をしているのだ、と情け深い人たちは怒る。

この世に「生存競争」というものがあってはいけないのだろうか。

いや、もちろん、それはあっても、弱者がどんどん死んでいくような社会は人間社会ではないとは思うのだが、それでは、「弱者」とはいったいどういう人たちを指すのだろうか。能力がない、努力しようにもできない、そういう人たちのことを指すのなら、好景気の後にやってくる不況の時、この人たちが困らないように備えを万全にしておくことが求められるのだろうか。

「困らないように」とはなんなのだろうか。

昔の話だが、知人の会社が倒産した。特に才能もなく平凡なサラリーマンだったが、妻と幼い子供たちを抱えた彼は、なりふり構わず、大学卒にしては随分と格下の仕事に就き、必死に働いて妻子を養った。彼の義父(妻の父)は、「情けない、大学まで出ていながら」と世間体を気にしたが、私は「男気があるじゃないか」と思った。
家族は乗り切った。
生き抜くとはこういうことなのではないかと思った。

ノンフィクション作家の久田恵氏もずいぶん苦労したようだ。産経新聞コラム≪家族がいてもいなくても≫で「仕事はなくなるものだ」と題して「こんな時代は、知恵を絞って、社会のすき間を埋めるみたいな仕事を自力で創出していくしかないように思う」と書いている。
人間は「困ること」によって知恵を働かせるようになるし、強さも身につける、という昔からの教訓の見本みたいだ。 →http://www.sankei.co.jp/yuyulife/family/200812/fmy081212002.htm

みのもんたや久田恵がいくらアドバイスをしようと、弱者は弱者。才覚もなければ勇気も運もない。そういう人たちがどんな状況でも困らないようにするのが政治の仕事だと言われてしまえば、それもそうだとは思うのだが。

.

       いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.

| | コメント (9) | トラックバック (1)

2008年12月 9日 (火)

コミュニケーション筋力

どんなことでもそうだと思いますが、間をあけてしまうと、習慣を取り戻すことが難しくなってきます。
風邪をひいてブログをちょっと更新しないでいたら、なんだか文章を書くのが面倒くさくなってしまいました。
別に以前より忙しくなったわけでもないし、書く題材がないというわけでもないのに、習慣が崩壊したというのか、単に年を取って気力がなくなったのか。

悪い習慣は中断していっそのことやめてしまうのが望ましいですが、ブログでの意見交換はたいへん良いことだと思うのでぜひ多くの人に続けていってもらいたいものです。

しかし、ブログから少しの間離れてみてつくづく思ったことは、ネット世論とそれ以外の社会(マスコミ主導)の「世論」との乖離が非常に大きいのではないかということです。

ネットで語られているまともな意見というのを理解している人は、日本国民全体からするとまだまだ少数派なのではないか、と感じるようになりました。

私もこのままネットの意見にあまり接しないでいると、マスコミに良いように操られてしまうのではないか、なんて心配になってきます。

自分では書かなくても、毎日ちゃんとパソコンを開いて色々な文章を読んで頭を鍛えておかなければと思いました。

.

「頭を鍛える」といえば、昨日のTVタックルは、「キレる老人」や「万引きする老人」を取り上げていました。

独居老人が増え、地域社会が崩壊した現代、老人のコミュニケーション能力が低下していて、「感情を抑えられない」とか「寂しさのあまり」、ちょっとのことで激昂したり、お店のものに手を出してしまう、ということが起こるようです。

「暴走老人」の著者である藤原智美氏が言っていましたが、コミュニケーション能力というのは「筋肉」と同じで鍛え続けなければ衰えるのだと。なるほどこれは頷けます。

「筋力」をつけるのと同じように人と接して、喋り、頭を働かせ、コミュニケーション能力を磨き続けることが現代の老人に求められることかもしれません。

頑張ってきた老人にまだ頑張り続けろというのか、と言われそうですが、引退した老人はただただボオッとのんびりしてりゃいい、という時代ではないんですね。

お金がない老人でも、なるべく引きこもらず、地域活動(これはどこでもあると思います)に参加することなどできると思います。

お金がある老人なら、もっといろいろなことができると思います。

そういうことをやるのがいやだ、将来不安があるからお金はなるべく使いたくない、となれば、やはり頭は鍛えられず、「寂しさ」も抱え込むことになるんじゃないでしょうか。

.

     いつもありがとうございます →人気ブログランキング

.

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »