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2009年2月25日 (水)

歯車の一つだって

去年、こんな記事書きました。→「見ろよ青い空白い雲」 

若者が将来不安に陥るのは、今の不況では仕方がないかもしれませんが、悲観ばかりしていても気分は好転しないので、発想転換してみましょうか。

今、末息子が就職活動中です。まだ3年生なので本格活動に入ってはいませんが、背広着て就職相談会なんかに出かけています。

自分がどんな仕事をやりたいのかはっきり固まっていないのでしょう、いまひとつどう踏み込んでいいかわからない状態のようです。

「自分がどういう仕事に就いてどのような自分になりたいのかはっきりしないのなら、『自分』は取り合えず置いといて、いっそのこと国のために働いてやろうか、と思ってしまうのも一つの手かもしれないね」と息子に言ったことがあります。

「国のためというのは政治家や役人になることばかりでなく、小さな会社で、特に自分に合ったことでなくても、やりたいことでなくても、そこに勤めてその会社を発展させるために働く。そうすることがひいては国のためになるんだ、と考えることができれば、立派な志だと思う。そしてそれは結果的には自分の利益となるんじゃないの」と。

その時、息子は何を思ったか突然、「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」の話を始めました。

このアニメーション映画は私も感動した覚えがあるのですが、息子が内容を話すのを聞いて、「そうか、息子は私が言ったことと映画のこの部分に共通点を見たのだ」と思いました。

しんちゃんの父親ヒロシの回想シーンはぐっときます。

≪ひたすら会社のため、家族のために働いた。そこには「自分」はなかった。
 でも、そのことが自分を自立させ、幸せをもたらしてくれた。≫

以前、評論家山田五郎が「自分探し文化のせいで(社会が)こんなになっちゃったんじゃないかと思うんですよね」と言っていたことがあります。
豊かになれば自分探しをしたくもなりましょうが、それでは世の中うまくまわらなくなるんでしょうね。

一昨日の産経新聞「ウェブ立志篇」(梅田望夫)には共感しました。私が息子に告げたこととは少し違うけれども、悲観論を吹っ飛ばすような力強いアドバイスだと思います。

パブリックに徹してみるのも、恵まれた先進国に育った若者の特権と考えたら、ちょっとばかり未来が楽しく見えてくるかもしれません。

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2009年2月23日 (月)

38℃

妹が「この間『久米宏のテレビってやつは』に出演したチュートリアル徳井クンの話が面白かった」と言います。

例えばこんな感じだったそうです。
「近頃の日本人男性は草食動物化している。
 セックスレス傾向にあり、友人の恋人と旅行に行ったりもする(かなりヘンな行動)が、そこでは何も起こらない。」
「知人の女性が彼氏が体を求めてこないので嫌われたのかと心配になったが、嫌いになったわけではなく、その行為の最中に彼女が汗をかくのが気持ちが悪いと言う」

「僕らなんか、行動の原動力はすべて女性。
 かっこよく見られたいから運転免許もとる。デートしたいから仕事も頑張る。
 でも今の若者、そういうことに燃えない。女をゲットするための手段、例えば車に興味ない人も多い。」

そのほか昨今の男性の女性化について面白い発言や報告が色々あったようですが、徳井クンは「日本滅びてもいいと思ってるんですかね」と言ったそうです。
その言い方に、今の日本の男の熱の低さは彼のような若者自身が実感していることなのだろうなと思いました。
これはまさしく政治がどうのこうの、という以前の問題でしょう。

男性がほんとうに女性化し草食動物化しているのなら徳井クンの心配通りこれからもますます子供は生まれにくくなりそうです。

死と隣り合わせの仕事についている男性からはフェロモンが多量に出ているそうです。 
以前、テレビのバラエティ番組で、スタントマンとお笑い芸人「次長課長」の河本さんの二人を、胸の位置に小さな穴を開けたボードの後ろに全身を隠して立たせ、若い女性タレント達に、その穴から匂いをかがせるという実験をやっているのを見ました。 
一人残らず、その匂いの大きな違いを指摘し、しかも、一方の匂いには「抱かれたい」とまで言って嬌声を上げていました。

フェロモンを出していたのはもちろんスタントマンの男性だったわけです。

死を覚悟して戦場へと向かう男たちからはフェロモンがたくさん出ていると聞きます。子孫を残さねば、という本能によるものだそうです。

そうは言っても、今の時代、恵まれた安全圏にいて身の危険を感じない男は草食系であるとしても、不況の影響をもろに受けて生存を脅かされている男がフェロモンを多量に放出しているとも思えません。

未曾有の不況で生存に危機が迫っていても、「決死の覚悟で死地に向かう」という状況とはまた違うものなのでしょう。

もしかしたら「自らの死の先に何かの意味あることが待っている」ということが条件であって、誰かを守るため、あるいは物事を達成するため「死を覚悟して戦いに行く男」と、「自らが生きられないからと絶望する男」では、体内で生成される化学物質は全然違うものなのかな、なんて思います。

さて、現代ニッポンの男にとっての「戦い」とは何でありましょうか。

守るべきものを意識した時、人間は野性を備えた動物になる・・・・、根拠はないけど、近頃の若いモンの草食系化のほんとうの理由がわかるまで、そう思うことにしましょうかねえ。

ね、若者のみなさん、頼むから眉毛細くしないでっ。
眉毛整えたって、男の「いい顔」になんかなりゃしませんて。

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2009年2月17日 (火)

育てられる夫

よく見聞きすることだが、妻に先立たれたり、あるいは入院などで不在になって、残された夫が何も家事ができなくて、「それは妻の責任だ」とか言われたり、妻自身が「私のせいで夫が一人では何もできない人間になってしまった」などと自責の念にかられたりする。

これは非常におかしなことだ。

いったい、いい年をした大人の男を、なぜ妻がそこまで面倒を見なければいけないのか。

妻がいなくなった時のことを考えて、常日頃備えをしておくのは夫自身の責任ではないのか。妻が永久に自分の面倒を見てくれると思い込んでいるとしたら、あまりにノーテンキだ。

妻が「あなたは絶対に台所に入ってもいけないし、掃除洗濯をしてもいけない」と強権を発動して半ば暴力的に夫の家事を禁止しているのならともかく、夫は一人前の大人である。

「お前がいなくなった時のことを考えて俺も家事を覚えようと思う」と、自発的に提案してこそ、自立した大人と言えるのではないだろうか。

ま、ちょっと親切心を出して妻が提案してみるのも温かい夫婦愛が感じられてとても良いけれど。
それでも危機意識が持てないならそれはどうなろうと自己責任である。

妻がいなくなってからあわてるのは、それは妻のせいではない。「自分の育て方が間違っていた」などと母親のような気持ちで後ろめたく思う必要など全然ないのだ。まったくどこまで夫を子供扱いしているのだろう。

これは一人の人間としての危機管理の問題である。

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2009年2月16日 (月)

濃いも薄いも

この間、フジテレビ「とくダネ!」で脚本家山田太一のインタビューをやっていた。
気づいた時にはもう終わり近くで、放映中のドラマ「ありふれた奇跡」についての思いなどについては聞けなかったが、最後にこんなことを言っていた。

「今は『コンプレックス』とは言わないんですね。傷つかないようにするため『個性』と言う。
かつては、コンプレックスそのものが、それを克服する原動力となった。
『ふぞろいの林檎たち』でも、三流大学に通う若者たちがコンプレックスを抱えながら他人との葛藤の中で成長する姿を描いた。
今の時代、みんなで空気を読み合って、当たり障りのない世界を作って、その空気の中で息苦しさを感じながら生きている。」

私も前にこんな文章を書いたのだが(→「傷つきやすい心」)、希薄な人間関係がこういう状況を作ったのではないだろうか。

濃密な人間関係はめんどくさい、ひとりが良い、自由が良い、干渉するな、と人は言い始めた。
そういう人間の気持ちの変化がいろいろなところに影響を及ぼしているような気がする。

私が子供の頃、自宅の近くに父が勤めていた会社の独身寮があった。
週末の夜など、独身者たちが集まってきて、酒を飲んでは騒いでいた。特に父が物分りの良い上司として部下から慕われていたというのでもなかったと思う。
厳しく、うるさく、煙たがられていたはずなのに、そういう場ではお互い遠慮のない会話が飛び交い、酔っ払った父も時には怒鳴り声を上げながらも楽しそうだった。
今から思うと、あんなこと言って大丈夫かなあ、というようなことを、若い社員たちはゲラゲラ笑いながら喋っていた。

上司の家に行って飲むなんて、今の若い人はそんなわずらわしいことしたくないだろう。
昔は若い者には金がなくて、タダ酒が飲めるんなら、ということもあったろうが、そんなことより、年代を超えた人間関係の必要性なんぞ感じない人が多くなったし、まして同じ会社のオヤジなんてうっとおしくて、というところだろう。

あの頃は社員旅行も盛んで、写真など見ると、無礼講の様子がよくわかる。
社員の家族同士も仲良くなれるような交流会が結構あった。

社員旅行も従業員家族の交流も望まれなくなり、上司と飲むより同世代の友人と飲むほうが気楽で楽しい、ということになった。

古き良き時代の日本企業の一面が変わった。

父がよく言っていた。
「従業員とその家族の生活をいかに豊かにするか、わしはそのことで頭がいっぱいなんや」

従業員とその家族がみんな幸せになるために、企業は一丸となり、終身雇用、年功序列を守りながら頑張った。

私の夫の働き盛りのころはまだ家庭的な温かい雰囲気も残っていて、独身時代の夫は上司から結婚の心配もしてもらっていたようだ。

取引先のあの女性はどうだろうか、みたいなこともあったかもしれない。

しかし、今、女性社員に結婚について聞いたりすると「セクハラ」になってしまうのだそうだ。それで昔はあったそういう上司の気遣いも消えていった。

「傷つけないよう」「嫌われないよう」、ぶつかり合いのない薄味の人間関係の中で、人はかえって息苦しい思いをしているように見える。

私はブログも本音で厳しいことを書くことが多いので、きっと言葉の端々に誰かが傷ついたりしてるのかもなあ、などと思う。

不快に思ったらただ傷ついて沈んでしまうより文句を言えばいいのに、と思う反面、喧嘩になるのも厄介だものなあ、と思う。

そう、喧嘩は効率が悪い。修復するのにものすごく時間がかかる。修復できなくてこじれてしまうことだってある。

しかし、その効率の悪さ、時間の経過こそが人間の強さを育てるのもまた事実なんである。

しかし、グローバル競争時代は、効率の悪さ、時間のかかりすぎは致命的だ。困ったもんだ。

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2009年2月 7日 (土)

ホームレスの品格

年末にテレビで見たのだが、神奈川県の湘南地区の砂防林にホームレスの人たちのテント村があるそうだ。

以前はそれぞれ独立して、互いにあまり干渉せず、個々のテントで暮らしていたのが、最近では必要に応じて寄り集まり、助け合いながら生活を続けているとのこと。

カメラが映し出す「家」の中は生活必需品が一応整っており、料理もできるようになっている。

粗大ゴミ置き場などから調達してきた品々なのだろう。自転車も持っていて、集めた空き缶を業者に売りに行く時などに使っている。

「畑」も耕し、少しばかりの野菜も栽培している。「去年植えつけたんだけど」と言って山芋を掘り出し、年越しそばのとろろに使っていた。

空き缶を要領よくまとめて自転車に積む様子、おかずが足りないといって池の鯉を釣って調理する手際の良さ、働き者だなあと思う。家でぬくぬくとコタツに入ってみかんを食べながらテレビを見ている自分が恥ずかしくなるほどだ。

とろろそばをおいしそうに啜りながら「誰にも頼れないからね」と言うグループのリーダー格の男性は年金も受け取っていてみんなの生活費の足しにしているということだった。

国有地に勝手に住みつくのは違法ではあるけれど、その生活様式は人間の基本であり、何にも頼らず、誰のせいにもせず、自給自足を実践している人々、のように見える。生活保護を受けていないので、税金を空費しているわけでもない。砂防林の中だから外界から隠れているようで、都会のダンボールハウスと違って見苦しいということもなさそうだ。

「誰にも頼れない」という言葉からは、歩んできた人生の結果責任は自分で負うという矜持さえ垣間見える。

もちろん、こういう人々が増加すればそれは秩序が乱れたり経済発展の妨げにはなるだろうが、このグループだけを見る限り、ホームレスでもなくもっと恵まれているのに無気力な人っているよねー、と思うと、こちらのほうが前向きだ。

あのように住まいも手作りし、厳寒の中、手際よく仕事ができる人たちならば、たぶん人間関係をうまく築けないとか、家族崩壊のあおりを食ったとかの理由だけであそこに行き着いたのかもしれない。

湘南テント村の人たちはこれからどうなっていくのだろうか。

この生活から抜け出してどこかに勤め、普通の生活をしたいと考えているのかどうか、そういうことについては語られなかった。

自分たちなりの納得の仕方で、このまま一生この生活をまっとうすることができるのだろうか。

先のことまで考えた末、覚悟を決めているのだろうか。

いったいこの人たちを普通の社会に引き戻そうという努力はされているのか、それともあれは彼らの望んでいることで、その自由人としての意思が尊重されるべきなのか。

ずっと昔、まだ私が20代半ばの頃、山田洋次原作の「放蕩一代息子」というテレビドラマを見た。江戸時代の話で、渥美清演じる大店の跡継ぎ息子が放蕩三昧の挙句、河原の橋の下のホームレスに身を落とし、それでもなお、めげることなく河原乞食なりの生活を仲間とともに大いに楽しむ、という筋だった。結末となるシーンを見た時、目からウロコが落ちる思いがしたのを覚えている。

資本主義の暴走がもたらした今の世界情勢の中、誰もが「幸せはお金では買えない」「小さな幸せこそが人間性を豊かにする」「幸せはそれぞれの心が決めるものだ」と口々に強調し始めた。

飽くなき欲望こそが人間社会が衰退しないための原動力であるのを忘れたかのような数々の言葉ではあるが、小さな幸せが大好きな私としてはそういう幸福観を好ましく思う。

たとえホームレス生活であろうと、本人たちがある程度満足し、納得しているなら、いったいどういう理由でそれを批判できるのだろうか。

幸せとは何か、という哲学的な問題である。

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2009年2月 4日 (水)

女子高生の品格

10年前、高校受験を控えた娘のため、色々な高校を見学して廻っていた。

中学のPTAが企画した高校めぐりツアーに参加したり、娘と一緒に文化祭へ行ってみたり、単独で訪問したりした。

その頃でも、髪を染めたり、化粧をしたり、スカートを短くしたりのファッションがどの高校でも普通であり、学校側もあきらめたのか、たいした問題ではないと判断したのか、「高校生らしい服装を心がける」などという指導は行われていないかのような風潮だった。

そんな中、ある女子校を訪問した時、校門の前で一人の女学生に遭遇した。

授業が行われている時間帯だったから、何らかの事情で遅刻を余儀なくされたのだろうか、彼女はこちらにちょっと会釈をしてからゆっくりとした足取りで校舎に消えて行った。

彼女のオーソドックスなデザインのセーラー服のスカートはちょうど膝が隠れるくらい。化粧ももちろんせず、眉も整えていない。髪を三つ網にして後ろにたらしていた。

美しかった。

思わず駆け寄って手を握り「ありがとう!」と言いたくなるほどの品格ある女学生ぶりであった。

事務所で少し説明を聞いた後、帰る時に他の2・3人の生徒を見かけたがみんな同様の雰囲気を漂わせていた。今はどうなっているだろうか。

「生徒の自主性」を重んじる人たちは、そういう学校の生徒を見て、「強制に甘んじている」とか「飼いならされている」とか思うのだろうか。

新潟のある高校は日本一スカート丈が短いので、改善するべく先生が指導するかどうするか検討中というニュースを見た。

厳寒の冬でも、パンツが見えるような短いスカートをはいて通学しているとのこと。

なぜそうまでしてスカートを短くするのかと聞くと、たいした理由はなく「みんな短いし、これが普通だと思ってるから」と女子高生たちは臆面もなく答えるのだ。

自主性がないのはこっちも同じか。校則を守っているほうが自己抑制の能力があって立派なような気がするが。

こういうのを見て、「若い時しかできないからね。スカートが短いくらい可愛いもんじゃないの。やりたいようにやらせてあげれば」などと言って、「理解ある大人」「柔軟な大人」を装う人が多い。

それはたぶん、自分もへんてこな格好をしたり、羽目をはずしたりの生活を続けたいからかもしれないと思う。

自分が品格がないのに若い者にだけお行儀の良さを求めるのが後ろめたいからかもしれない。

大人と子どもの間に生活様式や文化の違いがあった時代はそんなこと心配しなくても良かったのにねえ。自由と平等って厄介なもんだ。

時代が変わってさまざまな価値観が変わるのは仕方がない。豊かで便利になって人の生活様式が変わるのも仕方がない。多少の緩みは生じるものだろう。

でも、美しいとされるものの基準まで根本から変わってしまっていいのだろうかと思う。

くしゃくしゃの茶髪で大人と同じ化粧をして短すぎるスカート丈の制服を着てだらしなくうろついている女子高生は美しくない。

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2009年2月 3日 (火)

おばさんの品格

フジTVのドラマ「ありふれた奇跡」(脚本 山田太一)を毎週楽しみに見ている。
過去に死にたいと思った経験を持つ若い男女の心の交流を描いたものだが、内容はさておき;

主役仲間由紀恵の祖母役の八千草薫についての記事が新聞の日曜版に出ていた。

「年齢を重ねても永遠にかわいい女性、と言われ続ける女優さんの代表格ではないだろうか」と書かれている。

ちょっと前までは、お婆ちゃんというには雰囲気が若すぎるし、かといって恋愛ものを演じるにはたしかに年を取りすぎているので、なんだか中途半端で、どっちつかずの髪型やお化粧はお嬢さんだかおばさんだか判別に困るような立ち居地を表していた。

しかし、78歳になった今、若々しく可愛いお婆ちゃん像はすっかり定着し安定感を見せている。

芸能界に限らず、この頃の女性は本当に若い。

栄養状態も良いし、生活は便利だし、社会進出の刺激や美容業界の扇動は若さ維持願望のお膳立てをする。

このままでいくと世の中には「お婆さんらしいお婆さん」がいなくなってしまうのではないかと思うほどだ。

ただ、年齢不相応な厚化粧や人工的に造作の手直しをするのは見苦しい。

無理な若作りすることなく、品よく適正に年を取った女優といえば、今ちょっと思い浮かぶのは、八千草薫の他、草笛光子、富司純子、前田美波里、などだ。

彼女たちは老けていない。若々しいのに、無理して若作りしていない。しかも年相応の貫禄がある。

ほんとうに枯れたお婆さんになる前段階として、ああいう颯爽とした年配女性をお手本にしたいものだ、と思うが、彼女らが持つ堂々たる熟年の魅力は、長年の積み重ねによるもので、決して付け焼刃でないということだろうか。

彼女らの人生そのものがああいう大人の女性の雰囲気を醸し出しているのだろう。

40年、50年の積み重ね・・・・・、もう遅いか。

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