濃いも薄いも
この間、フジテレビ「とくダネ!」で脚本家山田太一のインタビューをやっていた。
気づいた時にはもう終わり近くで、放映中のドラマ「ありふれた奇跡」についての思いなどについては聞けなかったが、最後にこんなことを言っていた。
「今は『コンプレックス』とは言わないんですね。傷つかないようにするため『個性』と言う。
かつては、コンプレックスそのものが、それを克服する原動力となった。
『ふぞろいの林檎たち』でも、三流大学に通う若者たちがコンプレックスを抱えながら他人との葛藤の中で成長する姿を描いた。
今の時代、みんなで空気を読み合って、当たり障りのない世界を作って、その空気の中で息苦しさを感じながら生きている。」
私も前にこんな文章を書いたのだが(→「傷つきやすい心」)、希薄な人間関係がこういう状況を作ったのではないだろうか。
濃密な人間関係はめんどくさい、ひとりが良い、自由が良い、干渉するな、と人は言い始めた。
そういう人間の気持ちの変化がいろいろなところに影響を及ぼしているような気がする。
私が子供の頃、自宅の近くに父が勤めていた会社の独身寮があった。
週末の夜など、独身者たちが集まってきて、酒を飲んでは騒いでいた。特に父が物分りの良い上司として部下から慕われていたというのでもなかったと思う。
厳しく、うるさく、煙たがられていたはずなのに、そういう場ではお互い遠慮のない会話が飛び交い、酔っ払った父も時には怒鳴り声を上げたりしながらも楽しそうだった。
今から思うと、あんなこと言って大丈夫かなあ、というようなことを、若い社員たちはゲラゲラ笑いながら喋っていた。
上司の家に行って飲むなんて、今の若い人はそんなわずらわしいことしたくないだろう。
昔は若い者には金がなくて、タダ酒が飲めるんなら、ということもあったろうが、そんなことより、年代を超えた人間関係の必要性なんぞ感じない人が多くなったし、まして同じ会社のオヤジなんてうっとおしくて、というところだろう。
あの頃は社員旅行や宴会なども盛んで、写真など見ると、無礼講の様子がよくわかる。
社員の家族同士も仲良くなれるような交流会が結構あった。
社員旅行も従業員家族の交流も望まれなくなり、上司と飲むより同世代の友人と飲むほうが気楽で楽しい、ということになった。
古き良き時代の日本企業の一面が変わった。
父がよく言っていた。
「従業員とその家族の生活をいかに豊かにするか、わしはそのことで頭がいっぱいなんや」
従業員とその家族がみんな幸せになるために、企業は一丸となり、終身雇用、年功序列を守りながら頑張った。
私の夫の働き盛りのころはまだ家庭的な温かい雰囲気も残っていて、独身時代の夫は上司から結婚の心配もしてもらっていたようだ。
取引先のあの女性はどうだろうか、みたいなこともあったかもしれない。
しかし、今、女性社員に結婚について聞いたりすると「セクハラ」になってしまうのだそうだ。それで昔はあったそういう上司の気遣いも消えていった。
「傷つけないよう」「嫌われないよう」、ぶつかり合いのない薄味の人間関係の中で、人はかえって息苦しい思いをしているように見える。
私はブログも本音で厳しいことを書くことが多いので、きっと言葉の端々に誰かが傷ついたりしてるのかもなあ、などと思う。
不快に思ったらただ傷ついて沈んでしまうより文句を言えばいいのに、と思う反面、喧嘩になるのも厄介だものなあ、と思う。
そう、喧嘩は効率が悪い。修復するのにものすごく時間がかかる。修復できなくてこじれてしまうことだってある。
しかし、その効率の悪さ、時間の経過こそが人間の強さを育てるのもまた事実なのだ。
しかし、グローバル競争時代は、効率の悪さ、時間のかかりすぎは致命的だ。困ったもんだ。
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コメント
「セクハラ」「パワハラ」等と一言言われただけで、その人の社会人生活は、一気に破滅してしまいます。
言葉に、行動に常に臆病にならなければ、現代社会の中で生きては行けません。
最近の若者は大人しいとか、根性がないとか言われますが、私は決してそうは思いません。
生き辛い社会を作ったのが、そう言っている大人だという事も事実。
かといって、昔の時代の方がいいのかと言われればそれはまた別問題。いまも悪いもんじゃない。
人間関係、企業存続、競争力等、それぞれに良い悪いがあります。
まあしかし、文句をいったところで、この社会が変わるはずもなく、この状況を受け入れ、その中でなんとか生き抜いていく術を見つけるしかない。
生きていくためには、働かなきゃならない。
ブログの文章、そのとおりだと思います。
難しいもんですよねぇ・・・。
by 本日休暇のサラリーマン
投稿: しがないリーマン | 2009年2月16日 (月) 19時00分
★しがないリーマンさん、
はじめまして。コメントありがとうございます。
>言葉に、行動に常に臆病にならなければ、現代社会の中で生きては行けません。<
そうですね。神経質にならざるを得ない社会になってしまいましたね。
>生き辛い社会を作ったのが、そう言っている大人だという事も事実。<
たしかに社会の風潮や情勢というものは前世代に責任があるとも言えますが、ただ、こうなろうと思ってそうしたわけでなく、善意の結果こうなったということもあるのではないでしょうか。
まさに、今の社会は「傷つけないように」「悩ませないように」「安心安全に」「豊かに」、そうした気遣いがもたらした結果とも言えます。
>かといって、昔の時代の方がいいのかと言われればそれはまた別問題。いまも悪いもんじゃない。
人間関係、企業存続、競争力等、それぞれに良い悪いがあります。<
仰る通りですね。
>この状況を受け入れ、その中でなんとか生き抜いていく術を見つけるしかない。<
同感です。
私もこのブログでたびたび言っているのですが、今起こっていることは「当然の成り行き」だと思うのです。
資本主義の限界も、人間が傷つきやすくなったことも、すべて意味があると思っています。
だから、自分なりに道をみつけて歩いていくしかない、そう思います。
投稿: robita | 2009年2月17日 (火) 10時25分
「コンプレックス」を「個性」と呼び変える所まではまだ理解できるのですが、個性と呼ぶのであれば何がその子供の個性かを明確にするための「競争」という名の「モノサシ」が無くてはならないように思います。
比較自体を無くしてしまったのでは「個性」を自覚する場がないわけで、発憤する場など生まれようが無く打たれ弱い人間とも成ってしまう。
結果そう言う経過を辿って社会に送り込まれるのですから、本気のぶつかり合いだの濃い人間関係などもできる要素が無く、上っ面だけの人間関係しか出来ずますます孤独感に苛まれる。
「可も無し不可も無し」がよいと思っているから、少し刺激される言葉のみで容易く傷つき自己防衛のために声を大にして主張する。
なんか変な世の中ですね...。
投稿: 山本大成 | 2009年3月10日 (火) 11時45分
★大成さん、
>なんか変な世の中ですね...。<
昔を知ってる者からするとたしかに変なんですが、今の時代しか知らない若い人たちには、これが普通なんでしょうね。
でも、「傷つけないよう」「個性を大切に」「喧嘩をしないで仲良く」、そういうことが無上の価値であると信じてそういう環境作りをしたのは大人の世代なんですよね。
投稿: robita | 2009年3月11日 (水) 10時08分