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2009年3月31日 (火)

キャラクターが気に食わない

久しぶりに 無党派さんの記事を読んで、私たち国民は政府与党がどんな対策を打っているのかもっと冷静にみつめるべきだなと思った。

たぶん、麻生さんを支持しない国民の多くは、「あの人が嫌い」程度の気持ちしかないんじゃないだろうか。

私自身も、天下り問題に消極的だったり、ポリシーのない定額給付金問題やらで、麻生さんに不信感を持っていたのだが、そういったこと以前の「あのキャラクターが嫌い」というのが大きいような気がする。

今は何より国内景気対策が優先されるべきなのだろう。そのためには、古い体質に逆戻りしつつあるように見えることにも少し猶予の気持ちが必要なのかもしれない。

嫌いな人でも、経済を立て直す実力のある人なら、支持したほうが国のためになる。

「好き嫌い」で政治家を選ぶこともあるけれど、貧乏が続けば、好きな人でもずっと好きでいられるかどうかわからない。

恋愛や結婚に似てるかもしれない。 ・・・・ちがうか(笑)

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2009年3月25日 (水)

昔ばなし

産経新聞コラム【断層】呉智英 ≪それ、いつの時代の話?  ≫   を読み、手元にあった週刊新潮を開いてみると、たしかに、「トイレ」の記述があった。
呉先生の仰る通りだ。

こういう指摘を、私は、細かいことだとは思わない。
小説を読んだり、ドラマを見たりすることは、それがあたかも事実であるかのような感覚を抱きながらその中に入り込んで喜んだり悲しんだりすることに意味があると思うのだが、その時代にありえない表現が出てきたりすると一気に興ざめしてしまう。

私はこういう興ざめをよく経験するのだが、不思議なことに呉先生のような指摘をあまり聞かない。誰もが「細かいこと」と、気にせずにいるのだろうか。

その時代のことを直接知らない若い世代が気にしないのはわかる。しかし、読者や視聴者は若い世代だけではない。むしろ、中高年の人の数は若い世代よりずっと多いのである。その時代のことをはっきりと覚えている人々はまだたくさん生きている。

たとえば、戦中戦後のドラマなどで、子供が嬉しがって「ヤッターッ」と叫ぶ場面があるが、あんな喜びかた、私の子供の頃は誰もしなかった。

同じくその時代、「しれない」を省略した「・・・かも。」という言い方はなかった。
私ははっきりと覚えているのだが、この「・・・かも。」で止める言い方は、越路吹雪、淡路恵子、岸田今日子、横山道代の4人の女優が共演したテレビドラマから大流行した「かもね」という言い方から転じたものだと思う。
このドラマは昭和40年くらいのものである。 当然、昭和20年代ににはなかったにもかかわらず、今日の脚本家はそれを俳優に言わせる。

まあ、この程度なら「ちょっと変」で済ましてもかまわないが、俳優の髪型や化粧や、一番気になるのは、男優の眉毛だ。

先日のフジテレビ開局50周年記念番組「黒部の太陽」は、良くできた作品だと私は思ったが、土方の中に、眉毛を綺麗に整えてるのがいた。

あのころ、眉毛を整える男なんて、シスターボーイと呼ばれた丸山明宏(美輪明宏)ぐらいじゃなかっただろうか。美輪先生、なんとか言ってくださいよ。

時代小説などになると、その時代をリアルタイムで知っている人は完全にいないのだから、少々事実と違っても気にしなくてすむ。
昭和2.30年代というのは、もう「歴史」の域に入ってしまったのだろうか。
でも、当時のことを知る人間がまだたくさん生きているうちは、なるべくそういう人たちの意見を聞いてドラマ制作にあたったほうが作品に真実味が増すと思う。

インターネットの時代は、普通の人が「昔はこうだった、ああだった」といくらでも世間に向かって発信できる。
若い世代の知らないことを語り伝えるために、高齢者こそインターネットを利用するといいと思う。高齢者があれこれ意見を出し合い、記憶違いを指摘し合い、収斂された情報を次世代に残していけばいい。

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2009年3月17日 (火)

おばあちゃんのチェロ

映画「おくりびと」で、主演の本木雅弘がチェロを弾く姿が凛々しく美しい。

10年ほど前、ほんの少しだけチェロを習ったことがある。

生活に少し余裕が出てきた頃であり、チェロの音色が好きで、何か簡単な小曲でも弾けたらいい、できればバッハの「無伴奏チェロ組曲」とか、ブラームスの「弦楽6重奏曲」とか目指したい、とか思っていたのである。

弾くこと自体はとても楽しく、小規模ながら発表会にも参加した。

そのうち時間も費用もうまくコントロールできなくなり、また、余裕ができたら再開しようという軽い気持ちでいったん休むことにした。

そして、10年があっという間に過ぎた。

チェロの演奏を見聞きするたび、気持ちが動くが、たぶんしばらくは再開できそうにない。

ずっと前、新聞で次のような読者投稿を読んだことがある。

【知人の結婚式に出た。70才を過ぎてピアノを習い始めた花嫁の祖母が「花嫁人形」を弾いた。感動的な披露宴だった。】

私は孫が結婚するまで生きているだろうか。子供たちがまだ結婚してもいないけれど。

おばあちゃんが孫の結婚式に祝福の曲を弾いてあげるなんてなかなか良い光景だと思うが、未来の結婚披露宴はどんな形になっているかわからない。
おばあちゃんの出番などないかもしれない。

通信販売の安物にしては、「悪くないですよ」と調律師に褒められた健気なチェロは部屋の片隅に立てかけられたままだ。

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2009年3月16日 (月)

変わらずに変わる

シニアクラブでは、奉仕活動として、夕方から夜にかけての地域パトロールや駅周辺のゴミ拾いをやっている。
朝、通勤の人たちが駅に急ぐ中、みんなで手分けして袋とゴミバサミを持って作業をしていると、時々「おはようございます」とか「ご苦労様」とか声をかけていただく。
引退したら後を引き受けてくれる人たちになるかもしれない。
無言で通り過ぎていく若者たちだって、そのうちの何人かは「むやみにゴミを捨てないようにしよう」と思うかもしれない。

一週間に一回ゴミ拾いをしたって次の日には同じようにゴミは捨てられることを考えると、街を常に綺麗に保つことにはあまり役立っていないかもしれないが、蛍光色の揃いのベストを着て作業をすることは効果的なデモンストレーションになっていると思う。

産経新聞コラム「新饗地」でヴァイオリニスト葉加瀬太郎氏の文章を読んだ。 →「清潔で安全で少し病める国」 

外国にある程度長く住んだ人は、葉加瀬氏の言う「この日本という国がどれだけ清潔で、安全で、何においてもしっかりしているということ。こんなにきちんとした国はどこにもないだろう。」ということを実感するのではないだろうか。

私などは、周りを巻き込んで萎縮させるような清潔好きでもないし、謹厳実直を人に強いる資格など皆無の人間ではあるが、日本人の特性と言われる恥の文化はとてもいいものだと思っている。
きちんとしていなければ人さまに何と言われるか、という、公を意識した生活態度が長らく日本人を律してきたと思うし、それが世界の中での日本の特殊性を育んだ要因の一つでもあったと思う。

その特殊性が葉加瀬氏の言うような「病」の原因であるとは思わないが、たぶん、世界の荒波に漕ぎ出し始める時はいつもこうだったのではないかと思う。

明治維新、敗戦、そしてきっとこれは第三回目の大航海なのだ。その度ごとに日本から見た世界は大きく変わっている。そんな世界に歩調を合わせることに困難が伴い、少し病気になったように感じるんじゃないか。

世界で生き残っていくことは大変だ。でも頑張って生き残り戦略を立てながらも、日本人の心の底に流れているものはいつも変わらないだろうと思う、引き継ぐことに熱心な人々がいるかぎり。

自分の周りの人たちを見ていてそう思う。

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2009年3月12日 (木)

昭和は遠く・・・・

映画「隠し剣 鬼の爪」に、主人公の武士が、商家に嫁に出した奉公人の娘をかばうこんな台詞が出てくる。

「俺の家サ来て三年半、死んだ母が手塩にかけて、家事、行儀作法を教え、どこサ出しても恥ずかしくない娘に育てたつもりだ」 (東北の武士なので)

良い嫁、良い母になるため、娘や預かった使用人を手塩にかけて躾けるのが家庭の主婦の役割だった時代があった。

いつの頃からか、母も娘も別のことで多忙になり、「手塩にかけた娘」はいなくなった。

産経新聞で「向田邦子と含羞」という記事を読んで、昭和の家庭生活に思いを馳せた。   → 【上】 【下】 

【「単なるノスタルジーではなく」という常套句があるように昔を振返るノスタルジーは近代社会のなかで評価が低い。にもかかわらず向田邦子は、ノスタルジーにこだわった。ことあるごとに消え去った昭和を懐かしんだ。まさに「昭和の子」だった」】と、著書「向田邦子と昭和の東京」で川本三郎氏が書いている。

たしかに、過去を振返らず前進するのが人間というものだけれども、過去の良いものを持ち続けることは決して愚かしいことではない。だから私はノスタルジーおおいに結構と思っている。

人は建築物や美術工芸品など、目に見える物体を残すことにはいやに熱心だが、作法や言葉遣い、また、身分相応の概念や権威に対する厳粛な気持ちなど、精神面での遺産を保存しようという熱意はあまり持っていないようである。
無理もない。自由と民主主義とはそういうことだ。

しかし、日本人は選ぶことができる。
経済的豊かさは二の次で、まず品格を重んじるか。
それとも、お金がなければ困る。とにかく景気を良くするよう努力するか。

両方はちょっと難しいのではないかと思う。そうではないだろうか。

向田作品には、長女としての責任を果たすべくせっせと母の手伝いをする本人の少女時代の姿がよく描かれる。
昔はどの家もそうだったなと思い出す。

今は娘たちも忙しい。勉学に、部活に、遊びに時間をとられて、手塩にかける暇もない。

どこに出しても恥ずかしい私は、どこに出しても恥ずかしくない娘を育てることに成功しているとは言い難い。

しかし、よくしたもので、娘は私なんかよりよほどしっかりしている。勤めるようになってからはますます大人になったように思う。親がダメでも、世間さまはちゃんと娘を育ててくださる。

「昭和の娘」はやはりノスタルジーに過ぎないのかもしれない。

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2009年3月 9日 (月)

景気アップがお望みならば

共産主義者でも、資本主義で豊かになった国に住んでいれば、その恩恵に浴しながら生きることになる。

イスラム原理主義のテロリストは憎悪の対象である欧米の文明の産物をおおいに利用しながら活動している。

ガンジーは英国文明を否定し、機械化産業を拒否し、それが始まる前の生活をインド人に奨励しながら抵抗運動を行った。
今、高度にIT化ハイテク化した産業構造はインドに経済発展をもたらした。
ガンジーは今のインドを見て「嘆かわしい」と言うのだろうか。

「その都市国家には石油資源がない。わき出る水もなければ、人手のかかる農産物もできない。これらすべてが外国依存である。あるのは交通の要衝として地理的な優位性と、彼らの頭脳だけだ。
この限られた条件下で、指導者は国民の「繁栄」と「安全」を確保するために政治構想力を駆使するしかない。日本の政治家が得意な政争術など何の役にも立たない。悪いことに金融危機がこの小国にも襲いかかった。」

これは経済発展著しいシンガポールを表現した文章である。→産経新聞 ≪湯浅博「くにのあとさき」≫

「外国からカネとモノを呼び込む努力をする」・・・・・これが悪いことであるはずがない。

我が国で、「金融に強くならなければ世界で生き残ることはできない」そう考えた為政者の戦略は、格差を生み、続いて世界的金融危機によって景気が悪くなると、「それ見たことか」とさんざん叩かれる。「構造改革のせいで日本がめちゃくちゃになった」と叩かれる。

保守主義者の藤原正彦先生や佐伯啓思先生などがその言の代表で、「日本人は武士道でいこう」と強調なさる。

私は武士道は大好きで、その復活は大賛成で、日本人が品格を取り戻すことにも大賛成である。

コツコツとものを作り、商道徳を守りながら国内でお金が廻るように励む、大変素晴らしいことだと思う。

でもそれは「矜持を保つためには、金儲けは二の次だ」「日本は世界金融の流れに乗らない」ということを意味するのではないだろうか。

私自身は「家族仲良く小さな幸せを享受できればそれでいい」と思っている。しかし大部分の日本人が果たして本当にそう思っているかどうか極めて疑わしい。

私より良いものを着て良いものを食べて華やかな生活をしているであろう人たちが「金儲けはあさましい」などと言うのは、自分の言っていることの意味がわかっていないだけだろうと思う。

先週の政治バラエティ番組「太田光の 私が総理大臣になったら」では、タレントの坂東英二さんが「小中学校の授業に『金もうけ』という科目を設ける」ことを提案していた。
私は、お金がどう世の中を廻っているのかの仕組みを教えるのは悪いことではないと思うが、子供に投資の具体的な方法などを教えなくてもいいんじゃないかと思うし、出演者の意見もそういう傾向だった。

タレントの室井佑月さんなどは「金儲けに一生懸命になる人は嫌い」と清廉ぽい発言をしていたが、坂東さんは最後に「でも、みなさん、お金がなければ暮らしていけないでしょう。お金儲けは悪いことだなんて思わないでください」と当然すぎる意見を述べていた。

要するに、お金は降ってこない、誰かが用意してくれるものでもない、自分で稼がなくてはならない。
さらにみんなより豊かになりたいと思えば、モノを作って売るだけでなく、カネを廻して儲けたってそれは資本主義社会なら当然のことだ。

少なくとも、テレビに出まくって何の役にも立たないコメントを乱発している室井佑月さんの稼ぎ方よりずっと潔いと思う。

「品格」と「生き残り戦略」を両立するのは至難の技だ。不可能かもしれない。

だから「欺瞞」に気がつかないふりをして人は生きる。生きなければならない。

どうか綺麗事と感情論だけに流されて日本を沈めないようにしてほしい。

でないと個人個人が小さな幸せにさえありつけなくなるのだから。

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2009年3月 4日 (水)

映画は一人で

先日、地域の公会堂へ、映画「おくりびと」を見に行った。
所属しているシニアクラブに割り当てられた無料鑑賞券をジャンケンで勝って有難く戴いたのだ。

アカデミー賞を受賞した直後で、600人収容のホールは高齢者を中心に満席だった。

感想文は苦手なので、「ピンク映画で下積みしながらよく頑張った!感動した!」ぐらいのことしか言えないが、一昨日の産経新聞コラム≪戯言戯画≫の「映画会社の見おくり人たち」は面白い。 
本木雅弘はよく粘ってくれたと思う。よく情熱を持ち続けてくれたと思う。

その強い思いが結実した。
そんなにお金をかけなくてもこんなに多くの人の心を動かす映画が作れる。
日本人の底力の一つだろう。
倒産の危機を乗り越えた中小企業の頑張りを見るような思いだ。

満点をつけてもいいとは思うが、一点だけ苦言を呈したい。
作品の出来ばえ自体には関係ないのだが、広末涼子は、女優であるならば、発声をちゃんと勉強したほうがいいのではないか。
いくつになっても女の子のような喋り方はうんざりする。

さて、映画の後、冷たい雨の中、家路を急いだ。

私は映画を見るとき、連れがいるのがイヤだ。特に感動的な映画の場合はそうだ。

映画が終わった時に連れと顔を合わせるのがイヤだ。

もちろんコメディの場合は一緒に笑える人がいるとよりいっそう楽しいとは思うが、感動して涙を流してしまうような場合、その気分はどうしても引きずるものだから、それを引きずったまま、照れ笑いをしたり、何か言わねば、と考えたりするのは鬱陶しい。

帰路は一人で無言で歩きたい。

連れがいると黙っているわけにいかない。

「お茶でも飲んで行く?」とか「あそこのあのシーンが良かった」とか、そんなギクシャクした会話は映画の余韻をぶち壊す。

映画は一人で見るにかぎる。

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(この記事は 街中の案山子さんの記事にトラックバックさせていただいています  →http://blog.goo.ne.jp/salubia2070/e/ffd1d286848de3c7e62da7011dde0c7b

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