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2009年5月20日 (水)

「おまかせ」と「文句」と

裁判員制度が明日から始まります。
実際に裁判員参加の裁判が最初に開かれるのは7月に入ってかららしいですが、このところ、色々なメディアでよく裁判員の問題が取り上げられます。

裁判員制度に賛成の人も反対の人も、「これでいいのか」「この点はどうなるのか」「こんなことになったらどうするんだ」と、口々に疑問を呈します。

量刑まで決めなければならないことに、専門家でない一般の我々が重圧を感じるのは当然のことだと思いますが、これは「国民が学ぶ機会だ」ととらえたらどうでしょうか。

我々国民は昔から(まだインターネットが発達していなかった頃から)、納得できない判決に批判の声を挙げてきたし、「裁判官は世間知らずだからこんなおかしな判決を下すんだ。一般社会の常識とかけ離れている」という意見も多く聞かれました。
そういう意見は声だけが大きくて実際は多くはないのかもしれませんが。

でも、ネット議論の盛んな今、重大事件の判決についての論評があちこちでなされます。
「素人なのに、非常に知的で冷静な考え方だ」と思うような意見がたくさんあります。

国民はいろいろですから、知的でなく冷静でない人もいるでしょう。
でもそれだからと言って、知的に冷静に熱心に裁判結果の論評をする人たちの意見を取り入れないのももったいない話です。
ぜひ、こういった知的で冷静で真っ当な意見を言う人たちを裁判員として活用してほしいものです。

司法制度改革の中で、なぜ裁判員制度導入が検討されるようになったのかは知りませんが、それはやはり「専門家だけに任せず、司法は広く国民に開かれるべきだ。司法参加は国民の権利だ」という世論を受けてのことだったと思います。

制度案が国会に提出され、審議を経て、国民の代表である国会議員の賛成多数で決まったことであるなら、決まったあとで「そんなこと聞いてない」「私は嫌だ」というのは国民としての自覚がちょっと足りないのではないでしょうか。

国民が皆、国会の動きに注目しているわけではないし、「知らない間に決まったこと」もたくさんあると思います。

でも、「いったい誰がそんなこと決めたんだ。私は嫌だ」という反応でなく、「そうか、知らない間にこんなことが決まっていたのか。これはうっかりしていた。しかし国会で決まったことなら、従うしかあるまい。今度の選挙では、自分も国政に参加するつもりで、どんな考えを持っている候補者なのか、しっかり見極めよう」と、このように考えるのが筋というものではないでしょうか。

もちろん、裁判参加はとても大変なことだと思います。私もできることなら、そんなことに関わりたくはありません。

でも、嫌な仕事だから誰かにやってもらいたい、というのは、「自分たちは血を流したくないから、世界の無法者との戦いはどこか他の国にやってもらいたい。金なら出すからさ」、みたいな態度と似ているように思います。

たぶん、制度は不充分で、やっていくうちに問題点もたくさん出てくると思います。
それを改正しながらなんとかやっていくのが民主主義の手続きというものではありませんか。

問題点が噴出した時、「ほら見ろ。言ったとおりだ」などと他人事のような口をきくのでなく、自分たちの国のことなのですから、どうしたらより良くなるかをみんなで考えていったらいいと思います。

政治のこと何もわからなくても、一回でも選挙に行ってみると、投票結果が気になり、その後の政治に興味が湧いてくるということもあるものです。

裁判も、参加してみれば色々なことを考えるようになるでしょう。しりごみするだけでなく、学びの機会、強さを身につける機会として、前向きに考えてみたらどうでしょう。

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コメント

私も裁判員制度賛成です。
裁判官も身内だけでなく、面識の無い裁判員にも事案を説明し、協議して判断、という流れになることは、良いことだと思っています。
テレビで報道されるニュースも捉えかたに責任感が出て、甘い論評がなくなると思います。

投稿: 街中の案山子 | 2009年5月21日 (木) 15時02分

前略 お久しぶりです。コルホーズの玉ネギ畑改め、大塩です。

 貴方の認識の甘さに、「バカ」という言葉を使いたくなるほどの空恐ろしさを感じます。だいたい私は、「知らないあいだに決まったこと」に庶民の見方になるものは無いと決め付けています。だから裁判官と一緒になって市民が量刑まで決めさせる裁判員制度も、究極的には裁判官や検察官の地位を安定させるものと勘ぐるのです。

 扱うのが殺人事件などの重大事件に限っていることからも、制度の奇異さが現れていると思います。本来は事件に科学のメスを入れて有罪を立証しなければならないのが、検察の仕事ではないのか? 飽くまで科学なら素人の感性は必要ないはずです。市民感覚が必要なのは私の見方では行政訴訟。原告としての住民が国や自治体を相手取るとき、庶民の見方は住民の味方になり易い。だから逆に裁判員制度では扱わないと、制度設計者は考えたと私は想像するのです。

 よしんば事件を扱うにしても万引きなどの軽微な事案から始める方法もあったろうに。いきなり死刑も想定される殺人事件から始める点に、為政者の狡猾さを私は感じるのです。つまり耳目を集める事件だけに制度を適用させることによって、有用性を効果的に宣伝できると。

 取り敢えず権力に対しては反骨精神に根ざした想像力を駆使した方が危うさは少なくなると、僭越ながら進言いたします。

                        草々

投稿: 大塩高志 | 2009年5月21日 (木) 20時42分

★街中の案山子さん、

この制度に反対という人は多いですが、大半の理由は「正しい判断が下せるか自信がない」というものらしいですね。
私も自信などありませんが、国民が協議に直接参加するのは良い経験になると思います。

投稿: robita | 2009年5月22日 (金) 09時24分

★大塩高志さん、

コルホーズさんですか。お久しぶりです。

>だいたい私は、「知らないあいだに決まったこと」に庶民の見方になるものは無いと決め付けています<

えっ、ほんとうに知らないあいだに決まったんですか。
私は、おまかせのしくみと国民の無関心を「知らないあいだ」と表現したつもりなんですけど。
国会で審議され可決されたことは秘密じゃないですよね。誰でも知ることができるんですよね。

>だから裁判官と一緒になって市民が量刑まで決めさせる裁判員制度も、究極的には裁判官や検察官の地位を安定させるものと勘ぐるのです<

この論理がよくわかりません。

>飽くまで科学なら素人の感性は必要ないはずです<

科学的な論理の積み上げの上に、素人の感性を加えるのがこの裁判員制度の目的なんじゃないでしょうか。

>市民感覚が必要なのは私の見方では行政訴訟。原告としての住民が国や自治体を相手取るとき、庶民の見方は住民の味方になり易い<

行政訴訟に市民感覚が必要なのは正しいことではあると思うのですが、「市民の感覚」で国や自治体が裁判でいつも負けるようになると、どんなことになるのかちょっと怖いような気もします。仰るように「庶民の見方」は大事なことなのですが。難しい問題ですね。

>よしんば事件を扱うにしても万引きなどの軽微な事案から始める方法もあったろうに<

これは私もそう思うのです。
例えば、ちょっと前に女性看護師が入院中の認知症患者の爪を深爪して出血させたとして傷害罪で起訴された事件がありました。
私も母を在宅介護中なのですが、高齢者の爪というのは肉と爪の間の組織が分厚く変質していて実に切りにくいのです。一度、肉と爪の境目がわからず出血してしまいました。
あの事件など、ほんとうのところはわかりませんが、裁判員になって意見の一つも言ってみたいものだと思いました。
軽微な事件を扱わない理由はあるとは思うのですが。

>取り敢えず権力に対しては反骨精神に根ざした想像力を駆使した方が危うさは少なくなると、僭越ながら進言いたします。<

はい、ありがとうございました。

投稿: robita | 2009年5月22日 (金) 09時53分

 「裁判を国民の身近に置く」「国民感覚と乖離しない裁判ができるしかけ作り」。
 こんなところが裁判制度が生まれる議論の始まりだったと記憶しています。

 法治国家の原則は「罪を憎んで人を憎まず」であり、犯した罪に対して機械的に量刑を宣告するというのが本来の姿で、被害者の心情によって量刑が変わるべきものであるべきと言った雰囲気のマスコミ論調に常々違和感を持っていました。(目には目をでは法治国家ではありません。被害者のフォローは別の方法ですべきことです。)
 つまりは裁判はプロの目で見た基準によりプロが判断すべきもので、一般人の介在すべきものではないというのが私の意見です。

 もっとも「裁判官に一般人の感覚を持たせるべき」「裁判をもっと身近なものにすべき」という議論は私もその通りだと感じており、裁判所及び裁判官に対する「国民による諮問制度(評価制度?)」というのが本筋のように思っています。
 ただし、同様な考え方で行われているはずの様々な国民参加型の諮問制度が必ずしも上手くいっているわけではなく(教育委員会なども本来はその機能を期待されていたはず)、その点に於いて良い方法がないか?と考えていました。

 今回始まった裁判員制度は、何か見切り発車的な感じがして私個人は好きになれません。
(国民の意識向上が先にないと制度を作って運用を始めても、裁判所の都合の良いように運用されて形骸化するのではないかとの予測を持っています。:その種の失敗は幾つか経験させていただきました。)

PS.
 とは言っても一旦決めて発足した制度ですので自分自身が裁判員に選ばれた場合には、積極的に参加し意見を言うのが国民としての義務だと考えています。
 

投稿: 山本大成 | 2009年5月22日 (金) 11時29分

★山本大成さん、

>被害者の心情によって量刑が変わるべきものであるべきと言った雰囲気のマスコミ論調に常々違和感を持っていました。<

同じような殺され方をしても、加害者を憎いと思う遺族がいる人といない人で量刑が違ってくるのか、という論議などありますね。
でも、裁判員制度のなかった今までも、判決が世論に大きく左右されることは結構あったんじゃないかと思います。
「可哀想」という世間の空気に押されて、とてつもない量刑が出てしまうことがあるようです。懲役の長さは法律と判例に則って決めるべきところを「感情」が上回ってしまうこともあるようですね。

こういったことは、裁判官と一般の人の対話がないから起こる事態とは考えられないでしょうか。つまり実体のない「世の中の空気」が判決を不条理なものにしてしまっていることもあるのではないでしょうか。
インターネットで、ごく普通の市民が実に冷静で鮮やかな論を展開するのをよく目にします。
こういった人々が実際に裁判に参加することは、「世の空気」という圧力の歯止めにもなると思うのです。

>今回始まった裁判員制度は、何か見切り発車的な感じがして私個人は好きになれません。<

どれだけ時間をかければ納得のいく制度ができあがるのかな、とも思います。
裁判員制度がいよいよ始まる、という時になって初めて、国民はあわてて議論を始めました。
じゃあ、もっと前から議論を始めていれば良かったのかというと、そんな先のこと誰も関心を持たなかったでしょう。
政府がもっと宣伝をしなかったから政府の責任ということになるんでしょうが、選挙だって、呼びかけても行かない人は行きません。
人間というのは、いつもいつも目前になってドタバタしますね。

投稿: robita | 2009年5月22日 (金) 13時51分

前略 大塩です。

 自分のブログの方に記事を書いておきました。

     草々

投稿: 大塩高志 | 2009年5月22日 (金) 18時06分

★大塩高志さん、

明日返信いたします。

投稿: robita | 2009年5月24日 (日) 09時08分

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 確かに、 「国会で審議され可決されたことは秘密じゃないですよね。誰でも知ることができるんですよね」 ではあります。しかし主観として「いつの間に」という感覚を、私などは持っていました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  また裁判員制度は結局は裁判官や検察官の地位を守ることになるという意見に、論理の明示がないので、 疑問を呈することに。もし失敗すれば今までどおりの制度に戻すはずで、裁判官や検察官の地位は安泰。で、 定着した場..... [続きを読む]

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