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2009年6月29日 (月)

ほかほかごはん

不景気を反映してか究極の節約ご飯「ねこまんま」が、大流行の由。
ご飯の上に色々なものを載せて食べるどんぶり物が安上がりでおいしそうだ。

卵、かつお節、ちりめんじゃこなどは昔からの定番だが、近頃の若い人はあらゆるものを試してバラエティを楽しんでいるようだ。

さきいかや柿ピーを散らした上にマヨネーズで味付けなんていうのも意外とおいしいという話だが、そういう「邪道」はさておいて、栄養バランスを考えた食材を載せるよう心がければ問題ないし、大量の米も消費することになるし、ねこまんまって今の日本にピッタリの食べ方じゃないかと思う。

たしかに、ご飯に焼き魚、青菜のおひたし、海苔、漬物、味噌汁など、質素でもきちんとそれぞれの器に盛り分けた食事の伝統を残すことはとても大事なことでおろそかにしてはならない。

でも時々ならば、朝食や昼食などにそういうどんぶり物もいいじゃないかと思う。

不景気でも、若い人は肉が好きでよく食べる。

ご飯より肉でお腹がいっぱいになるような食べ方をする人も多い。

しかし昔の日本人みたいにもっとお米をたくさん食べれば食糧自給率も上がる、という。

そのことも大事だが、お米をしっかりと食べてしっかりと働くためのエネルギー源として見直すことはもっと大きな意味があると思う。

ところで、米(炭水化物)は、消化に時間がかかるので、お米を主食とする日本人の腸は長く、それを納める胴体も長くなり、結果的に日本人は胴長短足なのである、という説が昔あった。
本当かどうか知らないが、今の若い人の体形が欧米人並みに格好良くなったのは、お米をあまり食べなくなったからなのだろうか。

しかし、と思うのである。
足が長いのは本当にカッコいいことなんだろうか。

昔、知人の女性が、「足の短い男の人が好きなの」と妙なことを言っていた。
彼女は華やかな業界で働く華やかな女性で、いつもパンツスーツを格好良く着こなしていた美人だった。

後に、彼女の恋人を垣間見たのだが、縄文人のような幅広の顔に、たしかに胴長短足、いかにも昔の日本人といった風貌の男性だった。

同性からも頼りにされる魅力的な男性ということだったから、彼女は彼の男気に惚れたのだろうと思う。

彼女の選択をカッコ良いと思った。

男は中身だ、などとありふれたことを言うつもりはないのだが(つもりか)、単に「足長」がなぜカッコ良いのか、不思議に思うことがある。

幕末期、紅毛碧眼の連中と何ら臆することなく堂々と対峙した小栗上野介や、誇り高い岩倉具視使節団のメンバーなど、きっと背が低く、足が短かったにちがいない。
そして、そのことを不恰好だなんて決めつける価値観はその頃の日本にはなかっただろう。
彼らの威風堂々たる態度は欧米人を唸らせた、と今に伝わる。

世界との交流が盛んになり、徐々に彼らの体躯の大きさとはったりが合わさった態度に圧倒されるようになったのだろうか。

それとも戦争に負けた時からのことだろうか。

足が短いことは恥ずかしいことになってしまった。

昭和30年代に石原裕次郎が出現して、背が高く足が長いことの価値の高さは決定的になった。

日本人が戦争に勝っていたら、足が長いことなんてそんなに価値はなかったかもしれない。

足が長くても頼りない男より、短くても堂々としてるほうが余程カッコ良いじゃないか。

男子高校生がズボンをずり下げてわざと足を短く見せたりするのは、日本男児の伝統的な体型に無意識の憧れがあるからじゃないだろうか、なんて思いたくなる。

・・・・しろうとの考えることはこの程度なのだが、何故足が長いのがカッコいいこととして定着してしまったのだろうか。

竹内久美子さんなら知ってるだろうか。

まあ、米を食べるとほんとうに胴長になるかどうかはさておいて、食糧自給率の問題として、エネルギー源の問題として、産業構造の問題として、そして政治を左右する問題として、米作は日本の国にとって重大な意味を持つ。

票田の呪縛が発生するずっと前から、日本の農家は米を大事に育て、日本人はそれをありがたくいただき、働くエネルギーとしてきた。

胴長短足でも腹の据わった日本人、我慢強い日本人、謙虚な日本人を育ててきたのは、もしかしたら米の文化そのものだったのかもしれないなあ、と思う。
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2009年6月22日 (月)

梅酒忌

母が亡くなり、唐突に介護が終わった。

翌日、子供たちがおばあちゃんの庭の梅の実を収穫した。

ウィスキーで梅酒を仕込んだ。

頃合いになったら、またみんなで集まろうか。

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2009年6月 5日 (金)

愛するものを奪われた 2

もし裁判員になったら、死刑という刑罰を被告に課すことができるかどうか、という問いに対して、「不安だ」「自分が人の死に関わることは避けたい」という意見が多くみられます。
これは当然のことで、いくら凶悪犯であっても誰もそんなことはしたくないのです。

しかし、もし自分の愛する者が惨殺されたり残酷に傷つけられたりしたら、おそらくほとんどの人が死刑、または被害者と同等の痛み苦しみを味わってくれと望むのではないでしょうか。

産経ニュース 5/9 
≪あと一年 あなたが裁く 迫る裁判員制度 ⑤ 判決の重み≫

【私たちに人を裁く資格があるだろうか。その重みを背負うだけの覚悟があるだろうか。最高裁判事を務めた斉藤朔郎氏(故人)は、かつて法律雑誌に寄稿した論文にこう記した。
「人が人を裁くことを是認できるのは、裁く人が裁かれる人よりも上にあるからではない。それは、裁く人が法と証拠という客観的なものに支配されているからこそ、他人を裁くことが許されるのである」】

この文章がどういう文脈で書かれたのか、検索しても記事が出てこないのですが、とにかく何か思うところがあったのでしょう、私はメモしておきました。

この言葉は正しいのです。
人間に人間を裁く資格など、ましてや、法の専門家でない一般人にその資格などないのかもしれません。

愛しい者を惨殺された遺族や、彼らの怒りや悲しみに同情する「感情」を持っている人間だからこそ、何の感情も差し挟むことなく量刑を決めることなどできないだろうと思います。

しかし、「人を裁く」という行為にはどんなことが含まれるのかなと考えます。

3人の子供が亡くなった福岡市飲酒事故の高裁判決(懲役20年)を受けて、ある大学教授が「感情的な世論に動かされた異常な判決です。子供は可哀想だが、飲酒死亡事故の判決としては一審の7年が妥当です」とラジオで言っているのを聞きました。

私は「そうか。感情に流されちゃいけないんだ。これはとてつもない量刑なのか」と単純に理解してしまいました。

そして、「裁判員を加えた裁判では、裁判官との話し合いの中で、冷静に判断しなければいけないな」と思いました。

その後、某Y.ikeさんのブログ を読んで、いろいろ考えました。

裁判所という場所では「法と証拠という客観的なもの」だけを根拠に犯罪者が裁かれ、遺族の人間的感情の回復は他の場所でなされるべきだ、という考えもあるでしょうが、考えてみると、「復讐心」を満たすことができなければ、いくら精神科医が頑張っても遺族の精神的回復はまずないだろうと思います。

また、復讐心とは関係なく、著しく正義にもとる犯罪を目の当たりにする時、私たちは「絶対に許すことができない」「こんな悪い人間は死んだほうがいい」と思います。

某Y.ikeさんの記事「福岡市の追突事故 高裁が一審判決を破棄 その2」 にこうあります。

【近代刑法が想定する人間のモデルは、「合理的で理性的な人間」であった。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆくとの理想的なモデルである。】
【憲法を頂点とする現実の法治国家は、この近代の理想的人間像を大前提としている。】

「近代国家では、感情を交えず、冷静に判断できる人間による裁判こそが正しい、とされ、私情は文明的遅れのあらわれである、という考え方が基本にある」という意味だと私は理解しました。

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「なぜ人を殺してはいけないか」という妙な疑問が流行った時がありました。

それを見ていて、このような当たり前のことを何故そうまでして理由づけをしようとするのか私にはさっぱりわかりませんでした。
「人を殺してはいけない理由なんかいらないでしょう。自分が殺されるのが嫌と同じように、人だって殺されるのが嫌なんだ。そんなことに複雑な理由などいらない」そう思っていました。

しかし、死刑是非の論議に関連して、「人を殺すことがいけない」理由を求めたがる人々の気持ちがわかるようになりました。

「人を殺してはいけない理由」というより、人は何故「人を殺したくない」のか、「人が殺されるところを見たくない。想像したくない」のか、その理由は簡単です。

それはきっと「痛い」からです。

殺される本人は、もちろん痛く苦しいのですが、それを味わった後に、生を絶たれ、「痛み」もなくなります。

しかし、その遺族や周りの人は殺された本人のことを考えるととてつもなく「痛い」のです。それがずっと続きます。

たとえ身寄りのない人、悲しんでくれる友だちがない人が殺されても、周りの人は胸に痛みを感じます。

下等動物ほど、仲間が殺されても悲しまないでしょう。

彼らは平気で殺します。
「平気で」というより、それが自己保存のための手段の一つだからです。

ところが人間は、物理的な体の痛みのほかに、心の痛みという高度な機能を持ってしまいました。

この痛みが耐え難く苦しいので、人は人を殺してはならないことになったのではないでしょうか。

そして、この耐え難い痛みは復讐でしか癒されることはないのではないでしょうか。

評論家の呉智英さんは「仇討ちを復活させよ」と言います。

江戸時代の仇討ちは武士だけに認められた特権で、一般の人にその権利はなかったし、目下の者(子供など)の仇を討つことはできなかったそうなので、呉さんの感覚でとらえる復讐とは違うものだったでしょうが、その仇討願望はよくわかります。

「人を裁く」ということはどのような理念に基づいて行われるべきなのか私にはわかりません。おそらく誰にも「こうあるべき」などと断言することはできないでしょう。

ただ、昔も今も人の感情に変わりはなく、精神的回復の過程に「文明的未熟さ」もへったくれもない、ということだけはわかるのです。
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参考記事:     「愛するものを奪われた 1」   

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2009年6月 2日 (火)

死ぬかと思った

昨晩、寝る前に母のオムツを換えていた時、母が呼吸困難に陥った。
痰が喉に詰まったのだ。

夕方から喉がゴロゴロしていて、何度か吸引機で吸ったのだが沢山は取れず、でもそのうち安らかに寝入ったので、解決したと思った。

しかし、その後、咳をするたび痰がからんでいるのがわかる。
また吸引機を試してみたがとれない。そのうち血が混じるようになったので喉を傷つけたことを申し訳なく思い、中断した。

そして夜10時、おさまったと思っていた咳がまた出始めた。
痰がついに気管を塞いでしまったのか、息がつげなくなり、苦しみだした。
顔面蒼白となり、唇がみるみるうちに紫色になった。

大慌てでまた吸引機を作動させ、口の中にチューブを突っ込む。取れない。

無我夢中で作業をしていた時、妹が仕事から帰ってきた。

妹が母の体を横にし、私は吸引を続ける。

もういよいよだめだ、と思いながら、苦しんで嫌がるのでこれまでやっていなかった鼻からの吸引もやってみた。

鼻腔から奥の奥まで突っ込んだ。取れない。

口からまた試す。

死ぬよりましだ、と腹を決め、思いきってものすごく奥まで突っ込んだ。

大きな音とともに痰が吸引された。

途中で別の種類のチューブに変えてみたのも良かったのかもしれない。

母の顔に赤みが差し、唇がきれいな色に戻った。

助かった。

妹と二人で「お母さん、苦しかったね。ごめんね、ごめんね」と言いながら泣いた。

今まで、母が苦しがることは何度もあって、そのたびにあせっていたけれど、あれらは本当の危機ではなかった。

今回は本当に死ぬかもしれなかった。

寝たきりの状態で食べることもできず、意思表示もできない人がそれでもなお生きなければならないことの意味を、同様の介護をしている人なら、一度は考えたことがあるだろうと思う。

その答えは永遠にわからないかもしれないけれど、あんな苦しい死に方だけはさせたくない、という思いはある。

でも、安らかな死を迎えられる人なんてどのくらいいるのだろうか。

どんなに苦しんでも、息を引き取る直前は安らかになるのでそれが安らかな死というものなのだろうか。

苦しまず、いつのまにか眠るように死ぬのが理想だけれど、そういうのはめったにないことなのかもしれない。

死に方は難しい。

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昔、母が語ってくれたことがある。

私がまだよちよち歩きの頃、おもちゃで遊んでいた。
堅く大きなものだったのでまさか飲み込むとは思わず、一人遊びをさせていた。

大勢の子育てや家事に忙しかった昔の主婦はどこでもそうだったと思うが、つきっきりで子供の相手をすることなどできなかった。

私が苦しむ声を聞きつけて、母が飛んでくると、噛んでいたおもちゃがちぎれ、破片を喉に詰まらせ、顔面蒼白、唇が紫になって呼吸困難になっていた。

口の中をのぞいて、逆さにしたり背中をたたいたぐらいでは出てこないと判断した母は、人差し指を喉に突っ込み鈎状に曲げてグイッと異物を引っ掛け、取り出したそうだ。喉を傷つけ血だらけになったが死なずにすんだ。

危機の時は、「死ぬよりましだ」という判断が降りてくるものらしい。

私たちも、看護婦さんのような強さに少し近づいたように思う。

介護にはそういう意味もあるのではないか。

昨夜の悪戦苦闘は永遠のように長く感じられたが、無事に過ぎてしまうと特に大きな出来事でもなかったと思える。

今日の母はいつもどおりだし、私も日常のことをしながら昨夜の顛末をブログに書き込んでいる。

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