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2009年6月 5日 (金)

愛するものを奪われた 2

もし裁判員になったら、死刑という刑罰を被告に課すことができるかどうか、という問いに対して、「不安だ」「自分が人の死に関わることは避けたい」という意見が多くみられます。
これは当然のことで、いくら凶悪犯であっても誰もそんなことはしたくないのです。

しかし、もし自分の愛する者が惨殺されたり残酷に傷つけられたりしたら、おそらくほとんどの人が死刑、または被害者と同等の痛み苦しみを味わってくれと望むのではないでしょうか。

産経ニュース 5/9 
≪あと一年 あなたが裁く 迫る裁判員制度 ⑤ 判決の重み≫

【私たちに人を裁く資格があるだろうか。その重みを背負うだけの覚悟があるだろうか。最高裁判事を務めた斉藤朔郎氏(故人)は、かつて法律雑誌に寄稿した論文にこう記した。
「人が人を裁くことを是認できるのは、裁く人が裁かれる人よりも上にあるからではない。それは、裁く人が法と証拠という客観的なものに支配されているからこそ、他人を裁くことが許されるのである」】

この文章がどういう文脈で書かれたのか、検索しても記事が出てこないのですが、とにかく何か思うところがあったのでしょう、私はメモしておきました。

この言葉は正しいのです。
人間に人間を裁く資格など、ましてや、法の専門家でない一般人にその資格などないのかもしれません。

愛しい者を惨殺された遺族や、彼らの怒りや悲しみに同情する「感情」を持っている人間だからこそ、何の感情も差し挟むことなく量刑を決めることなどできないだろうと思います。

しかし、「人を裁く」という行為にはどんなことが含まれるのかなと考えます。

3人の子供が亡くなった福岡市飲酒事故の高裁判決(懲役20年)を受けて、ある大学教授が「感情的な世論に動かされた異常な判決です。子供は可哀想だが、飲酒死亡事故の判決としては一審の7年が妥当です」とラジオで言っているのを聞きました。

私は「そうか。感情に流されちゃいけないんだ。これはとてつもない量刑なのか」と単純に理解してしまいました。

そして、「裁判員を加えた裁判では、裁判官との話し合いの中で、冷静に判断しなければいけないな」と思いました。

その後、某Y.ikeさんのブログ を読んで、いろいろ考えました。

裁判所という場所では「法と証拠という客観的なもの」だけを根拠に犯罪者が裁かれ、遺族の人間的感情の回復は他の場所でなされるべきだ、という考えもあるでしょうが、考えてみると、「復讐心」を満たすことができなければ、いくら精神科医が頑張っても遺族の精神的回復はまずないだろうと思います。

また、復讐心とは関係なく、著しく正義にもとる犯罪を目の当たりにする時、私たちは「絶対に許すことができない」「こんな悪い人間は死んだほうがいい」と思います。

某Y.ikeさんの記事「福岡市の追突事故 高裁が一審判決を破棄 その2」 にこうあります。

【近代刑法が想定する人間のモデルは、「合理的で理性的な人間」であった。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆくとの理想的なモデルである。】
【憲法を頂点とする現実の法治国家は、この近代の理想的人間像を大前提としている。】

「近代国家では、感情を交えず、冷静に判断できる人間による裁判こそが正しい、とされ、私情は文明的遅れのあらわれである、という考え方が基本にある」という意味だと私は理解しました。

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「なぜ人を殺してはいけないか」という妙な疑問が流行った時がありました。

それを見ていて、このような当たり前のことを何故そうまでして理由づけをしようとするのか私にはさっぱりわかりませんでした。
「人を殺してはいけない理由なんかいらないでしょう。自分が殺されるのが嫌と同じように、人だって殺されるのが嫌なんだ。そんなことに複雑な理由などいらない」そう思っていました。

しかし、死刑是非の論議に関連して、「人を殺すことがいけない」理由を求めたがる人々の気持ちがわかるようになりました。

「人を殺してはいけない理由」というより、人は何故「人を殺したくない」のか、「人が殺されるところを見たくない。想像したくない」のか、その理由は簡単です。

それはきっと「痛い」からです。

殺される本人は、もちろん痛く苦しいのですが、それを味わった後に、生を絶たれ、「痛み」もなくなります。

しかし、その遺族や周りの人は殺された本人のことを考えるととてつもなく「痛い」のです。それがずっと続きます。

たとえ身寄りのない人、悲しんでくれる友だちがない人が殺されても、周りの人は胸に痛みを感じます。

下等動物ほど、仲間が殺されても悲しまないでしょう。

彼らは平気で殺します。
「平気で」というより、それが自己保存のための手段の一つだからです。

ところが人間は、物理的な体の痛みのほかに、心の痛みという高度な機能を持ってしまいました。

この痛みが耐え難く苦しいので、人は人を殺してはならないことになったのではないでしょうか。

そして、この耐え難い痛みは復讐でしか癒されることはないのではないでしょうか。

評論家の呉智英さんは「仇討ちを復活させよ」と言います。

江戸時代の仇討ちは武士だけに認められた特権で、一般の人にその権利はなかったし、目下の者(子供など)の仇を討つことはできなかったそうなので、呉さんの感覚でとらえる復讐とは違うものだったでしょうが、その仇討願望はよくわかります。

「人を裁く」ということはどのような理念に基づいて行われるべきなのか私にはわかりません。おそらく誰にも「こうあるべき」などと断言することはできないでしょう。

ただ、昔も今も人の感情に変わりはなく、精神的回復の過程に「文明的未熟さ」もへったくれもない、ということだけはわかるのです。
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参考記事:     「愛するものを奪われた 1」   

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コメント

>>人間に人間を裁く資格など、ましてや、法の専門家でない一般人にその資格などないのかもしれません。

事を司法官僚や弁護士に任せれば何もかも良いとは思えません。暮らしに関わる経済政策を経済学者や経済官僚に丸投げはできないので。

むしろ司法関係者が技術的な討論ばかりを行なって、一般常識からかけ離れることをしっかり監視できるのは良いことです。言わば、屁理屈で正義が歪められぬようにできるわけです。自分の理念や世界観を反映して決断が下されるのは、何事にも良いことだと思います。

問題は、裁判員には担当の事件を選べないこと。まあ、これは裁判官や検事も同様あのですが。

もっと問題なのは守秘義務の負担です。やはりこの裁判は変だぞと思えば自分の疑問をどこかに訴えたいのは当然!現状では裁判員になれば司法官僚の人質です。こんな裁判なら参加したくありません。

最後に死刑の判断ですか?これは許せないと思う相手になら、私は果断に下せます。刑の執行だって喜んでやります。マシーンの操作を習う必要はありますが。

ただし逆にこれは違うだろうと思う相手には果断に減刑したいのですが、一裁判員に最終決定権はありません。

私が裁判員なら屁理屈抜きで死刑なのは江戸川区の「女性殺害+トイレ流し」です。死んだ相手を切り刻んで不潔なトイレに流すなど、死者の尊厳を軽視するも甚だしいです。ヒトラーでさえやらないこと。これが無期懲役というのが法律家の屁理屈です。これは一般裁判員が正さないといけないでしょう。

だからこそ、守秘義務で司法官僚の人質にはなりたくないです。

投稿: Shah亜歴 | 2009年6月 6日 (土) 15時00分

こんばんは。拙文の紹介をありがとうございました。アクセス数が急激に上がって、とても驚いています。

最近は「あなたは死刑判決を言い渡すことができますか」という問いが目立ちますが、見せかけだけの問いを慌てて立てているようで、あまり好きになれません。一般人はこれまで、裁判官だけにずっと死刑宣告を押し付けてきたわけですからね。

その意味では、「なぜ人を殺してはいけないか」という妙な疑問のほうが洗練されているように思います。robitaさんがおっしゃるところのカギカッコ付きの「痛い」は、いつも私が追い求めていて、なかなか掴み切れない「それ」と同じものだと感じました。

投稿: 某Y.ike | 2009年6月 7日 (日) 00時36分

Robitaさん、こんばんは。
大変ご無沙汰しています。記事違いですが、お母さまの危難、大変でしたね。なんにせよご無事だった結末を読んで一安心しました。

昔何で読んだのか思い出せませんが、気道を確保する為に鉛筆(?)か何かで喉に穴を開けたというエピソードや、救命救急訓練を受けた際、心臓マッサージの時には、あばら骨の1,2本折れても構わないからしっかり押せ!というアドバイスをふと思い出しました。
平時には頭で理解できるものの実際にそういう場面で対処ができるかどうか難しいと思います。でも、本当に助けたいという気持ちがあれば、できるのかも知れません。Robitaさんの記事を読んでそんな気がしてきました。

さて、今回の記事のテーマですが、難しいですよね。
私はどうもこの「近代法治国家」の前提たる「理性的」人間という奴が信用できません。
人間はそもそも「理性的」なのか?いられるのか?非常に疑問に思います。

そうした立場から見ると、死刑廃止論を唱える連中というのは、自らの「理性」に全くの疑いを抱かず、異論を唱える連中を「非理性的」とみなす傾向があるような気がしてなりません。

ちなみに、私個人的には死刑存置派です。凶悪犯罪に関する刑罰は、更生教育刑ではなく応報刑であるべきだと思います。
被害者の心的解決をもっと重要視すべきだと思います。なぜそう思うようになったのかは拙ブログで山本七平と岸田秀の対談を紹介しながら過去記事を書いていますので、以下リンク貼らせていただきます。

・日本人の刑罰観~死刑存置派がマジョリティな理由とは~
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-176.html

・「法」と「伝統的規範」との乖離
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-173.html

要は、神のいない日本人社会には、応報刑がふさわしいのではないか?ってことなんですけどね。
あと、左翼の唱える死刑廃止論というのが、「出羽の守」的思想にすぎず、日本人の行動規範に全く適合していないのも強調したい処です。

なんかまとまらないコメントですみません。

投稿: 一知半解 | 2009年6月 8日 (月) 00時51分

★Shah亜歴さん、
★某Y.ikeさん、
★一知半解さん、

コメントありがとうございます。
後日お返事いたします。

投稿: robita | 2009年6月10日 (水) 20時03分

★Shah亜歴さん、

>もっと問題なのは守秘義務の負担です<

紹介してくださったサイトを見てみました。コメント欄を読むと、みなさん「守秘義務」を負担に思ってらっしゃるようですね。
でも私は16番目のコメントに共感しました。
以下、貼り付けます。

>>こんなとこでしょう - 2009.06.07 00:10

>>守秘義務ってのは、当たり前なんです。
>>たまたま、裁判員の話になってますけどね。
>>どこの会社でも、ペラペラ会社の機密なんか話してたら、バレればどうなりますか。

>>それだけの事でしょう。
>>何が責任が重いですか。
>>人の命を運命を左右する事になれば、余計ペラペラしゃべる事じゃないでしょ。

>>それが嫌でヒソヒソ謀議ですか。
>>そんな事をするより、「こんな重大な責任はむりです」で押し通した方が、、、何を言われようが押し通した方が、まだしもいいでしょうに。

>>へたな小細工打つのは汚いでしょ。
>>もっともらしい事まで言って、汚い事するよりはずっといいじゃないですか。
>>責任能力ない人間なんかいっぱいいます。
>>「私は責任能力の無い人間です」ってはっきり言いましょう。

>>もちろん、やれる人は大いにやりましょう。
>>それすら、いやですか?。


このコメントは「秘密を守るのは当然だ」というスタンスなのですが、私はそのことに共感しつつ、ごく親しい人にある程度のことを言っても構わないだろうと思うし、事実、そのように言ってる司法関係者もいました。
例えば、夫婦間で打ち明けても、そこだけで閉じてさえいればいいのではないですか。そこから外に漏れるようなことがあれば問題ですし、懲罰の対象にすればいいと思います。

この裁判員問題に関して、「立ち向かわず、逃げるばかりの日本人」の姿が目立つようですが、そうでない人も多いのではないかと思います。
勇気を出して裁判に参加する、ということは、何も「好戦的」とか「無鉄砲」とかいうことではないと思うのです(そういう人もいるかもしれませんが)
法律で決まったことなのですから、国民としての義務を粛々と遂行すればいいだけのことだと思います。

判決が結果的に裁判官の判断に委ねられるものだとしても、評議では普通の人のいろいろな意見が出るでしょうから、そういった話し合いを経験して、専門家も一般市民も得るものが必ずあって、みんな少しずつ大人になっていくんじゃないでしょうか。

投稿: robita | 2009年6月13日 (土) 10時49分

★某Y.ikeさん、

裁判員制度って、自分は何もしないくせに文句だけは言う人に「じゃあお前やってみろよ」と突きつける、みたいなことかなと最初思ってました(笑)。

痛くてたまらない。この痛みを少しでも軽くするには報復しかない。この素朴さが悪なのかそうでないのか、誰にもわかりませんね。
もちろん秩序維持としての法の整備は大事であり、死刑というものがあっていいのかどうかの論議も大事だとは思いますが、一知半解さんの記事を読むと、日本人独特の価値観による落とし前のつけ方になるほどと思います。

『なかなか掴み切れない「それ」』、難しいです。

投稿: robita | 2009年6月13日 (土) 10時58分

★一知半解さん、

>本当に助けたいという気持ちがあれば、できるのかも知れません<

鉛筆で喉に穴をあけるって、凄まじいですね。
危急の時はそういう火事場の馬鹿力的な行動ができるのでしょうね。

さて、一知半解さんの記事を読ませていただきました。
面白いですねー。
伝統的規範と西洋から輸入した法律との間で苦しむ日本人、よくわかります。
一知半解さんは、欧米的規律と日本の慣習との乖離の例として談合を挙げておられますね。
今起こっている日本郵政の問題などは、実は似たようなことかもしれないな、と思うんですよ。
私は細かいことはよくわからないのですが、大きな視点で見ると、「たとえ不透明でもオトナの処理をしようとしていたら、子供っぽい正義感を振りかざした総務大臣が事態を混乱させてしまった」というようなことじゃないのでしょうか。違うのかなあ。

今の日本って、この世界の一員としてどういう価値を求めたらいいのか途方に暮れているように思います。
穏やかな共同体の中で平等に幸せを分け合うという日本の伝統的価値(古い自民党政治も含む)を懐かしみながらも、一方では、欧米がもたらした享楽的文化を手放したくないし、さらに豊かに楽しくなるためには国際競争に勝たなければならない。

矛盾する両方を手に入れようなんて無理なんですから、国民自身がいったいどうしたいのか、考えてみることが大事だと思います。
死刑の話からズレましたが。

投稿: robita | 2009年6月13日 (土) 11時01分

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