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2009年7月31日 (金)

子供を守る 2

某Y.ikeさんの「ある裁判官の苦悩」という記事を読んだ。 
裁く側が平身低頭謝らなければならない事態が起きたことによって、被告人の自責の念の度合いが変化するものかという後半の文章については興味深い内容ながらさておいて、前半の、加害者の姿や心情の描写に感情移入してしまう。

交通事故は運転する人なら誰でも起こす可能性がある。
ごく普通の人が、ちょっとした不注意や偶然の結果、事故を起こしてしまい、人を死に至らしめる。

ひき逃げは悪質だ。
怖くなって逃げてしまった、とよくひき逃げ犯は言う。
私たちはそれを筋の通らない言い訳だとし、卑怯だと責める。

でもわからない。
人を轢いたことがないからわからないけれど、そういう時は怖くなって逃げてしまうのかもしれない。

逃げれば犯罪者となってもっと事態は悪くなるのに、そういう冷静な判断ができなくなるほど気が動転してしまうのか。

偶然、一昨日の産経新聞コラム【透明な歳月の光】で、曽野綾子さんが「加害者と被害者に存在する不幸」と題して、子供を轢き、死に至らしめた加害者の苦悩について書いている。

著作権の関係で、全文載せてはいけないらしいので、ところどころ写してみる。

【 (前略)加害者はたぶん、人をひいたという悪夢のような現実に直面することに耐えられなくて、現場から逃げたのである。
  (中略)土下座して謝っても、許されるわけではない。葬式に行けば、「どの面下げて焼香に来たのか」と追い返される。加害者の顔は見たくもないだろうという遺族の思いの前に葬式に行かなければ、「謝りにもこない。線香一つも上げに来ない」となじられる。
  (中略)事故の責任は誰よりも親などの保護者にある、ということを最近のマスコミは言わなくなった。ひき逃げ犯を悪く言うばかりで、そのときいったい親は何をしていたのか、という疑問にはいっこうに答えない。ことに2、3歳でどうやら歩けるものの、周囲の状況判断のまったくできない幼児に対しては、親は「固く手をつないで歩く」「必ず見張る」のが義務なのである。
  (中略)ひき逃げをした加害者が悪いことは当然だが、その加害者が口にできない点がある。それは子供を放置した親のために、彼自身もまた被害者になったという要素である。(後略)】

私も若い頃の子育てを思い返してみると、ただただ運が良かっただけ、と思うことだらけである。

スーパーで、ちょっと目を離した隙にいなくなって探し回ったことなどはよくあった。

親とはぐれた幼児が、スーパーの外に出てしまい、道路に飛び出して車にぶつかれば、その運転者はなんと運の悪いことだろう。

自分がちょっと目を離したばかりに子供が死んでしまったと、親は身も世もなく自分を責めるにちがいない。

それでも、どんな親も完璧ではない。曽野さんの言うように、いつもいつも手をしっかりと握って片時も離さずにいる、ということはほとんど不可能だ。

だから、予防できることは予防する。その最低限のことだけはするべきだ。

車道を子供の手もひかず先に立って歩いてしまうとか、子供が何をしているか気づかないほどお喋りや携帯メールに夢中になるとか、そんなたぐいのことなら、せずに済むのである。

子供を亡くして悲しみに打ちひしがれ自分を責めている親をさらに鞭打つためにではない。

事故や事件が起きた時こそ、それを教訓として世の中に警鐘を鳴らすのは当然のことではないだろうか。被害者と加害者、両者の不幸を生まないために。

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2009年7月28日 (火)

用心

千葉女性殺害次女連れ去り事件で、監禁されていたわけでもないのに被害者の女性が何故逃げようとしなかったのか、疑問に思う人も多いと思う。

しかし、私は彼女の気持ちがわかる。

20歳の頃、電車の中で酔っ払いにからまれた。

ふらふらと通路を歩いてきた男が、ボックス型の座席に並んで座っていた私と友人の向かい側に座り、私の手を取ってなんだかんだ話しかける。
後から考えると手を振り払って逃げればいいものを、私も友人も怖くてすくんでしまった。

しばらくすると男は立ち去り、私たちも電車を乗り換えた。

乗った電車に、また別の酔っ払い集団がいるのに気がついた。
友人は腰を浮かし、その場を離れるそぶりを見せたが、私は小さく首を振って制止した。
今動けば、彼らに気づかれ、「なんで逃げるんだよ」と追いかけられるかもしれない、というあり得ない想定にとらわれてしまった。
ここは、目立たず、群衆の中に埋もれるのが一番だ、という、実におかしな判断が働いてしまい、そこを動くことができなかった。
幸いその酔っ払い集団は大声で騒いでいるだけで何も危害を加えるわけではなかったのだが、電車を降りるまで本当に怖かった。

千葉の事件の場合、数日間も連れまわされている間に、冷静さを取り戻し、周りの人に助けを求める隙をみつけることができたのかどうか、私はそういう経験がないのでわからないが、怖くて体が萎縮し、行動が起こせなくなるというのは、犯人に同情してしまうというストックホルム症候群とは別の心理だと思う。

恐怖のあまり冷静な判断ができなくなくなったり、体がすくんでしまう女性の気持ちは本当によくわかる。

だからこそ、なにより大事なのは防犯だ。

悪い男はそこら中にいる。警察も事が起こらなければ動きようがない。

事前に用心するのは、本人にしかできないことなのだ。

出会い系で知り合った男性に安易について行かないとか、夜遅くまで繁華街で無防備に遊ばないとか、とにかく予防できることは予防することだ。

もちろん、用心していても事件に巻き込まれることはある。私も電車の中で絡まれたのは食事をした後、たしか夜8時頃だったから、別に不真面目に夜遊びをしていたわけではない。

しかし、最低限本人ができる予防策として危険回避を心がけるのは当然のことだと私は思うのだ。

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2009年7月22日 (水)

あけすけな時代

劇団四季のミュージカル「春のめざめ」を観た。

ドイツの劇作家フランク・ヴェデキントが1891年に発表した戯曲で、19世紀末の保守的な社会の中での10代の少年少女の性のめざめを描いている。

禁忌や隠蔽による無知が悲劇を生むことは理解しつつも、100年以上前の作品は現代においても同じ意味を持つのだろうかと考えてしまった。

思春期の少年たちに湧き上がる怒涛のような性欲。体の変化に戸惑う少女たち。異性への甘く激しく抑えられない感情。すべてを隠そうとする保守的な大人たちの目をかいくぐって開いてしまう禁断の扉。

子供たちが通過しなければならない衝動と抑制のせめぎあいの試練はいつの時代も変わりなく訪れるものと思われている。

しかし、大人の世界を隠し、そこに踏み込むことを禁止した時代と、大人と子供の境界線がぼやけてしまった現代とを比べざるを得なくなるのは、やはり100年という時間の開きがあるからだろう。

隠せば隠すほど、禁止すれば禁止するほど、子供たちはよりいっそう興味を膨らませ、欲望は激しくなるのだろうに、何もかもあらわになった今の時代に、妖しく卑猥な事柄に対する隠微だからこその焦がれるような思いは果たして若者の心に育つのだろうか。

「さあ、どうぞ、いくらでも。お前たちは自由だ。フリーセックスの時代だ。避妊さえすればぜんぜんオッケー」
今の社会はそんなことになってしまったのだが、抑圧の中でじっくりと醸成されるのが健全な性欲というものではなかったのだろうかと思ったりする。

しっかりと隠された部分に妄想を膨らませる男たちが、胸の谷間やおへそや太ももをむき出しにした服装で女たちが闊歩する風潮にうんざりしてしまうのに似て、現代に見られる性欲の減退の理由が、子供の時分からの開放されきった性知識や自由奔放な性行動にあるのではないかとさえ思えてくる。

かくして、女の露出や奔放さを悦ぶのは、不逞の輩だけとなってしまった。
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2009年7月17日 (金)

祖国の危急存亡の時

麻生総裁では自民党は選挙で負けるからと、反麻生勢力が活発に動いていたが、どうやら麻生おろしは失敗したらしい。

一連の自民党の騒動を受けて、「いさぎよく負けて下野し、しっかりと体制を整えてから、また政権を狙えばいい」、という意見をよく聞く。

同感である。
本当は、自民党の中で争ってないで、嘗ての小沢さんや羽田さんのような行動を取ったらどうかと思うのだが、度胸がないのだろう。
この機会に政界再編の動きが起こってほしいものだ。

single40さんの記事が面白い。→「冠を正しうして」  
面白いどころか、自民党は真面目にこの案を取り上げたらいいと思う。

本当のことを言っていさぎよく負ければ、その負け方は歴史に残る。

しかし、誰もが言いたくて言えない(しかし言わねばならない)ことを言って、それに沿ったマニフェストで戦うと、本当に負けるのだろうか?

負けた時、国民は(マスコミは)、そのマニフェストにNOをつきつけた理由をなんと言い訳するだろうか?

団塊世代の私は、自分たちの取り分が減ることより、そっちのほうに興味がある。

ただいま現在、それほど苦しくもなく暮らしていけてるから、そんなのんきな発想もできるのかもしれないが、実際、今よりぐんと負担が増える生活とはどんなものだろうか?
まあ、なんとかなるんじゃないか。

これからの老人は、そういった未曾有の事態に果敢に挑戦する冒険心も求められる。

戦中戦後の窮乏生活を実際に経験した70代以上の人々ならば、年金が多少減ったとしても、なんとか乗り切る知恵や工夫をお持ちなのではないだろうか。

現に私の母などは戦時中の不自由さを思ったらどんなことでも我慢できる、と言っていたものだ。

漫画家小林よしのりは「団塊の世代のじじいたちよ、最も人口の多い世代の者たちよ、祖国の危急存亡の際には共に武器を持って戦おうではないか」と言った。

まさに今こそ我が祖国の危急存亡の時である。
お国のために身を挺して貧乏と戦おうではないか。
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2009年7月15日 (水)

人生という作品

少子化の最大の原因は非婚だそうだ。
相手がみつからないケースもさることながら、恋人がいても結婚に臆病になることがあるという。

ほんとうにこの人でいいのか。
幻滅したらどうしよう。
後悔したらどうしよう。
結婚後に本当に好きな人が現れたらどうしよう。

だから、後悔しないように、選りに選って、この人ならば、と見定めた人を探そう。

そうやって探しているうちに年月が過ぎ行く。

幻滅しない結婚なんてあるだろうか。

幻滅しても後悔しても、それでも覚悟を決めて継続するのが結婚というものだろうに。

その事態を恐れて萎縮する。

無理もない。たいていの恋愛ドラマは男女が美しく結ばれて最高潮のところで終わってしまうのだから。

フジテレビ「ボクらの時代」で、女優樹木希林の娘の内田也哉子がこんなことを言っていた。

「私も離婚を考えたことはあったけれど、母がこんなことを言ってくれた。『青が嫌になったからって、今度は黄色にしようなんて、結婚ってそんなもんじゃない』」

樹木希林は、夫の内田裕也からどんなに離婚を求められても絶対に応じなかったという。
老年期に入った夫妻は一緒にこそ住んではいないけれど、相変わらず夫婦という関係を継続し、時々一緒に旅行したりするそうである。どちらかが倒れるようなことがあれば、きっと助け合うことだろう。

数週あとの「ボクらの時代」で、俳優梅宮辰夫一家が出ていた。

娘の梅宮アンナは子供一人を産んだ後に離婚し、一家はおじいちゃん夫婦と娘と孫の4人で「水入らずの生活」を楽しんでいるようだ。

梅宮アンナは離婚した理由として、「夫婦仲の悪さは子供に影響する。私は娘のために離婚した。娘がいなかったら離婚しなかったかもしれない」というようなことを言っていた。

「仲が悪いのに、うまくいってるように見せかけるなんて、そんな仮面夫婦みたいなことしたくない」と彼女は言う。

仮面夫婦ねぇ・・・・・・。

仮面夫婦じゃなくて夫婦仮面じゃなかろうか。

修羅場を乗り越えるために仮面が必要であり、添い遂げるために仮面が必要なんだがね。

私の理解では、大抵の夫婦は何回か修羅場を経験しながら年月を重ねていると思う。

「こんな男らしくない人だと思わなかった」「こんな卑怯な人だとは思わなかった」「ああもういやだ」「この人がいなければどんなに楽か」

程度の差こそあれ、大抵の妻はそんな気持ちを持ちつつ、我慢し、あきらめ、「子供のため」と覚悟を決めて、その都度乗り越える。(夫はあんまりそういうことは思わないらしいが)

そんなもんよ。

こんなこと言うと、若い人は余計に結婚を恐れるかもしれない。

独りのほうがずっと楽だ、と思うにちがいない。

でも、乗り越えることさえできれば、「安定」や「幸福」の部分のほうがずっと大きいのが結婚だ。

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2009年7月10日 (金)

親心

娘や息子の結婚難を受けて、親の婚活が盛況だと、よくテレビなどでレポートされている。

先日もテレビ朝日「スーパーモーニング」で、親同士の合同見合いの様子が放映されていた。

本人のプロフィールを交換し合い、候補をいくつか決めて、本人に確認をとってから本格的見合いの運びとなるらしい。

ああやってテレビにその様子が映し出されると、「親の見合いなんて」と奇異な印象を抱いてしまいがちだが、考えてみると、昔の見合いの習慣と原則的に同じようなものだなあ、と思える。

見合いとは、本人よりまず親に縁談が持ち込まれるのが普通だったのだ。

世話をする人は、親の人柄や家の雰囲気などから、「この家の娘さん(息子さん)に丁度いいのではないか」という「つりあい」を考慮して話を持ってきた。
親は、子供が適齢期になると、友人や知人に「どなたか良い人がいたらお願いします」とことあるごとに声をかけていたものだ。

今、相手が見つからなくて困っている人たちは、昔ならまず大方があっさり結婚していただろう。

見合い結婚が普通だった頃に適齢期だった私など、今の時代であれば相手にめぐり合わなかったに違いない。

自分で相手を見つけなければいけない今の人たちは本当に大変だ。

現代の親の婚活は、昔の見合いと同じ性質のもので、単に守備範囲が広がったものだと考えていいと思う。期待したい。

もちろん、価値観が大きく変わってしまったのだから、結婚したくない人だって大勢いて、結婚の話など振ると「余計なお世話だ」とか「セクハラだ」だとか言われてしまうご時世なのは仕方がないとしても、昔のようにお膳立てがあればたくさんのカップルが成立するかもしれないのである。

スタジオのコメンテーターたちが意見を言う。
「本人同士だとあれこれ考えすぎて高望みしてしまうのではないか」
「親が見つけてきた相手だと、適当なところで手を打つか、となる」
「親同士が気が合って決めるのだから、嫁姑の問題も起こりにくくなるのでは」

たしかに、昔を振返ってみると、結婚は必ずしも恋愛の延長上にあるものではなかった。
もちろん恋愛結婚もあったが、見合いの場合、結婚を前提にしての出会いであり、条件をつき合わせて検討するので、話は早かった。

そして、幸せな家庭が築けるかどうか、夫婦として添い遂げられるかどうかは、恋愛とか見合いとかで決定されるものではないのは、誰もが気づいていることである。

それはともかく、この現代の見合いはかなりの成果を上げているようだ。

たくさんのカップルが誕生することはそれだけでもとても楽しいが、その上、子供まで生まれたらなんと喜ばしいことか。

婚活ブームはおばさんもなんだかわくわくする。

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