子供を守る 2
某Y.ikeさんの「ある裁判官の苦悩」という記事を読んだ。
裁く側が平身低頭謝らなければならない事態が起きたことによって、被告人の自責の念の度合いが変化するものかという後半の文章については興味深い内容ながらさておいて、前半の、加害者の姿や心情の描写に感情移入してしまう。
交通事故は運転する人なら誰でも起こす可能性がある。
ごく普通の人が、ちょっとした不注意や偶然の結果、事故を起こしてしまい、人を死に至らしめる。
ひき逃げは悪質だ。
怖くなって逃げてしまった、とよくひき逃げ犯は言う。
私たちはそれを筋の通らない言い訳だとし、卑怯だと責める。
でもわからない。
人を轢いたことがないからわからないけれど、そういう時は怖くなって逃げてしまうのかもしれない。
逃げれば犯罪者となってもっと事態は悪くなるのに、そういう冷静な判断ができなくなるほど気が動転してしまうのか。
偶然、一昨日の産経新聞コラム【透明な歳月の光】で、曽野綾子さんが「加害者と被害者に存在する不幸」と題して、子供を轢き、死に至らしめた加害者の苦悩について書いている。
著作権の関係で、全文載せてはいけないらしいので、ところどころ写してみる。
【 (前略)加害者はたぶん、人をひいたという悪夢のような現実に直面することに耐えられなくて、現場から逃げたのである。
(中略)土下座して謝っても、許されるわけではない。葬式に行けば、「どの面下げて焼香に来たのか」と追い返される。加害者の顔は見たくもないだろうという遺族の思いの前に葬式に行かなければ、「謝りにもこない。線香一つも上げに来ない」となじられる。
(中略)事故の責任は誰よりも親などの保護者にある、ということを最近のマスコミは言わなくなった。ひき逃げ犯を悪く言うばかりで、そのときいったい親は何をしていたのか、という疑問にはいっこうに答えない。ことに2、3歳でどうやら歩けるものの、周囲の状況判断のまったくできない幼児に対しては、親は「固く手をつないで歩く」「必ず見張る」のが義務なのである。
(中略)ひき逃げをした加害者が悪いことは当然だが、その加害者が口にできない点がある。それは子供を放置した親のために、彼自身もまた被害者になったという要素である。(後略)】
私も若い頃の子育てを思い返してみると、ただただ運が良かっただけ、と思うことだらけである。
スーパーで、ちょっと目を離した隙にいなくなって探し回ったことなどはよくあった。
親とはぐれた幼児が、スーパーの外に出てしまい、道路に飛び出して車にぶつかれば、その運転者はなんと運の悪いことだろう。
自分がちょっと目を離したばかりに子供が死んでしまったと、親は身も世もなく自分を責めるにちがいない。
それでも、どんな親も完璧ではない。曽野さんの言うように、いつもいつも手をしっかりと握って片時も離さずにいる、ということはほとんど不可能だ。
だから、予防できることは予防する。その最低限のことだけはするべきだ。
車道を子供の手もひかず先に立って歩いてしまうとか、子供が何をしているか気づかないほどお喋りや携帯メールに夢中になるとか、そんなたぐいのことなら、せずに済むのである。
子供を亡くして悲しみに打ちひしがれ自分を責めている親をさらに鞭打つためにではない。
事故や事件が起きた時こそ、それを教訓として世の中に警鐘を鳴らすのは当然のことではないだろうか。被害者と加害者、両者の不幸を生まないために。
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