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2009年9月18日 (金)

おばあさんはコタツでみかんを食べる

街中の案山子さんにコメントをいただいて、神戸女学院大学教授内田樹さんのブログを知り、いくつか記事を読んでみました。

内田さんの記事に人間の本質と矛盾がわかりやすく表れていると思いますので、ちょっと書いてみます。

「日本の人口は、国土と資源に比して多すぎる」とか、「少子化で何が悪い」とか、「経済成長はなくてもいい」とか、「家の中でコタツに入ってみかんを食べる幸せさえあればいいじゃないか」、というお考えだと思います。
文章は長いですが、要するにそういう至極単純なことだと思います。

私もそう思います。そんな文章を以前からいくつも書きました。

それは好ましい社会のあり方を示唆していますし、多くの人が思っていることでもあります。でも、「だからこうすればいいのだ」という解決法を実践することができません。

解決法とは、革命的に日本人の意識を転換させることです。

 

ずっと前「国家の構成員としての自覚」という記事を書きました。冗長なので、お読みにならなくてもいいのですが、こういう文章があります。

≪しかし、「国家の品格」でも書いたように、世界中で価値観が変わってきているのに、日本だけ「武士道で行こう!」なんて張り切ったところで空回りするだけです。 昔のような社会規範を取り戻すなんてことがいったいできるものか。 子供も大人も、楽しく、ラクなことにどっぷり浸かりすぎてしまったのに、今さらそれらをやめることなんてできるはずがないのです。

革命的なことをやらない限り、いくら「国家の品格を取り戻そう!」と一部の人々が大声で叫んだところで、大人たちは株に狂奔することをやめないだろうし、小学生は化粧して渋谷をうろつくことをやめるわけがないのです。

教育を根本からくつがえすくらいの覚悟がなければそんなことは無理無理。小泉さんほどの独裁者が出現して、有無を言わせず教育の建て直しを実行に移せなければ無理無理。 ____中略___しかし、もし、ほんとに、日本人が、昔のような子育てをしたいなら(昔に戻りたいなら)、色々な面で「覚悟」しなきゃいけないことがたくさんあります。 子どもに「大人の言うことを聞きなさい」という子育てをしたいなら、おとなの側だってぐうたらじゃいけないし、昔の人が我慢したようなことを、同じように我慢しなきゃいけなくもなります。→「ヨイトマケの唄」
___中略___「昔は良かった」なんて昭和30年代を懐かしむ団塊世代もいれば、戦前戦中の日本人の凛々しさを称えるご老人もおられることでしょう。 でもね、どう考えたって、今のほうが良いに決まってるのです。今の豊かさ便利さを手ばなすことなんかできっこない。 豊かで楽しいまま、「毅然として」「凛々しく」なんてできますか、あなた。 ≫

 

これは、「品格」について書いたものなのですが、「身の丈に合った生活」のような言葉に置き換えても同じです。

内田先生が、いくら「少子化ではなく増子化なんだ」「この日本国のサイズなりの生活があるはずなんだ」と何度も何度も繰り返して仰ろうが、生活水準を下げたくない日本人が、それに同調するはずがないのです。

だから、国家財政が自然に破綻を迎える時まで「経済成長」や「新たな市場開拓」をもくろむしかなく、従って、「働き手をもっと産まなくては」「グローバリズムに乗らなくては」と叫び続けるしかないのです。

学者や評論家は実効性のある現実的な対策を提案する必要はなく、「思想」を論じ続け、何十年か何百年か後で、その思想の「真っ当さ」がわかってもらえればそれでいいのだと思います。

でも、生活レベルを保ちたい、もっと豊かになりたい、それが日本人の願いであるならば、政治はその願いに沿うべく、政策を練ることしかできません。

内田さんの最新記事「デモクラシーのコスト」 の意味はそういうことだと思います。

私は日本人の意識を変えるには教育しかないと思っているのですが、内田さんもそのような記事を書いておられます。→  「教育のもたらす利益について」 

≪教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。≫

 

どうして人々を「社会化」しなければならないか。
それは共同体としての秩序を守り、生存を維持し、もっと言えば、幸せを得るためでしょう。

生存しさえすればいい、幸せでなくてもいい、という人はまずいないわけで、幸せになればなったで、より上の「幸せ」を人は追い求めます。

そして追い求めて疲れた時、「幸せとはなにか」という人生最大のテーマがいつものように現れ、人は「お金がなくても幸せになれるのではないか」といつものように思い始めます。

 

で、どうしろというのでしょうか。

資本主義社会の当然の成り行きだとか、やはり社会主義政策がいいのだとか、そんなことを言いながら、歴史を繰り返すしかないのでしょうか。

内田さんは「サイズに合った社会システムを」と言い、藤原正彦さんは「武士道を取り入れて誇り高く生きよう」と言い、佐伯啓思さんは「自由と民主主義をやめろ。グローバリズム反対」と叫びます。

しかし、悲しいかな、すべては「民意」です。

民意は変わるものでしょうか。

学者さんたちがこういうことを言い続け、それに同調する人たちが増えれば人間の意識は変わりますかね。

これらの学者さんたちはとても人気があって、著書も随分と売れているでしょうに、人の意識は一向に変わる気配もなく、相変わらず「お金が足りない」と言い続けます。私もできたらお金はほしい。森の中に住むおばあさんになっても年金はもらいたい。

「うん、良い考えだ」とは思っても、自分だけは得をしたいという「総論賛成各論反対」が人間の本質だからです。

その本質、変わるものですか。

いくら言論の旗手たちが「意識を変えろ」と叫んでも変わらないんだったら、宗教とか秘密結社とか立ち上げて密かに地下運動を広げるしかない、と思いついても、そんないかがわしいものは広まるわけがないのです。

そう、いかがわしい。

個々の人間の欲望制御は美徳ではありますが、自由と民主主義が至上の価値である社会では集団的欲望制御はいかがわしいものでありますから、個々の美学を称えて自然な流れができるのを期待するしかありません。

内田さんんも「私たちはすでに無意識的にそう判断して、それに添うように行動し始めている」と書いています。

それが具体的にどのような形で現れているのかが書いてありませんが、内田さんの言う「成熟しない大人」とは、「いくつになっても不自然な若さを保ちたがったり恋愛をしたがる年配者」や「いつまでも自立しないニートたち」も含まれるんでしょうか。

均質化され、区別のなくなった大人と子供、男と女、それぞれの年代や性がそれぞれにふさわしい役割や欲望を持つようになれば、環境負荷が軽減される、ということなのでしょうか。

それはわかるような気がしますが、内田さんの言うように自然に流れが変わってきているのでしょうか。それはどんなところに表れているのでしょうか。

長くなってしまいましたが、時間のかかる意識改革はさておき、このたび「革命的政権」が誕生したことでもありますし、あまり悲観的にならずに、子供がほしい人が産みやすいよう、少子化対策もしてほしいし、世界にまだまだ市場があるうちは、なんとか進出を果たして国としてお金儲けもしてほしいものです。

「集団内部に、それぞれ生態学的地位と社会的行動を異にする多様な種を作り出す」にはどうしたらいいかについては、しかるのちに、じっくり考えることにいたしましょう。


「増子化」

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コメント

内田氏は「「家の中でコタツに入ってみかんを食べる幸せさえあればいいじゃないか」、というお考え」
だとは、到底読み取れないのですが・・・。

人の考え、発想を理解しようとするときは、その人の寄って立つところの影響が大きい、ということじゃないですか。
日本に生まれた私たちは、1億3000万人という人口規模の国の中で呼吸し、そんなものだと思って生活しているけれど、角度を変えてみれば、立場の違う国が沢山あって、というか、日本のほうが特殊だとしうことが見えてくる。

彼は教養の宣教師の部類なのかもしれません。

内田氏の考えに賛成かどうか、よりも、考え方の立ち居地を、もう一つ教えてくれる人、という読み方をしています。

投稿: 街中の案山子 | 2009年9月26日 (土) 08時24分

★街中の案山子さん、

そうですね。短絡的な表現で単純化することは、書いた人に対して失礼なことでした。内田先生、ごめんなさい。

ただ、「人の考え、発想を理解しようとするときは、その人の寄って立つところの影響が大きい」とか「角度を変えてみれば、立場の違う国が沢山あって」というようなことは、このグローバルな時代、ちょっとモノを考える人ならわかっていることだと思うのです。
内田さんはそのこともきっと承知していると思います。
そこを踏まえて、なおも内田さんが≪「家にいてもたのしく飯が食える人間」は「世界標準仕様」になる必要がない。そして、私は「家にいてもたのしく飯が食えるなら、どうして寒空に外に出て行く必要があるものか」とこたつにはいって蜜柑を食べている人間である。≫と仰っているのは「そこそこでいいじゃないか。僕なんかそういう幸せがあれば十分だけどねえ」というふうに読めてしまいます。 

でも私は思うのですが、内向きで楽しく飯が食えるのは、外向きで稼いできてくれる人間がいるからではないでしょうか。
内田さんが「私は内向きに生きますけど、みなさんはどうぞご自由に」と仰るのは自由なんですけど、そのようなノンキなことを言っていられるのもやっぱり日本が外に向かって市場開拓の努力をしてきたからではないんでしょうか。
私はどうもこの「内向き外向き」の意味がわからなくて、国内経済とか国際経済のこともさっぱりわからなくて、そんな素人が専門家の言うことに疑問を持つのもおこがましいんですが、資源だっておカネだって外から持ってくる必要があるんじゃないでしょうか。外で稼がなくて国内だけで食べていかれるものなのですか。

もし、食べていけるのならそれでいいと思うし、その場合は、日本人みんながあまりぜいたくを言わず、そこそこの生活で充分と納得する必要があると思うのです。

もし食べていけないのなら、やっぱり外向きの経済も必要なんじゃないですか。「内向きの自由」もそうした努力によって保障されるものなんじゃないでしょうか。

内田さんはもちろんそういうことをわかって仰ってるのでしょうから、結果的に「こたつでみかんを食べる幸せがあればいいじゃないか」ということなのだなと思いました。
≪そこでちまちまと「小商い」をしていても飯が食えるなら、それでいいじゃないか≫と結んでおられます。

投稿: robita | 2009年9月27日 (日) 10時02分

話はまた、横道ですが、こんな話を小耳にしました。
今、新型インフルエンザが猛威を振るうのではないかと、懸念されています。5000万人分程度のワクチンが必要となるけれど、国内のワクチンでは到底足りず、輸入しなくてはならないとか。多分、ワクチン生産の製薬会社は稼ぎ時でしょう。豊かな先進国は、みな輸入して国民に手当てすることを検討しているでしょう。
で、ある国はワクチン輸入分の何パーセント分を、発展途上国に回すことにした、とか。
どこの国だったか、小耳にはさんだだけで、不確かです。
でも、人々の中に、そういう発想が生まれるのだと、嬉しく思い、学ばされます(私などは、率先して、そんな意見を掲げる知者ではないけれど、聞いて、賛同する二番手、三番手タイプです)。
先進国であることの役割って、そんな発想をも、携えているのだと、一人合点しています。
人って捨てたモンじゃない、ですね。
国家という規模でのノーブレス・オブリージでしょうか。

投稿: 街中の案山子 | 2009年9月29日 (火) 00時12分

★街中の案山子さん、

以前、テレビのパンデミック特集番組で見たのですが(一部分だけ垣間見たので定かではありませんが)、アメリカではワクチン接種優先順位が、高齢者は最後になっているそうです。
これは、高齢者自身から「私たちは充分生きたので、若い人に先にまわしてほしい」という提案があったことを受けたものだそうです。
私はここに高齢者の高貴を読み取ったのですが、日本では実際の対策に反映されるほどそういう声は大きくなるでしょうか。
日本人の宗教観や死生観にも関係するのでアメリカのように簡単にはいかないでしょうが。
私はもちろん最後で結構。

投稿: robita | 2009年9月29日 (火) 09時55分

私もrobitaさん同様、子供や、子育て中の若い人たちを優先することは当然だと思う一人です。
地球規模で流行するかもしれない、という事態になったときに、そういう発想が出てくることに、人類の健全性を垣間見るように思えますね。

投稿: 街中の案山子 | 2009年9月29日 (火) 10時38分

★街中の案山子さん、

生物はことごとく「はびこるため」に生存競争をしていると私は思っているのですが、種の保存のために老いたものが身を引く、という手段を使うのもやはりどの生物も変わりはないのですね。
人類だけがなまじ脳が肥大したために少々まわり道をしたのかな、と思います、なんて、ちがうかな。
長生きすることが問題なのでなく、内田樹さんの言うように、「同一種(子供)の個体数」が爆発的に増えたことが問題なのだから、生物学的な大人を本当の大人にする対策が必要ということでしょうかね。
やっぱり、人類は特殊だ。

投稿: robita | 2009年10月 1日 (木) 13時32分

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