埋み火
天皇陛下が人と対面される時のお姿はとても美しく、日本国民として誇らしく思う。
特に多くの外国の要人の方々は陛下よりずっと背が高いのだが、見上げるでもなく、上目使い気味にもならず、また、ご高齢の陛下のお背中の丸みのせいかどうか尊大な感じにもならず、実に自然な態度で向かい合われる。
堂々たる威圧感がある、というのとも違う、生まれながらに具わった気品というのだろうか、やはり常人とはかけはなれた雰囲気を纏っておられる。
皇太子時代には、この方が天皇という地位にうまく収まられるだろうかと、不敬にも私は思っていたのだが、やはり成るべくして成るのが天皇というものかもしれない。
私心を抑え、国民統合の象徴という役割に徹するということは、きっと、自己の精神を丁寧に磨き上げるような作業にちがいない。
言うまでもなく陛下は私たちと同じ生身の人間であられるから、悲しみや怒りその他の感情を持ち、様々なことに心悩まされる経験をお持ちになるのは当然である。
しかし、長い時間をかけてそれらの経験や感情を修復したり磨き上げたりの作業を、禁欲的にこつこつと積み重ねてこられたからこそ、あのような貴人の風格というものが完成されるのだろう。
天皇が国民の安寧を祈り、国民がその天皇の真摯な姿に打たれ敬愛の念を抱く。その相乗作用こそが日本人の精神というものを作り上げてきたのではなかろうか。天皇は我々の思いの善き部分の集合体と考えるのがいいかもしれない。
わざわざそんな意味づけをする必要もないほど、日本人は無意識のうちに天皇の存在意義をそんな風に時代とともにたしかなものに育て上げてきたのだと思う。
中には「いや、私はそんな存在意義など認めない。天皇は京都に帰って農業でもやってればいいのだ」などとのたまう方々もおられるだろう。
その方々は自分を育んでくれた日本社会そのものの特殊性に気づいていないだけだと思う。
私だって若い頃は何も気づいていなかった。年を重ねるうちに、こういうことがわかるようになってきたのだ。
これは思想でもなんでもない。いわば「育ち」である。
仏教もヒンドゥー教もインド哲学も何も知らないが、私は天皇と国民との関係は、ブラフマンとアートマンの関係にちょっと似ているのではないかと思う。
(この世のことを自覚する個々人の意識「アートマン」の集合体がブラフマンという宇宙真理を作り上げている、ということらしい。違うだろうか。何かまうものか。「それは違う」などと言えるほどこの哲学を理解し、凡人にわかるように説明できる人などそんなにいないはずだ。
なんせ、「自分という存在の摩訶不思議」を真から摩訶不思議だと思っている人間自体、稀有な存在のようだから。)
だとしたら、皇室という万世一系の中心線を持つ我々日本人はなんと幸福な国民だろう。
天皇がおわしますからこそ、我々は安心して、クリスマスにクリスチャンになり、仏教徒になって寺の除夜の鐘を聴き、新しい年に神社にお参りして良き年を祈願するのである。
宗教争いに明け暮れ傷つけ合う信仰心厚い人々のなんとお気の毒なことか!
先日、神奈川県の「こどもの国」に天皇ご一家がお出かけになった。
残念ながら愛子様お一人だけ風邪気味でお休みとのことだったが、エコ電車に乗ってにこにこされている天皇家の皆様のご様子に、この暗い世相の中、埋み火のような頼もしい温かさを感じ取った。
埋み火は、消えることのない、また決して絶やしてはならない希望であり情熱なのである。
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コメント
かつてのソ連のトップ、ゴルバチョフが初来日した時だったと思いますが、今の皇太子様がゴルバチョフと応対した時の写真を見たことがあります。
決して背が高くはない皇太子様ですが、背筋をピシッと伸ばし、胸を張りつつ顎は引いた立ち姿は見事の一言。皇太子様より背が高いはずのゴルバチョフの方が卑屈に見えたくらい。
胸を張る=卑屈にならない
顎を引く=尊大にならない
このバランスが見事に保たれ、かつそれを自然に振舞われている様は、さすがはご皇室と唸った次第です。
投稿: かせっち | 2009年12月23日 (水) 18時26分
僕はまだまだ勉強中なのでよくわかっていません。君が代を歌うときも誇らしい気持ちになんかなれないし、天皇の千代八千代を祈る気にもなれません。でも、ひとつ確かなことは、いつ見ても天皇の微笑はすべての人の幸せを祈っているような微笑みに見えるということです。何か頼みごとをすれば何でも引き受けてくれそうです。この前の一ヶ月ルールを無視した会見だって快く引き受けてくれましたしね。
投稿: koichi | 2009年12月23日 (水) 20時42分
いつもこっそり拝見しています。
「君が代」についてですが・・・
君=天皇
君が代=天皇の治めている日本(今は象徴ですが)・・・千代に八千代に国民が幸せになれたらいいな~。と、かってに解釈していたのですが、私の国語力って変ですか?
それにしてもロビタさん、文章お上手ですね。いつも感心しています。
投稿: hana | 2009年12月23日 (水) 22時57分
★かせっちさん、
そうでしたか。皇太子殿下とゴルバチョフ氏との対面については知りませんでした。
鳩山さんとオバマさんの握手の場面で、「アメリカとの対等の関係」と威勢良く強調するわりに鳩山さんの目付きが心なしかおどおどと自信なさげだったので、習近平氏と対面された天皇陛下の自然なお姿がとても印象的でした。
投稿: robita | 2009年12月24日 (木) 10時14分
★koichiさん、
>まだまだ勉強中なのでよくわかっていません<
たぶんこれは勉強するようなものではなくて、年月とともにじわじわとわかってくるものじゃないでしょうかね。
外で苦労してみて初めて自分が今までどんなに幸せな環境にいたか気付く、というような状況にも似てると思います。
>ひとつ確かなことは、いつ見ても天皇の微笑はすべての人の幸せを祈っているような微笑みに見えるということです<
同感です。
天皇制に反対だった人々も、その慈愛の眼差しに感銘を受けるからなのか、徐々に変化しているように見えます。
投稿: robita | 2009年12月24日 (木) 10時17分
★hanaさん、
はじめまして。コメントありがとうございます。
>私の国語力って変ですか?<
変じゃないです。その解釈の通りだと思うのですが、「君」が天皇を指すというので、絶対反対!と叫ぶ人たちがいるんですね。
文章をお褒めいただき、恐縮至極です。
文学をほとんど読んでこなかったせいかどうかわかりませんが、私こそ国語力がないのです。お恥ずかしいかぎりです。
投稿: robita | 2009年12月24日 (木) 10時19分
君が代はもともと天皇ために、大きな石が小さな石になってコケになるまでもの長い間ずっと、天皇の代の繁栄を願って歌われていたらしいですよ。
でも、明治時代と違って戦後は主権が天皇から国民に移りましたから、hanaさんのその解釈は素敵だと思いました。君が代、を、国民の代、と解釈して自分たちの幸せを願って歌うのなら、誰でもぜんぜん抵抗無く君が代を歌えるのではないでしょうか。
一度も会ったことのない人の幸せなんてどうでもいいですしね笑
投稿: koichi | 2009年12月26日 (土) 17時20分
初めまして。偶然通りかかりました。専業主婦って実は非生産的なのに娯楽を追求してばかりなイメージで大嫌いなんですが、的確で知的な内容でびっくりしました。本当はあなたみたいな人こそが社会に出て、人の上に立ち、社会を動かすべきなんじゃないでしょうか?
投稿: まき | 2009年12月28日 (月) 11時43分
★まきさん、
初めまして。コメントありがとうございます。
>本当はあなたみたいな人こそが社会に出て、人の上に立ち、社会を動かすべきなんじゃないでしょうか?<
実は私は総理大臣になりたいんです
それはさておき、場外からあれこれ論評する人が人の上に立てるかどうかというのは全く別の話というお約束になっております(笑)
専業主婦はたしかに嫌われ者で、私もブログを通じてそれを感じることが少なくありません。
今の世の中は、女性も外で働かなければならない構造になっていますし、一方で、主に専業主婦が学校のことや地域活動、在宅介護等を担っているという側面もあります。
お互いの立場や考え方を理解すれば何も反目し合ったりすることはないのに、と思います。
>非生産的なのに娯楽を追求してばかり<
そういうイメージもたしかにありますね。でもそういう人はそういう恵まれた身分を努力で勝ち取ったのかもしれませんよ。娯楽で消費してくれれば景気への貢献にもなるわけですし。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
投稿: robita | 2009年12月28日 (月) 15時24分