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2010年7月12日 (月)

浮かれないで

今回の選挙で躍進した「みんなの党」の渡辺喜美党首は駄洒落がお好きのようだ。

そういう年齢でもあるだろうし、単に「ダジャレを連発するオヤジ」の側面を見せるだけなら何も問題はないが、頑張ってる人を小馬鹿にしたり、人格を貶めるような毒舌はやめたほうがいい。
何だか田中真紀子的な、ウケだけをねらった軽さを感じる。

「たちあがれ日本」を、聞き間違えたフリをして「立ち枯れ?」と揶揄していたが、一目置くべき先輩に対して敬意を欠く態度は、教授をつるし上げた全共闘の若者に通じるものがある。

まともな有権者は渡辺さんのダジャレに感動して支持したわけじゃない。そんなことで頑張らなくていい。

そこのところをわかってくれるだろうか。誰か渡辺さんに伝えてくれないだろうか。

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「みんなの党」が掲げる政策課題や渡辺代表の語る政治手法には大いに期待しているし、起爆剤としての党の躍進は非常に喜ばしいことであるが、どうかお調子に乗ることのないよう、気を引き締めてもらいたい。

今はホクホク顔だが、いつなんどき何らかの理由で党内のギクシャクが始まるかもわからない。
そんなことにならないよう、国のため、一致団結して行動してもらいたい。

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2010年7月10日 (土)

ねじれを望む

今度の参議院選挙では、民主党が単独過半数を獲得して安定政権になるかどうか、ということに関心が持たれている。

しかしこの「安定政権」とは何か。

安定すれば政治がやりやすくなる、効率よく運ぶ、ということなのではあるが、今の政権が安定して日本が良くなるとは私には思えない。

民主党政権が議員数さえ満たせば、いったい日本の政治は安定するものかどうか、投票する人はよく考えてもらいたい。

全く違う考えの人が寄り集まっている政党である。かつての自民党内の考え方の違いより大きい隔たりだ。だからやることなすことが支離滅裂になってしまう。

そんな党が安定政権となり得るのだろうか。

こういう政権を定着させる、ということは、支離滅裂のまま政治をやらせるということに他ならないのではないだろうか。

そんなことは国のためにならないのは明らかだ。

リーダーがしょっちゅう変わったり、離党者が続出して小党がたくさんできたりするのは、今の時点ではそんなに不安に思うようなことではない。
そのこと自体が悲劇なのではなく、政策が不安定で支離滅裂状態の政党が政権として定着することのほうが国民にとっては比べものにならないくらい不幸である。

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「みんなの党」が勢いを増しているという。

これは「政界再編」を望む有権者が増えていることの表れではないだろうか。

「みんなの党」が、その名前からして、間に合わせの「暫定的」な勢力であることは明らかだ。

この党には「国家観」がない、とか、「政界再編を目標とする」という結党宣言を「そんなことを目標とする政党など見たことない」と批判する人もいるが、みんなの党の役割はそれでいいのだ。

「みんなの党」は、たしかに観念論的な国家観を語らない。党首の渡辺喜美氏や幹事長の江田憲司氏は、いわゆる「伝統」を重んじる「保守派」ではないようである。
それでも、国を衰退させないためにするべきことは何かを念頭に置いて行動しており、この態度が今の政治に最も求められることだと私は思う。この国難の時はそれでいい。

「国家の品格」とか「命を守りたい」とかの情緒的スローガンはこの際あまり意味がない。

なんとしても生き延びたい時は、恥も忍ばなければいけないし、痛みを我慢しなければいけないことがあるし、冷徹に切り捨てなければいけないこともある。品格や命や平和などの言葉は空しいだけだ。

「強い経済、強い財政、強い社会保障」みたいなことをいくら叫んでも、そんなの誰もが望む当たり前のことじゃないの、としか言いようがない。

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「我慢をしてくれ」と腹の底から国民に呼びかけた小泉さんは、「格差を生んだ張本人」などというレッテルを貼られたまま政治家を辞めた。
それでも、何故いまだに小泉さんの人気が高いのか。
それはきっと、国民の多くが、おいしいことを言わなかった真剣な姿、「殺されてもいい」という壮絶な覚悟で改革に取り組んだ姿を覚えているからだろう。

国が生き延びるために冷徹な決断をしなくてはならないこともある。
その政策断行のおかげで、苦しむ人も出るし、それほど痛みを蒙らない人もいる。
これを当然のことと受け止めることができないから、怨嗟の声は大きくなり、為政者はひるむ。

誰もが得をする政治なんて、特に変革期にはあり得ない。
誰もが損も得もしない停滞した社会を望むなら社会主義でも取り入れればいいのだ。

「おいしいこと」しか言わない今の政党は信じるに値しない。

今回の選挙で民主党が議席を減らし、再び「ねじれ国会」になるかもしれない、という。

ねじれが起きて、民主党が大いに困ればいいと思う。法案が通らない苦しみを菅総理も経験してみるといい。

そうすれば、安倍さん以降の自公政権がなぜ連続して短期で頓挫したのか、国民は理解するだろう。

「お坊ちゃんだから甘い」などという短絡的な理由付けが適切でなかったことに気づくだろう。

政策が支離滅裂な民主党を数だけで安定させてはならない。

ぜひとも「政界再編」が巻き起こるような投票行動を望む。

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2010年7月 1日 (木)

体罰

可児市の「いじめ」事件について思う。

悪魔の子どもたち。

人間の心を持っていないのなら、そう呼ばれても仕方がない。

一人の女子中学生を5人で囲んで裸にし、写真に撮って携帯メールで他者に送信するという冷酷非道を行った子どもたち。しかもその加害者たちは同じ女子中学生という異常さ。

ネット検索すると、『これは「いじめ」などという生易しいものでなく明らかに犯罪だ、加害者に同じ事をしてやれ』、という意見が数多く見られる。

そうだ。何をためらっている。やってやればいい。同じ痛みを味わわなければ彼らはわからないのだから。

世間のこういう怒りの嵐が起こると、早速、「感情的になるな。噴き上がるな」と、冷静なオトナである精神科医や教育者や社会学者のセンセイがたが駆けつけ「社会がどうの、子どもたちの心がどうの」と数々の理論を展開して子どもたちにエクスキューズを与える。

これは「社会の病理」なのだろうか。一面でそういうことが言えるかもしれない。
しかし、いつの時代も残虐な人間というのはいただろうし、人を痛めつけて楽しむ性向を持つ人間もいたことだろう。
大昔からそういう人間はいたし、これからもいなくなることはないだろう。

こういう人間をどう扱うか。

近代刑法による裁きのなかった時代、彼らに課せられるのは、自分が犯したのと同等の体罰であったり、コミュニティからの追放であったりしたのだろう。それが12・3歳の子どもにも適用されたかどうかは知らないが。

社会の秩序維持にとって、どういう方法が効果的であるのか、今の時代に生きる私たちにはわからなくなっているのではないだろうか。
「社会の秩序維持」という前提さえ、あるいは間違っているのかもしれないではないか。
イスラム世界の「百叩きの刑」より、寛容な心で犯人の言い分を聞いてやり、理屈を説き、百万遍の説教をすることのほうが効果的であり人間的だ、と誰に断言できるだろうか。
しかし、「鞭打ちの刑」や「目には目を」や「仇討ち」法案が国会を通ることはない。

この愚かで残酷な中学生たちには、おそらく「カウンセリング」などと称して至れり尽くせりの更正メニューが施されることだろう。

私は教育の場での体罰には反対の立場なのだが、このいじめ事件は「体罰」相当だと思った。

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