« 浮かれないで | トップページ | 貯蓄税 »

2010年8月 4日 (水)

「mother」

庭の一角に作った菜園でミニトマトや茄子を収穫する。
そんなにたくさんは採れないので、一緒に世話をしている隣家の妹と分け合いながら、朝食の皿の片隅にちょっと添えたり、味噌汁の具にするくらいだが、自分で育てたものはおいしい。

育てやすい野菜だから、最初に堆肥を施した程度で、あとは毎日の米の研ぎ汁を肥料としてやる程度のことしかやっていない。
炎天下での水遣りも草抜きもすぐ済む。

それでもゴーヤなどは葉が薄いからか、猛暑の中、水遣りが遅れるとすぐに萎れてくる。「悪かった悪かった」と謝りながら水をやる。

.
大阪のマンションの一室に置き去りにされた二人の幼子は、水も食べ物も与えられず酷暑の室内に閉じ込められて死んでしまった。
ぐったりと横たわり、少し目覚めて泣き、泣き疲れては気を失い、そういうことを繰り返しながら意識がなくなっていったのだろう。

.

この事件を受けて、ワイドショーでコメンテーターの大学教授白石真澄さんがこんなコメントをしていた。
「私も二人の子供を育てましたけれど、(育児が大変で)子どもを生ゴミと一緒に捨ててやりたいと思ったことが何回かありました。私はその頃30歳過ぎで若くはなかったけど、この女性はまだ遊びたい盛りの23歳ですから、そういう気持ちになって当然だと思います」

「働きながらの子育ては並大抵のものでなく、みんなノイローゼになるほどの苦しみを味わうのだから、子どもをわずらわしく思うことに罪の意識をあまり感じないでほしい」という、働く母親への励ましの意図があって少し大げさに言っただけかもしれないから、この発言だけでは白石さんがほんとに酷いお母さんだったかどうかはわからない。

けれども、虐待死事件が起こるたびに、多くの子育て経験者が「私も子供を絞め殺したい衝動に駆られた」とか「子どもを放って家を出ようかと思った」とか、そういう意見が、多くの母親から遠慮なく発せられるようになったことが、私にはとてつもなく恐ろしく感じられる。

たしかに子どもはめんどくさいと思う時がある。
寝不足が続いて眠たい時、夜中に何度も喘息の発作で起こされたり、アトピーのかゆみで寝つかれない子どもを抱っこして寝かしつけたり、そんなことが長く続いた我が家の子育ても大変といえば大変だった。
毎夜毎夜泣かれると「お願いだから寝かせて」などとこちらのほうが泣きたくもなったが、死んでほしいなどとは露ほども思わなかった。

私なんかよりずっと育児に苦労した母親のほうが多いと思うが、それでも、ほとんどの母親は捨てたいとか死んでほしいとか思わなかったはずだ。

.
「子どもを捨ててしまいたい」とか「死んでほしい」とか、たとえそのように思ってしまう母親がいたとしても、それを口に出して言うべきではないし、ましてや「子育ては大変なのだからそう思うのもよくわかる」などという共感もすべきではない。なぜならそれは間違っているからだ。

間違っていることを、「共感できる」「そう思って当然」などと擁護していいものか。

そう思ってしまうのは仕方がないとしても、それは母親の「秘め事」としておくべきだ。生ゴミで出してしまいたい、などと決して口にしてはならないと思う。

白石さんは、心の中でだけでもいいからすべての子どもに謝ってほしい。

現代社会は、母親への「ちゃんと育てるべき」というプレッシャーが強すぎる、などと言われるが、親としての最低限のこともせずに「ちゃんと育てろというプレッシャー」とはいったいどういうことか。

母子の関係は、他人同士の「あいつ、気に入らないから死んでほしい」という関係とは次元が違う。

けれども、その母子の関係が従来のものと大きく変わりつつあるのだろう。母性の喪失が恐ろしい速さで進んでいる、という表現の方が適切か。

先日、聞いていたTBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」でも、子供を口汚く罵る若い母親の様子がリスナーから紹介されていた。単なる「昔のかあちゃん」的な勇ましい叱り方でなく、子どもの心を深く傷つけるようなえげつない言葉の連発だったという。
そう、そんな母親を見かけるのは今では日常茶飯事だ。

子供は、自分の人生にとって「厄介者」とみなされるようになった。

こういった虐待死事件や、その母親の心情を「当然」と擁護する風潮は、「子どもとは母親を苦しめる存在」として定着してしまうのではないか。恐るべき事態だ。

.
昔は、周りの助けがあった。家庭生活や地域社会や親戚関係が共同体として機能していた時代には、何らかの形の支えが期待できた。

しかし、人々が共同体の結びつきのわずらわしさを排除した結果、その利点も失ってしまった。

.
これからは、こういう事件は減ることはなく増え続けるだろうと思う。
昔のような共同体が復活するとは思えないし、それに変わる新しいシステムが速やかに構築されるとは思えないからだ。

すぐ隣に普通の人が普通の生活をしていながらこういう悲惨な事件が起きる。

行政や隣人の対応を怠慢だと責めるのは筋違いだと思う。
なぜなら、これは我々自身が選び取った現代の、特に都市生活の形態なのだから。

ラジオでは、大沢悠里が、「子供を産んだはいいけど育てられなくて苦しんでいる人が、子供を預けられる施設を作るべきではないか」と提案していた。
「赤ちゃんポストなどというものでなく、ちゃんと正体を明かして、こういう者ですが、こういう事情で子育てができなくなりました。しばらくのあいだ、預かっていただけませんか、と頼めるような駆け込み寺的な施設」

そういうものを作ってもなかなか利用しにくいことだろうとは思うが殺すくらいなら他人に預けてほしい。

子供を社会で育てるとはそういう手立てを考えることではないのか。

子ども手当てと称してお金を配ることではないと思う。

なぜなら、子供を邪魔者と感じるのは、貧困や無知が原因ではないからだ。白石真澄さんのような上級の女性でさえあのような心境に陥るということがそれを物語る。

.
・・・と、ここまで書いて、果たして母性の喪失は間違っているのだろうか、と思い至る。

間違っているから元に戻さなければいけない、というようなことなんだろうか? 

これらの現象は単なる生物の進化で、文明の必然なんじゃないだろうか?

母性が退化した今の時代にたまたま生まれたから、前世代の価値観とのギャップに若い母親が苦しんでいるのであって、それを責めることこそ間違っているのではないか?

女はただ子どもを産めばいい。社会はそれを預かって育てる、という時が来ているのではないか?

SF小説で描かれたような世界が現実のものとなりつつあるだけであって、それを無理して是正しようとあがくのでなく、われわれが本当にすべきことは、進化した人類に合わせた社会を構築すべきなのではないか。

そのようにも思えてくる。

.
それでも、我々は愛情の原点を母子愛に求めてしまうのである。

松雪泰子主演のテレビドラマ「mother」では、虐待を受ける少女を担任の女教師がやむにやまれず誘拐して救い出す、という筋書きだった。
彼女はたった一人でそれを計画し母子を装って逃げ回り、共に生活し心を通い合わせる過程で次第に母性に目覚めてゆく。

彼女を取り巻く多くの人々はそれを支えた。支えがなければ彼女はやはり子育てがいやになり、子どもを放り出したかもしれない。
たくさんの人たちがこの母子を救おうと奔走した、人の情愛を感じたドラマだった。

学校も行政も警察も動けなくて子どもが殺されてしまうのであれば、一般の国民が虐待されている子供たちを「誘拐」するしかないのだろうか。
大阪の幼児二人を誘拐しても、「誘拐」は親告罪だそうだから親が告訴しなければ、問われるのは「住居侵入」だけになるのかな。

.
  駆け込み寺は良い提案だと思うのですが 人気ブログランキング

.
         
          

|

« 浮かれないで | トップページ | 貯蓄税 »

コメント

ずいぶん世間で騒がれているようですが、私はrobitaさんの後段の意見なんです。手っ取り早くいえば、現代の都市社会で、子どもが「邪魔」だとか「捨ててしまいたい」と考える母親のほうが「正常」だろう、ということです。

養老孟司氏は「子どもは自然である」と述べています。氏の「唯脳論」でいいますと、都市は脳の表現系で人工物。子どもは肉体そのもので、これは自然なので相性が悪い、と指摘されています。
都市でつくられた人工物、たとえば貨幣とかオシャレとか贅沢な快楽、愉悦といったものは、全部が人工物なんです。考えてみればわかりますが、我々の思い描く「都会的な生活」の中に、赤ん坊が入り込む余地がありますか?
そういう人工物を快適だと感じてしまう以上、子どもが邪険にされてしまうのは無理もない、と思うんです。

フランスで出生率が上がった、だから色々な子育て支援制度を拡充すべきだという議論があります。しかし、意外と見過ごしがちなのは、フランスは欧州きっての第一次産業の国で、農業や漁業が盛んだということです。第一次産業の労働者が、それなりに豊に生活していける。一方、日本の農村漁村は疲弊して、ほんとうに爺ちゃん婆ちゃんしかいない。子どもを抱えた家庭が食べていけないんです。
おそらく、第一次産業で働く人が、ちゃんと生活できるようになっていけば、その自然の中で子どもは「場所」を得られるだろうと思うのです。だけど、もはや我が国では難しいかもしれませんねえ。

もしも本当に「社会で子どもを育てる」ことを決意するなら、結婚制度を廃止するのも有力な方法ですね。好みには合いませんが、その方が理屈としては貫徹するように思います。

投稿: single40 | 2010年8月 6日 (金) 15時16分

robitaさん、

ちょっと歴史の話をしますと。1880年に明治政府が堕胎罪を制定する以前では、間引きや子おろしは家族計画として「あたりまえ」のことでした。「子供の人権」という概念が誕生したのは、近代以後の話です。昔は子供を社会で育てていたというのは、逆から言えば、その社会で育てる余力がない場合は、あっさりと消してきたということです。これは老人も同じです。人は、その昔から家族や共同体を維持していくためには、子供を殺し、老人を殺してきました。むごい話ですが、ようは、それほど、「家族や共同体を維持していくということ」は「たいへんなこと」だったわけであり、あるいは、それほど、人間というのは自分勝手なもんであるとも言えます。

robitaさんは母性の喪失を言われていますが、母性だけで子育てはできません。仮に母性があったとして、20代で結婚して、子供を2人産んで、離婚して、それで母子で生活できますか?むしろ、問うべきことは、そうした母子家庭をフォローできない今の社会保障制度なのではないでしょうか。

しかしながら、

これからの時代、「子供を産んだはいいけど育てられなくて苦しんでいる人が、子供を預けられる施設を作るべきではないか」と書かれていますが、その施設の予算はどこから出すのでしょうか。当然、都道府県や国なのでしょうけど、そうしたことをやる余裕が、これからますます経済が低調になるこの国にあるのかどうか疑問です。国家を運営していくということは、国防や教育や福祉とかいった様々なものにカネをかけなくてはなりません。しかし、そうした余裕がなくなっているのが今のこの国なのです。世界経済第二位は中国になりました。韓国もどんどん成長しています。その反面、日本はアジアの停滞国になっています。

国に経済的収入がなくなっていくとどうなるのか。

昔と同じです。その昔、家族や共同体を維持していくためには、子供を殺し、老人を殺してきたことの繰り返しです。ようするに、今の時代、子供や若者や老人が社会的弱者へと置かれ、日本国共同体の主力構成員だけが(しかもその中でも、民間労働者と公務員、派遣労働者と正社員では格差があります)がなんとか先進国の社会水準を保っているだけなのです。

投稿: 真魚 | 2010年8月 7日 (土) 12時58分

★single40さん、

なるほど、赤ん坊と都市生活はそもそも相容れない、ということですか。
そうかもしれません。

>フランスは欧州きっての第一次産業の国で、農業や漁業が盛んだということです。第一次産業の労働者が、それなりに豊に生活していける<

そういう点もあるとは思いますが、フランスの少子化対策ってどうなんでしょうねえ。
子ども3人産めば働かなくても暮らして行けるだなんて、なんか違うんじゃないでしょうか。
都市部では、行き着いた社会形態に自分たち自身戸惑っているようにも見えます。
親の事実婚や自由恋愛に振り回される子どもたちの心の混乱を揶揄した自動車メーカーのコマーシャルが紹介されているのを見たことがありますが、家族崩壊に不安を覚えるのもフランス人の本音かもしれないなあと思います。


>一方、日本の農村漁村は疲弊して、ほんとうに爺ちゃん婆ちゃんしかいない。子どもを抱えた家庭が食べていけないんです。<

最近「さよならニッポン農業」と「日本は世界5位の農業大国」という本を読みましたが、私の日本農業に対する認識は大きく間違っていた、と思わされました。
農業振興とは日本農業を保護することでなく、グローバリズムの波に乗ってまともに市場競争することだそうですね。


>好みには合いませんが、その方が理屈としては貫徹するように思います。<

この「好み」の傾向が、人間の品格なるものを決定すると私は思ってるんです。
余談ですが、保守系の人々が民主党政権を好きになれないのは、民主党政権の中枢に居座る左翼体質の人々の考え方や、民主党が掲げる政策を実行した場合に出来上がる社会に品格を期待することができないと思ってるからじゃないでしょうか。
とにもかくにも国の経済を立て直さなければならない時は「品格」を後回しにせざるを得ないこともありますが、やむを得ざる「過程」でなく、民主党の「目標」とする社会そのものが品格のないものになってしまうのではないかという懸念があります。

「理屈を貫徹」するだけで人は幸福を感じることはできないと思います。

投稿: robita | 2010年8月 7日 (土) 17時05分

★真魚さん、

>ちょっと歴史の話をしますと。1880年に明治政府が堕胎罪を制定する以前では、間引きや子おろしは家族計画として「あたりまえ」のことでした。「子供の人権」という概念が誕生したのは、近代以後の話です。<

仰るとおりですね。
つまり、共同体の一員として認められる前に抹殺するのが「間引き」であったと思います。
でも、いったん家族として迎えられたのちに何のためらいもなく殺したり、意味もなく虐待したりということが流行のように行われていたのでしょうか?
共同体は自分たちで守っていたんじゃないでしょうか。

間引き(堕胎)なら、昔も今も変わりなく水面下で行われていることです。

>20代で結婚して、子供を2人産んで、離婚して、それで母子で生活できますか?むしろ、問うべきことは、そうした母子家庭をフォローできない今の社会保障制度なのではないでしょうか。<

ホストクラブで遊びたいから子育て放棄するとか、知性もお金もあるのに面倒くさいから子どもを生ゴミと一緒に捨てたくなるとか、そういう母親の話をしてるんですけどね。

>その施設の予算はどこから出すのでしょうか。<

子ども手当てなどやめれば出せると思ったんですけど。

投稿: robita | 2010年8月 7日 (土) 17時09分

robitaさん、

白石真澄さんの「コメント」ですが、「秘め事」を露わに切り込むのが評論家の役割なのでしょうから、それはまあ仕方ないとしても、現代の一母親を語るのであるならば、「しかしそうは思っても実際に捨てることは決して無かった」その大きな相違について力説して頂きたかったですね。

私の場合、この若い母親の育児放棄事件ではなく、女性アナウンサーの育休中の飛び降り自殺事件に対して「ああなんとなくわかる・・・」という気持ちを持ちました。

つまり、「どうにもならないこの現状」を止めるための手段として、自分を消す、という選択は分かる、と。

真っ赤になって泣きやまぬ子どもに対して手を挙げたり、ネグレクトすることは、私はどうしても出来ませんでした。だからこそ、私がここから飛び降りれば・・・と思ったのでしょう。

そんなに私がテンぱる中、急にストンと眠りに落ちた子どもをしがみつく様に抱きながら、助かった、とホッとしたこともありました。

もしあの時、トンと背中をひと押しするものがあったなら、私もふと「自死」への一歩を踏み出したのだろうか、と考えることもあります。でも、踏み出さなかった、のですが。

single40さんが、

>養老孟司氏は「子どもは自然である」と述べています。氏の「唯脳論」でいいますと、都市は脳の表現系で人工物。子どもは肉体そのもので、これは自然なので相性が悪い、と指摘されています。

とコメントされていますが、養老さんの仰る通りだと思います。

やはり、現代の多くの「大人」とは、高度に都市へ適応して来た存在を指すのだと思います。

この「肉体」そのものの「動物」は、「大人」が一人で到底適う存在では無いことをつくづく身をもって知る、それが「親になる」ということのひとつなのだろうと感じています。そのことが見えてくると、「子ども」という存在がさらに愛しくなってくる。だからこそ、子どもは社会の「宝」で「未来」なのね、と。

実は「高度に都市化した大人」などは、そんなに小さい生命にも宿る「自然」の前では、まったく心細い存在であるわけですが、今更大きく変態出来ぬ「大人」の私は、「心細い存在」のままであります・・・

投稿: kaku | 2010年8月13日 (金) 10時20分

robitaさん、


子供を捨てたくなったと言っても、実際に捨てたわけではありませんし、ホストクラブに通わずに、必死で働いたとして、この女性の場合、客観的に見て母親と子供2人が生活できるのでしょうか。

何度も申しますが、母性や母子愛があれば、育児の艱難辛苦をすべて乗り越えることできるというのは、いかがなものでしょうか。なんとなく、「ヤマトタマシイがあれば戦争に勝てる!!」と言っていた戦争中と同じものを感じるのですが。

ちなみに、「生ゴミに出して捨てたい」という言葉に、なるほど母親というのはこういう発想ができるのかと感心(ああっ「感心」とか言ってはいけませんね)(笑)しました。オトコには、こうした発想はできないです。母親は、子供を我が身から生まれ出たモノとして見ることができるというか、なんといいますか。「母親にとって我が子とは、そもそもなにか」ということは、ひとことでは言えない様々な面があります。

その昔の時代の話で言えば、例えば家の経済状況が悪かった時、その時に生まれた子供は間引く。子供は、生活に余裕ができた時に作ればまたいい、という選択もありました。いや、こんなことは、昔の話ではなく、今でも行われていますが。

だから(だから、というわけでもないですが)、女性は若い時から嫁ぐ、ということをしてきたわけです。子供は生まれても、そのまま無事に育つかどうかはわからない、ということが当たり前だった時代、若い時期から子供を生むということは、将来のリスク対応でもありました。

つまり、子供をどう育てるかについてはさまざまあって、一概には言えないです。母親が、子供を捨てちゃおうかしら、とか、あるいは、ホストクラブで遊びたい、と思うこともあってもおかしくないのではないか。それを、そう思ってはいけません。あるいは、思ってもいいけど、口に出してはいけません、と言うのは、なんか言論統制みたいです。

個人はどうであったっていいんです。個人がどう生きようと、それは個人の自由です。むしろ、行政がしっかり対応しなくてはなりません。日本国に生まれた者は、母子家庭で子供が二人であろうと、三人であろうと、四人であろうと、国が保護します、国が生活費のめんどうをみます、という手厚い生活保障がある国になぜならないのでしょうか。

こうしたことを言うと、こんなバカ母親であっても、国が面倒みなくてはならないのかと言われるかもしれませんが、そうなのです。国というものは、そういうものなのです。そうなったら、バカ母親が増えるだけだと言われるかもしれませんが、それは別の話です。

投稿: 真魚 | 2010年8月14日 (土) 12時51分

★kakuさん、

「都市化」とは家族形態の変化も含まれますね。
核家族化というのは私の若い頃からずいぶんと進んでいたものですが、女性の社会進出が旺盛になるにつれて、母親の悩みも増大してきたのでしょう。
これは誰が悪いのでもない、誰の責任でもない、時代がそうなったというだけのことだと思います。

>「どうにもならないこの現状」を止めるための手段として、自分を消す、という選択は分かる、と。<

多くの母親がこのように思っているとしたら由々しき事態・・・・とは思いますが、私の育児中にもそういう母親はいました。「いっそ(社宅から見える)あの電車に飛び込もうかと・・」

子どもにもよると思います。ほんとに大変な子もいるし、比較的楽な子もいる。でもね、大変な子ほど面白く成長するかもしれませんよ。

投稿: robita | 2010年8月16日 (月) 11時47分

★真魚さん、

>ホストクラブに通わずに、必死で働いたとして、この女性の場合、客観的に見て母親と子供2人が生活できるのでしょうか<

生活費が足りなければ当然生活できませんね。
必死で働いているのに食べていけないのであれば当然国が助けなければいけませんね。
高い保育費を払いつつ、必死に子育てをしている人に救いの手はぜひとも必要だと思います。

そのことと、経済的に問題がないのに子どもを捨てたくなる母親の話とは、論点が違いますね。

>何度も申しますが、母性や母子愛があれば、育児の艱難辛苦をすべて乗り越えることできるというのは、いかがなものでしょうか。なんとなく、「ヤマトタマシイがあれば戦争に勝てる!!」と言っていた戦争中と同じものを感じるのですが。<

私そんなこと言ってますか? 最低限の親の務めは果たすべきでしょう、と言ってるだけなんですけど。
なんでそういう極端な言い方をするのかなあ。

それに「精神論『悪者論』」にも私はひとこと言いたいです。
人間は精神で成り立っているんじゃありませんか?
精神さえあればなんでもオッケーというわけではもちろんないけれど、人間の行動の原点は精神です。気持ちを鼓舞しないと頑張れない私はそう思います。

時代も変わったし、女性も変わった、人類自体が変わった、だから、昔の価値観で今の人を断罪するのは正しくないと思いますよ。
私も「昔はこうだった」だから「今の人もこうあるべき」なんて単純に思ったりしませんよ。第一、私たちの世代自体、前の世代から見れば「たるんどる」わけですから。

しかし、母性については人類が初めて経験する大きな変化を感じます。
結局「旧人類」と「新人類」の違いなんですよ。

>「生ゴミに出して捨てたい」という言葉に、なるほど母親というのはこういう発想ができるのかと感心(ああっ「感心」とか言ってはいけませんね)(笑)しました。オトコには、こうした発想はできないです。<

いえ、オトコに発想できないんじゃなくて、女にもできません。

>母親が、子供を捨てちゃおうかしら、とか、あるいは、ホストクラブで遊びたい、と思うこともあってもおかしくないのではないか。それを、そう思ってはいけません。あるいは、思ってもいいけど、口に出してはいけません、と言うのは、なんか言論統制みたいです。<

ホストクラブで遊びたい、と言っても構わないけれど、捨てちゃいたいという本音は言わないほうがいいんじゃないですか。
なぜなら、多くのお母さんが言うようになるとその情報は子どもにも知れ渡るからです。

女性は子どもを自分の人生の邪魔者と思い、子どもが成長して手がかからなくなると今度は夫を邪魔者だと思うようになる。
どうです、真魚さん、恐ろしいでしょう?

でも、悪いのは女性ではなく、「都市化であり、わがままで手のかかる夫」ということになりましょうか。

私は、不謹慎な言い方かもしれませんが、社会や人類の大きな変化を、私の人生程度の短い期間で一挙に目撃できた、ということに感動しています。
母子関係家族関係の激しい変化から資本主義の行き詰まりまで見ることができたんですから。
できたらあと3・40年も生きてもっと見てみたい気がします。

投稿: robita | 2010年8月16日 (月) 12時03分

確かに子育てはきついこともあります。私も子どもを抱っこしたまま泣いたことがあります(しかも、泣く我が子より大きな声で…、あんな風に泣いたのは久しぶりでした)
でも、やはり子どもは可愛いです、理屈じゃなく。“私がいなければ死んでしまうかもしれないこの小さな命を守らなくちゃ”と思い、一日一日を積み重ねて、漸く楽になってきたこの頃、大変な時間はあっという間でした。

でも、その渦中にいる時は長く感じられますから、当事者の大変さを「みんなそうやってきたんだから」などと否定するようなことを言えば、尚更辛くさせてしまうと思います。「大変だね」とわかってあげるだけでも、どれだけ気持ちが救われることか…。私の周囲にも「窓から投げようかと思ったことがある」と言ったお母さんがいますが、もちろんそうせず、二人の子どもさんを働きながらちゃんと育てておられます。

「可愛いから抱っこするのではなく、抱っこするから可愛くなる」という言葉を読んだことがあります。母性は大なり小なりあるものなのでしょうが、すんなり湧いてこない人もいるでしょう。私は「母性の喪失」をこういう時代だから仕方がないとは思いたくありません。確かに子育てより魅力的なことは沢山あって、昔よりも「我慢や犠牲」を強いられていると感じ易くなっていると思います。では、子育ては辛いことしかないのかと言うと、そうではないと思います。子どもによって、親も育てられ、支えられます。確かに情だけでは生活できませんが、情のない生活は殺伐としたものでしょうね。

私は「安易に」子どもを人の手に委ねることには、やはり違和感を覚えますが、どうしようもないケースの場合、他人の手に任せることも仕方がないのかしらとも思います。周囲の関わり方も複雑になってきており、「制度」という形に頼らざるを得ないのかもしれません。豊かな生活、干渉されない自由さと引き換えに失ったものは大きいのでしょうね。(人それぞれ価値観は違いますが…)

国が生活費を負担するという保障も、なかなか難しいと思います。中には、それを自分の遊興費に当てる親もいたり、働かずに「国から貰えるから」と、懸命に働く家庭よりも豊かに暮らす人もいるからです。何でも「税金で」と、言うのは簡単ですが、財源の問題もあり、「ゆりかごから墓場まで」国が全面的に面倒を見るという発想は、社会主義国家ということですよね。

投稿: ハハサウルス | 2010年8月16日 (月) 12時18分

★ハハサウルスさん、

>どうしようもないケースの場合、他人の手に任せることも仕方がないのかしらとも思います。周囲の関わり方も複雑になってきており、「制度」という形に頼らざるを得ないのかもしれません。<

そうなんですよね。子どもは母親が育てるのが一番だと思いますが、祖父母も関われない、隣近所や友人にも頼れないとなると、しかるべき制度を整えるしかないかもしれませんね。

>豊かな生活、干渉されない自由さと引き換えに失ったものは大きいのでしょうね。<

私は、母親が「子どもを捨てちゃいたい」みたいなことを軽々しく言うべきではない、なぜなら、それを子どもが知ることになるから、と書きましたが、もう、こういう社会ではそれを言うほうがいいのかもしれません。大変なのは事実なのだから。
で、母親がそんなに大変に思う原因をみんながもっと真剣に考えるようになれば、干渉されない自由な生活というものがむしろ不幸を生むという認識が広がるし、それは人々がつながりを取り戻そうとする動きになるかもしれません。

>何でも「税金で」と、言うのは簡単ですが、財源の問題もあり、「ゆりかごから墓場まで」国が全面的に面倒を見るという発想は、社会主義国家ということですよね。<

私も日本を社会主義国家にしたくありません。

投稿: robita | 2010年8月16日 (月) 13時20分

robitaさん、

ハハサウルスさんのご意見で、たいへん印象深いのが

「子どもによって、親も育てられ、支えられます。」

「大変な時間はあっという間でした。」

ということです。これはまさにその通りで、子供を育てるということは、実は親も多くを子供から「もらっている」んですね。日々成長していく子供が身近にいるということは、手間はかかるけど、どれほど大きな救いになっているか、ということがあると思います。

もう一点は、そうした「子育てに手間がかかる時期」というのは、終わってみると、あっという間の短い時間だった、ということです。なにも自分の人生の大部分が子育てに費やされるわけではない、ということです。そして、短い時期なんですけど、その「手間がかかる子供がいた」というのは、親の人生にとって、二度と体験することがない、かけがえのない時間になるということです。子育てという、あっという間の短い時間が、自分のその後の人生に深い意味を与えるというのは、これすごく大切なことで、今の世の中でなぜもっと多く語られることがないんだろうと思います。

私が思うに、なぜそうなのかといいますと、親の人生にも限りがあるからなんだと思います。人生という時間は有限なものなのであるということは、現代文明では隠されています。こうしたものの意味が、資本主義では評価されません。

投稿: 真魚 | 2010年8月16日 (月) 14時33分

★真魚さん、

ハハサウルスさんのご意見には全文全面同意です。

>「子どもによって、親も育てられ、支えられます。」「大変な時間はあっという間でした。」<

これは、子どもを育てた経験のある人なら誰でも学び、実感することです。

>自分のその後の人生に深い意味を与えるというのは、これすごく大切なことで、今の世の中でなぜもっと多く語られることがないんだろうと思います。<

そんなことありません。そういうことは私も語りますし、人が語っているのもよく耳にします。このブログでもどこかに書いていると思います。
もし「それが語られない」と感じるのであれば、それは若い人が聞く耳を持たないからなのか、あるいは、世代間の交流が少ないからかもしれません。
年寄りも「うざい」と言われるのを恐れてはいけないし、若い人のほうも年寄りの知恵を吸収する姿勢が求められます。

>こうしたものの意味が、資本主義では評価されません。<

資本主義だからなんでしょうか?
おそらく、資本主義が進むと、競争社会、金儲け主義に陥りやすいから人間関係や時間が殺伐としたものになる、という意味なんでしょうけど、それでは他の経済形態だとこういうことは起こらないかといえば、そんなことはなくて、人間の飽くなき欲望は必然だと思います。
この広い宇宙の中には、欲望が肥大せず、みんなで仲良く暮らしている知的生命もどこかに存在するのかもしれませんが、地球上の私たちにとっては「資本主義だからいけないんだ」というような話ではないと思いますよ。欲望があるから進歩するわけですから。

そんな中、この世から知性も愛情もなくなったしまったわけではありません。
積み重ねてきた膨大な文化の記録もあります。
母性の喪失という現象にも、行き過ぎた資本主義による惨状にも意味があります。
辛いことを経験して私たちはそれを糧にするんじゃありませんか?

もうひとつ言いたいのは、昔と今を比較して、今の悪いところばかり言い過ぎ。いや、言い過ぎても構わないんですが、同時に現代文明の恩恵も忘れてはならないと思います。
「豊かになって心が貧しくなった」ということが盛んに言われます。
たしかにそういう面はありますが、今のこの便利さというのはたくさんの幸せを我々にもたらしました。
「現代の良い面」をもっと有難く受け入れる心も大切だと思います。

その上で、「限りある人生を深くゆったりと生きる知恵を出し合う」ことが必要になると思います。
真魚さんは「こうしたものの意味が、資本主義では評価されません」と仰いますが、そんなことはないです。
金儲けに必死になる人もいれば、物欲のない人もいます。
色々な人がいて修正し合うんだと思います。

昔のような血縁関係や地域共同体が復活する動きになるのか、それとも、個人主義社会のまま、何か新しいしくみが構築されていくのか、私が生きている間に素晴らしき新世界を見ることができるのだろうか、期待して老後を過ごしたいと思います。


投稿: robita | 2010年8月17日 (火) 09時48分

皆さん何とトロい議論をしているのでしょう!社会経済的な問題も結構ですが、こうした緊急事態にそのような迂遠な観点は役立ちません。大切なのは本物のアクション・ヒーローの投入、すなわち力による介入をどう行なうかです。

これまでもいくつかの殺人事件では、警察が犯人の家まで行きながら、その中に囚われている犠牲者に気づかなかった(気づけなかった)ために殺されたという例があります。プライバシーの保護も結構ですが、そのために生命や身の安全が脅かされては、本来守られるべき市民の自由が侵害されてしまいます。

何と言っても侵害されても回復可能な自由と回復不可能な自由の比較衡量が重要になるでしょう。そのためには市民の皆さんに一言提言があります。

それは間違いだらけのアクション・ヒーローを大らかに爆笑する余裕を持つことです。治安当局や市民自警団が「脅かされている人を救おう」として、見当違いの場所に介入してしまうこともあるでしょう。それが思わず恥ずかしい場面の覗き見になることもあるでしょう。しかし、それらは大抵の場合、侵害されても回復可能な自由です。危険を見過ごされたら、その自由は回復不可能です。

本物のアクション・ヒーローなんてすぐには育ちません。人は誤りを重ねながら本物に育ちます。だから、robitaさん、まず我々から間違いだらけのアクション・ヒーローを大らかに爆笑してゆきましょう。

投稿: Shah亜歴 | 2010年8月20日 (金) 13時34分

★Sha亜歴さん、

>まず我々から間違いだらけのアクション・ヒーローを大らかに爆笑してゆきましょう。<

そうなんです。
突入して結果的に間違いだったとしても、世間が寛容であれば行政や警察や住民もやりやすくなりますね。
突入された側が「プライバシーの侵害だ」と訴えたり、マスコミが「突入に問題はなかったか」とか小うるさく騒ぎ立てなければいいんですけど、まあ、人権も大事だし、細かい検証も必要だし、難しいことですね。

投稿: robita | 2010年8月21日 (土) 11時17分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/36025606

この記事へのトラックバック一覧です: 「mother」:

« 浮かれないで | トップページ | 貯蓄税 »