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2010年10月30日 (土)

究極の愛

例えば、右翼だとか自由競争主義者だとかがこの世から姿を消していなくなったとする。
左翼と言われている人間だけになった世界が助け合い分け合って平和になるかと言えば、そんなことは全然なくて、その集団は新たに左右だか上下だか前後だか知らないがとにかく異なった利益集団に分かれることだろう。

多くの人が利権に腹を立てるものの、この世のほとんどは利権で動いている。
政界から地域の自治会まで、利権が作用するから、人は損をしたり得をしたりする。
自分は利権に関係ないと思っている人だって、直接間接に恵みを受けているはずだ。

人間の欲望が環境を汚染させているとの反省から、生物多様性の保護だとか、地球温暖化ストップだとか、それはまあ人間の良心だとは思いたいが(そして結局は人間の生活を守ることにつながるのではあるだろうが)、当面の問題として総論賛成各論反対になるのはやむを得ない。

自分たちが不自由してまで森のクマさんや海のクジラ様を守ろうなんて気は人間にはないはずなのだから。
動植物の生態系を守るために莫大なお金が投入され、自分たちの取り分が削られるなんてことになったら人間は「それは困る」と言い出すにちがいない。

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若いとき、SF未来小説を読んでいた。それで「地球人としての人間」を考えるクセがついた。
物欲に支配されず、精神世界に生きることが究極の人類の到達点である、というような理解もしていた。

しかし、人間はそれを目的として行動するのではない。
その到達点に向かって進むのではない。
遺伝子を残すために利己的にならざるを得ないのがあらゆる生物の宿命なのだと大人になって気づいた。

物欲を捨て精神世界に生きる人は昔も今もいつの世にも存在する。
本能に従って生きる人間集団の中に、時折、そういう突然変異とも言うべき人があらわれる。
しかし、その人々は遺伝子を残すことに熱心でない。
生存競争に負けるのだから、そういう人たちが世界を席巻することはない。

人間は本音では、自分だけは生き残りたい、勝ちたい、と思いながら、哲学をする唯一の生き物であるがために、他者の幸せも熱心に考える。

知的であるがゆえに共存・共生という思想を持つのだが、それも自らの生き残りのための戦略の一つだろう。基本はあくまでも「他」のためでなく、「自」のためである。
その戦略を人間は「愛」と呼んでいるのかもしれない。

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さて、産経新聞「正論」に藤岡信勝氏がこのような一文を寄せている。→ http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101028/plc1010280305001-n1.htm

要約すればこういうことになろうか;
【子供時代から左翼思想を植え付けられた者たちが長じて今、政権に就き、国を貶める自虐史観を公言し、社会主義国家の建設に邁進している】

この政権のこれからの国家運営は、やっと目覚め始めた日本人の目をまた閉ざしてしまうのかと心配にもなるが、一方で、この政権ゆえに「外は敵だらけ」という現実を日本人は知ることとなったのだから、子供たちの教育さえ間違えなければ、しばらくぶざまな姿を観察していてもいいかな、と思う。
とにかく大人がしっかりすることである。子供たちがヘンな教師に洗脳されないよう監視しなくてはいけない。

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人間というのは「洗脳」によって成り立っている。
「洗脳」という表現が適切でないなら、「刷り込み」とでもいうべきか。

刷り込みは何も左翼だけではなく、右翼だって中庸の人だって外からの何らかの影響でそのように育つ。
そのように教育され、そのように育つのである。
完全自立で自分を自分だけで育てる人などいない。
環境や教育によって人間は出来上がる。そして生き方が決まるし、他人に対して影響力を行使しようとする。

右だろうが左だろうが人それぞれの生き方があるし考え方がある。

しかし、生物としての根本目的は共通している。
それは「生き残り」であり、遺伝子の継承である。利己的にならざるを得ない。

・・・とは言え、そう言い切るほどドライになることにためらいの気持ちがあるので、やはり愛する者のために自分の生存をあきらめることができるのも人間の持つ最も尊い愛だと信じたい。
そしてその愛を貫く人が時折現れるので私たちは感動するのである。
感動は人間の行動の原動力となる。

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しかし、人間と違って国家が愛を標榜することはない。
国家は愛で動くのではない。
他人ではなく自分たちが生き残るために人は国家を形成するのだから。

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2010年10月18日 (月)

人情味あふれる地域社会

ちかごろ世の中に起こる出来事を受けて、「殺伐とした社会になった」、「昔はもっと人々は人情にあふれていた」、「昔の日本人は優しかった。日本人はどうしてこんなに冷たくなったのか」などと盛んに言われるようになった。
「商店街は人のぬくもりに満ちていて、駄菓子屋のおじさんおばさんは子どもたちをまるで親のように叱ったり褒めたりして接していた。あの地域共同体を取り戻さなければいけない」などと力説する社会学者などもいて、それはまあ、一面でそういう風にも見ることができるとは思う。

しかし、私は昭和の子供であったから、いろいろなことを体で覚えているから言うのだが、昔の日本人って果たしてそんなに優しかっただろうか。人の優しさなら、今のほうがずっと上だと思うのだ。

子どもの頃、商店街におつかいに行かされるのが好きではなかった。夕方の買い物どきの商店はどこも主婦たちが群がり、われ先に「あれ頂戴これ頂戴」と店員に大声をかけて物を買っていく。体も小さい、声も小さい子どもは後回しになり、店員が気づいてくれるまでドキドキおたおたと待つしかない。いくつかの店で買い物を済ませてやっと家に帰れば「遅かった」と叱られる。

駄菓子屋のおじいさんは子どもたちの名前など覚える気もなく、万引きに目を光らせていたり、菓子の当たりくじが続けて出ると機嫌が悪くなったりしていた。

紙芝居だって、駄菓子(見料)を買わない子どもはシッシッと追い払われた。

大人も子供も自らの利益を守るのに必死で、互いにある意味狡猾さを発揮していた。子供だからと警戒を緩めていては生活が立ち行かなくなるだろうし、子供たちは自由に使えるお金をあまり持っていなかったから、けっこうずるがしこく立ち回った。

少し大きくなってから郵便局やその他の役所などに用足しに行くようになってからも、局員や職員の態度はつっけんどんだったし、ときに非常に意地が悪かった。

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そのうちスーパーマーケットが台頭してくると、買い物が楽になった。店員に「お願い」しなくても、入用のものをかごに入れてレジに行けばいいだけになった。

役所の人々も昔と違って格段に丁寧で親切になった。結構なことである。

要するに、「人が優しかったかどうか」が問題なのではなく、厳しい環境を生き抜くために大人も子供もたくましさ(狡猾さと言ってもいいかもしれない)を身につけざるを得なかったのではないだろうか。

その「厳しい環境」こそが絶好の「育ての親」だったため、後になって、「自分を育ててくれた人情味あふれる地域社会」という風に記憶を転換させていったのではないだろうか。

さらに、外の環境が厳しいからこそ、それに対抗して自分たちの利益を守るべく、血縁で結ばれた家族という共同体の絆が強固だったとも言える。

たしかに昔の日本人の「素朴さ」なるものはあったに違いない。しかしそれはすべてが「善」であったり「優しさ」を意味するものではなかったように思う。

件の社会学者は、もしかしたら駄菓子屋体験がないのではないか。
頭に描いた幻想を「昔の現実」と勘違いしているかもしれない。

私の記憶違い、あるいは私の体験が特殊だった可能性もあるので、断言はできないが、昔の人は恐かったよ。

でも、どうだろうか。私の世代でなく、もっと後、例えば今の40代50代の人たちの子供の頃は地域社会は善意のおじさんおばさんで満ち溢れていたのだろうか。ぜひ知りたいものだ。

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2010年10月 7日 (木)

自虐なのか柔軟なのか

上坂冬子さんが好きなのに、著書を一冊も読んでいなかったので、エッセイ集「女の生活力」を読んでみた。

女ひとり生きることの悲喜こもごもが描かれる。

「独身で生きてきて悔いはないかと聞かれれば、意地にも悔いているなどといいたくないけれど、正直なところ私としては他人さまに独身をすすめる気にはなれない。むしろ死んだつもりで妥協できるなら、一度は結婚したほうがいいというだろう。」

そして、古い婦人雑誌の読者投稿欄に載っていた句を紹介している。

   死んだつもりの見合い しあわせ桐の花

「たしかに女に生まれたことに選択の余地はなかったけれど、本気で人生の方向転換を考えたなら、死んだつもりで好きでもない男に寄り添うことだってできたのではないか。もしそうしていればそれなりに私も今とは別な人生を案外楽しんでいたかもしれない。死んだつもりで方向転換のできる自虐性とたくましさは女の生活力である。たぶん、私にはそれが欠けていたのだろう。」

そして、4.5日前、共時性というのだろうか、書店をぶらぶらしていたら、平積みの「結婚相手は抽選で」(垣谷 美雨 )という本のタイトルに釘付けになった。値が張るハードカバーだけど即購入。
面白い。1日で読んでしまった。

少子化対策として、「抽選見合い結婚法」が制定され、独身男女が否応なく見合いをさせられる。気に入らなければ断ってもいいが3人断ると強制的に「テロ撲滅隊」に入隊させられる、という筋書きである。

荒唐無稽と一蹴してしまうのがもったいなく思えるほど、物語の展開、人物描写、台詞が興味深く面白い。

人間に向けられる著者の温かい視線にも好感を持つ。
もてないオタク男に投げつけられる容赦ない叱咤の言葉は作家自身の彼らに対する苛立ちのあらわれであろうが、それでもそういう男たちに対しても、お高くとまっている女たちに対しても寛容な見方をしていると思う。

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死ぬ気で選ぶ結婚相手。いやもうそれは「選ぶ」のではなく、「身をまかせる」と言うべきか。

「こんな男と結婚するくらいなら死んだほうがまし」という女の気持ちは、大恋愛による結婚が憎悪の結末へと導かれるありふれた未来を想像できさえすれば、解放されることは簡単なのだが。

結婚の前提には恋愛があるべき、という思い込みにとらわれているかぎりはカップルが成立しないのは当たり前、という明々白々たる現実がある。
言うまでもないが、見合い結婚が普通であった時代にはほとんどの人間は年頃になれば結婚し子どもを生み家庭を築いていたのだ。

家庭を築かなくなる・・・これは果たして単に少子化という問題を生むだけなのだろうか。

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人は幸福を希求する生き物である。
その作業の過程で何もかもうまくいかなかったり、すべてを失ったりすると人は絶望するものだが、その一方で、「何も怖いものがない」という心境はかえって人をたくましくすることもある。
それが自分ひとりではなく、集団だとなおさらだ。

行き詰った時に、常識を覆すような手段は、どんな問題であれ、奇策とされながらも提言され続け、考えさせられる。
ヤケになったり閉じこもったりするより「こんなのどうかね」と考え続けるほうがずっといい。

少子化で国が立ち行かなくなり滅亡の危機が目前に迫った時に初めて人は正義や幸福について真剣にに考えるようになるのかもしれないなあ、と思う。
死ぬか生きるかの状態になった時、人間は何を考えるだろう。

そう、件の奇策は少子化対策なんかじゃない。
どんな状況にもしたたかにしなやかに自分をあてはめ、自分なりのしあわせを自らの知恵と工夫で楽しんでみせるたくましくも柔軟な本来の「女の生活力」の喚起なのだ。

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2010年10月 1日 (金)

もう遅いのか

「尖閣列島は我が国固有の領土である」「中国と日本の間に領土問題は存在しない」

菅総理はじめ、国を代表する大臣たちはそう繰り返すばかりだ。

最も大事なことは、「なぜ尖閣は日本のものなのか」という根拠をはっきりと述べることである。

それは、中国に向けて、世界に向けて、何より日本国民に向けて説明されるべきなのである。

根拠も述べず、「日本の領土なんだから日本の領土なんだ」と繰り返すだけでは駄々っ子のようで説得力などない。

根拠を説明するという基礎的なことを、政府はやっていない。

それを、昨日の予算委員会で公明党議員に指摘され、菅総理だったか前原外相だったか、「わかりました。これからやります」みたいな態度だった。

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他国に理不尽な扱いを受けて、なぜ日本は毅然とした態度がとれないのか。

それは日本が65年のあいだにすっかりそういう体質になってしまったからである。

国会で自民党は政府与党を「毅然とした対応をしろ」と責めていたが、あれは野党だからできるのである。自民党も今なら威勢の良いことを言える。

民主党も、小泉政権の時に、魚釣島に上陸した中国の活動家を逮捕せずすぐに強制送還したのを、「事なかれ主義だ、及び腰だ」と言って非難した。

与党になった途端、「毅然たる態度」は消え去って、相手国の顔色ばかり伺うようになるのである。

いったい何故、当然の言い分を面と向かって相手国に言わなくなるのか。

それは、「怖いから」、これに尽きる。

日本は外交が下手だとかなんとか評論家たちが口々に言うのだが、何故下手なのかを考えると、「外国と揉め事を起こしたくない。こっちが折れれば済むことだ」という考えが基本にあるからだと思う。

勇気を出して、理を主張してみたところで、そのあとに何が来るか。

恫喝されたらどうするのか。日本の欲しがってるものを売ってやらないぞとか、軍艦を出すぞとか言われたらどうするのか、その時にどうしたらいいかわからないから言わないのである。事なかれ主義である。

どうしてそういう国になってしまったのか。どうして強く主張することができない国になってしまったのか。

それは政治家を責めるより、もはや国民自身の責任であると私は思う。

逃げ腰、弱腰、及び腰、これが日本人の骨の髄まで染み付いた習性だ。

それは政府がどうの、政治家がどうのという問題ではない。我々日本人自身が自らをそのように作り上げてきたのである。

長い間、そこに危機感を持ち、日本人の覚醒を訴え続けてきたまともな人々は、平和主義者たちに「過激なタカ派」と罵られ、数の上で負けてきた。

警告は常に抑えつけられてきた。

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尖閣列島の今回の騒動は一時的には収束するかもしれない。国際社会も中国の強引さに批判的だ。

しかし、解決したわけではない。これからも中国は領有権を主張し続けるし、ついには本格的な奪取に着手するかもしれない。

尖閣以外にも、北方領土も、竹島問題も抱えている。

国際社会に訴えることも大事だが、基本的に日本が自力で解決しなければならないことなのである。

日本に同情的な国々だって自国の利益を第一に考えるのだから、正義で動くとは限らない。国際世論が常に日本にとって有利という保障はない。
国際世論だけをあてにして日本の自主的な防衛戦略がないのでは、国家として成り立たない。

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さて、日本が基本的に自力で解決するのだ、と決心はしてみたものの、具体的に想像してみると・・・・今さら、自衛隊を強化したり憲法改正したりしたところでダメなんじゃないかと思う。

自衛隊を尖閣に配備するなんてことできるんだろうか。もしそれを強行したとして、中国が黙って見ているだろうか。

それでも強引にやるのか。戦闘も覚悟でやるのか。

すべて遅すぎたと思う。

仮に日本人が覚醒したとしても、今度は「なめられるな!」「強硬策で行け!」というような正反対の世論が支配してしまい、またもやまともな国家戦略がかすんでしまうのだろう。

まともな国家戦略を「過激だ。そんなに戦争がしたいのか」と言って押さえつけてきた国民の責任である。

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