藤原先生と佐伯先生
前記事で「グローバル化や金融経済の進化の速さに日本人は怯えている」と書いた。
新しいものを受け入れることやそれにつれて自分の環境を変えることは勇気がいる。
小泉・竹中の構造改革が日本をこんなにだめにした、と今なお言い募る人々がいる。
古き良き時代の日本の美しい国柄を取り戻せ、と主張する保守派の人々である。
保守主義の美学が私は大好きだ。
特に藤原正彦先生の日本の風景や精神を称える文章など、感動的で、涙なくして読めない。
先生は「四季折々の変化を見せる美しい自然に育まれた日本人の美的感受性」は世界を見渡しても特筆されるべきものであり、日本人の心や美しい田園風景が忌々しいグローバル化によって荒れ果てることになる、として、小泉竹中路線を厳しく批判し、TPP参加にも断固反対の立場だ。
関税撤廃のTPP参加の是非については私にはよくわからないが、幸せの追求のために変えるべきところは変える、という発想ができないのは頭が固い、古い、時代遅れ、と言わざるを得ない。
日本が誇る伝統文化を継承していくことと、経済産業構造や技術を革新することは実はそれほど矛盾しない。
伝統文化を保守することと生活を豊かにすることは別のことだ。
当然、時代に応じて伝統や習慣も少しずつ変わっていくだろうが、現に少しずつ変わりながら人間は発展し生き延びてきたし、より幸福にもなってきたのだ。
自由と民主主義をやめて美しい日本を取り戻せ、と京都大学の佐伯啓思先生も主張する。
昔は、正月というものは全ての時間が止まったように静謐な空気が漂っていて正月らしい気分を味わえた、というような文章を書いておられる。
それは私もよーく覚えている。三が日はどこの商店もお休みなので、年末の家庭は大わらわで正月のために買い置きや作り置きをしたのだ。
そしてお正月はみんなでのんびりとお正月らしい気分を味わうことができた。
現在はスーパーなども元日から開いていて、正月という特別の日を迎えるための年末のあの喧騒はいったい何の意味があったのかと疑問に思うほどだ。
12月31日は単なる「昨日」であって、「昨年」ではなくなっている。1月1日も昨日の続きで「年始」という気分にあまりなれない。けじめがないのだ。
生まれた時からそのような社会に育った若い人たちにはわからないかもしれないが、私の世代の人間は昔の雰囲気をよく覚えている。
しかし、私はそういう雰囲気をたまらなく懐かしいと思うものの、昔に戻すべき、とは思わない。
藤原先生も佐伯先生も、気づいておられるだろうか。
そういうのんびりとした田園風景や正月風景を楽しむことができるのは、見えないところで、大きな犠牲や苦労があるからなのだ。
男が気づかない女の我慢と労働、都市生活者が気づかない農民の忍耐と労働が陰にあった、つまり、佐伯先生の嫌いな「自由と民主主義」というものに人々があまり気づかなかった時代だったからではないだろうか。
生き方を自由に選べ、個を大切にする時代の中で、「俺は学者をやる。しかしお前たちは下働きをし、農業をやりなさい。美しい正月風景や田園風景を保存するために。」というのは、「自由と民主主義をもうやめよう」と提言する佐伯先生ならではの発想だ。
もちろん、正月から営業をする商業主義がいけないといえばいけないし、田畑が荒れるのは国の農業政策が間違っている、ということは言える。
しかし、世界全体の流れを考えると、日本独自のやり方や美学を貫くことは非常に困難だ。
美学を貫いて貧しくなるのも一つの生き方だが、おそらくほとんどの日本人はそれを望まないだろう。
人間が望むのは結局のところ、豊かさや自由なのだから。
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