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2011年5月23日 (月)

円熟

人に勧められて、曽野綾子の短編小説集「無名詩人」(講談社文庫)を読んだ。

どれも面白い。曽野綾子って厳しくて意地悪で皮肉たっぷりの小気味良い評論をする人、という印象が強く、小説家であることをうっかり忘れていた。
昔、曽野綾子の長編小説をふたつ読んだことはあって、面白かったし学ぶことも多かったけれど、若くて独身だったせいか、強く胸に迫るほどのものはなかったように思う。

「無名詩人」に収録されている昭和30年代40年代に書かれた短編に、新鮮な感動を覚えるのは、こちらが年を取って人生を学習したからだろうか。

こういうお話を小説にまとめて、人生の機微を語ることができる人が羨ましく、それはまさしく才能というものだろうなあと思う。

私のようなただ年を取っただけのおばさんが、百の言葉を弄して意見する間に、小説家は読者を楽しませながらこの世の実相を示唆してくれる。

第一話の「身欠きにしん」は、不平等とか不公平を仕方のないこととして受け入れていた時代からのメッセージのようだ。

主人公の少女が人生の円熟期を迎えた時に、自信と幸福を手にしたのは、「分相応」に目覚める賢さと強さがあったからだろうか。

そうではなく、「分をわきまえる」という生き方が時代性を持っていた、ただそれだけのことなのだ。
家柄とか器量のよしあしで、「妥当な線」を引くことや、今とは違う「結婚」の意味に、まだそれほど疑問を持たれなかった言わば「素朴な時代」のことである。私はその頃の結婚の作法をよく覚えている。

女の自立だとか夫婦の趣味の一致だとか夫婦の会話の大切さだとか、そういうことが、家庭を築くことにおいてほとんど重視されなかった時代であったから、文字通り「適当にくっついた」のである。

豊かになり、思想が洗練されてくると、その洗練自体が生物本来のパワーを弱め、結局は素朴な幸せにさえ達することができなくなっているような気がする。

再び過去の時代が戻ってくるとは思えない。人間社会に素朴さや若さを取り戻すことはできないだろう。

一度覚えた知恵の実の味を記憶から消し去ることはできない。

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参考記事: 「しあわせ」

       「自虐なのか柔軟なのか」   

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2011年5月 8日 (日)

ほんとうの反省

月刊誌WiLL6月号で、武田邦彦中部大学教授が、「原子力委員会」「原子力安全委員会」「原子力安全・保安院」というまやかしの組織に、今ならメスを入れることができるだろう、と書いている。

 ≪___前略___大震災が発生し、自衛隊は直ちに被災地に出動し、初動の困難な救出活動を展開した。自衛隊員と言っても、もちろん人間である。悲惨な被災地、凍えるような寒気、自衛隊員のなかには郷里が近い人もいただろう。しかし、彼らは黙々と任務を果たした。
しばらくして、菅首相は「自衛隊を尊敬する」と言った。菅首相の発言にビックリした人が多かったと思う。民主党政権には多くの日教組や労組出身議員がいて、今まで長い間、自衛隊をいじめてきたのだ。それが、大震災となると「自衛隊を尊敬する」はない。
これこそ、筆者が機械学会で指摘した「平和時の平和主義」なのである。
何もない平穏な時には「自衛隊は要らない」と言い、迷彩服は目障りだ、自衛隊は日本の恥部だ(大江健三郎)と言い続け、大震災がくると「自衛隊を尊敬する」と豹変する。
そんな人にかぎって、非武装中立などと言っていても、隣国が攻めてくると若き自衛隊員の後ろに老いた体を隠してブルブル震えるにちがいない。
終戦から65年。日本は海外との貿易で立国しており、食糧、エネルギーの輸入と工業製品の輸出で世界の貨物輸送の15%を海の輸送に頼っている。それを守るのは海軍である。しかし、現在の日本は「貿易はしたいが、軍隊はイヤだ」と駄々をこねている。
「得はしたいが、現実を正面から見たくない」というのは日本人の国民性だろうか?

原発も同じである。
事故が起こった後、「福島原発はどうしようもない。コンクリートで固めて石棺にしろ」という人がいる。
福島原発は不幸にして破壊され、その残骸を晒している。しかし、同時に福島原発は多くの電気を作り出し、それで私たちは灯りをともし、暖をとり、そして山手線を走らせてきた。
その福島原発が今、断末魔で苦しんでいる。傷は深いので、廃炉は仕方がないかもしれない。でも、私たちは福島原発に感謝し、しばらくはそっとしておくにしても、やがて放射線が弱まったら、丁寧に解体して綺麗な草原に還し、原発を弔わなければならない。
私たちは常に決断を迫られているのだ。
電気を得るために原発を選択したなら、原発は友人であり恩人である、
もし原発がイヤなら建設するべきではない。また、自分が原発に反対でも、国民が合意して原発を建設したならそれを尊重し、大切にし、そして万が一の時には骨を拾ってやるのが人間というものである。
原発は「鬼っ子」ではない。私たちが祝福して産んだ子供である。福島原発が無残な姿を晒しているのは原発に問題があるのでなく、それを運転してきた私たちの社会に大きな欠陥があったのだ。
「得はすれども、ことあれば捨てる」という貧弱な精神に、「右顧左眄」を日常の行動規範にする社会に原発の恩恵を受けさせることはできないと福島原発は叫びたいのだと思う。 ___後略___≫

一部だけをコピーさせていただいた。
なお、この「WiLL6月号」には、原発特集として、沢山の価値ある論文が掲載されていて、放射能や日本人の依存体質を理解するのに役立つと思う。一読をお勧めする。

福島原発は、首都圏に住む人間に多大の貢献をしてきた。
受けてきた恵みを忘れたかのような「原発憎し」の風潮を、私はおかしいと思う。

我々が今しなければいけないのは、だれか偉い人を土下座させることではなく、我々の社会の欠陥を正すこと、そして、どれくらいの便利さと豊かさなら良しとするのか、あるいは、現在の便利さ豊かさを維持したいのならどれだけのコストやリスクを覚悟するつもりがあるのか、ひとりひとりが、自分のこととして考え、選択することだ。
「快適な生活はしたいけど、負担はイヤだ」という甘えた態度はもうおしまいにしないといけない。

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