円熟
曽野綾子の短編小説集「無名詩人」(講談社文庫)を読んだ。
どれも面白い。曽野綾子って厳しくて意地悪で皮肉たっぷりの小気味良い評論をする人、という印象が強く、小説家であることをうっかり忘れていた。
昔、曽野綾子の長編小説をふたつ読んだことはあって、面白かったし学ぶことも多かったけれど、若くて独身だったせいか、強く胸に迫るほどのものはなかったように思う。
「無名詩人」に収録されている昭和30年代40年代に書かれた短編に、新鮮な感動を覚えるのは、こちらが年を取って人生を学習したからだろうか。
こういうお話を小説にまとめて、人生の機微を語ることができる人が羨ましく、それはまさしく才能というものだろうなあと思う。
私のようなただ年を取っただけのおばさんが、百の言葉を弄して意見する間に、小説家は読者を楽しませながらこの世の実相を示唆してくれる。
第一話の「身欠きにしん」は、不平等とか不公平を仕方のないこととして受け入れていた時代からのメッセージのようだ。
主人公の少女が人生の円熟期を迎えた時に、自信と幸福を手にしたのは、「分相応」に目覚める賢さと強さがあったからだろうか。
そうではなく、「分をわきまえる」という生き方が時代性を持っていた、ただそれだけのことなのだ。
家柄とか器量のよしあしで、「妥当な線」を引くことや、今とは違う「結婚」の意味に、まだそれほど疑問を持たれなかった言わば「素朴な時代」のことである。私はその頃の結婚の作法をよく覚えている。
女の自立だとか夫婦の趣味の一致だとか夫婦の会話の大切さだとか、そういうことが、家庭を築くことにおいてほとんど重視されなかった時代であったから、文字通り「適当にくっついた」のである。
豊かになり、思想が洗練されてくると、その洗練自体が生物本来のパワーを弱め、結局は素朴な幸せにさえ達することができなくなっているような気がする。
再び過去の時代が戻ってくるとは思えない。人間社会に素朴さや若さを取り戻すことはできないだろう。
一度覚えた知恵の実の味を記憶から消し去ることはできない。
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参考記事: 「しあわせ」
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