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2011年6月21日 (火)

試してみれば?

「夏の電力不足は真っ赤な嘘で、電力会社と経産省がグルになって情報操作し原発存続を企んでいる」という情報が飛び交っている一方で、「自然エネルギーを安定供給できるようにするまでどれほどの年月がかかるのか。そこにいくまでに産業は衰退してしまう。日本経済は原発なくしては成り立たない」などという論もあって、いったいどっちを信じたらいいのかわからない。

さらに、「経済発展がなんだ。そんなもの衰退したっていいじゃないか。本当の幸せとはそんなことではない」などという仙人のような枯れた意見もある一方で、「衰退していく経済の中で日本人は生きていけるのか。絵空事もたいがいにしなさい」と頭から湯気を出して怒る人もいる。

電力不足がウソなのか本当なのか、誰かはっきり教えてくれないだろうか。もしかしたら誰にもわからないのだろうか。

先日「Mr.サンデー」という夜のニュース番組で、「ブラックアウト」(突然の大規模停電)のシミュレーションドラマをやっていたが、電力の需要が供給量を超えると、まるでブレーカーが落ちるように、全ての電気が遮断される。交通機関、オフィス、病院、店舗、高層マンションのエレベーター、家庭の電気製品全てが動かなくなり、熱中症患者が続出し・・・・、という具合で、生活のほとんどを電気に頼っていることがいかに恐ろしいかを描いていた。

公共施設では、自家発電や蓄電などのバックアップ機能が働くが、速やかな復旧だけを目的とする、持続的なものではないそうで、大規模停電が起こると大変なことになりそうだ。

 シミュレーションどおりのことが起こる可能性はあるのかないのか。

 それはともかく、これはライフスタイルの転換の問題ではないのか。

 

電力が今より減ってもいい、という人と、今の供給量は確保しなければ、という人。

これは議論しても決着などつかない。個々人の好みであり、生き方の選択なのだから。

だったら、経験してみるしかないのではないのではないかと思う。

「脱原発」を叫んでデモ行進をしている人たちがちゃんと理解しているのかどうかわからないが、現実的に考えると今すぐ全ての原子力発電を止めることはできない。

自然エネルギーの研究・開発をし、産業として成り立つようにし、原子力を徐々に減らしながら電気が安定的に供給されるまでの間、どれくらいの年月がかかるのかわからないが、その年月を国民は耐えることが出来るかどうか、また、エネルギー不足による経済低迷が長く続いて落ち込んだ国際競争力を再び盛り返すことができるかどうかが大きな問題となると思う。

原発存続にしろ、脱原発にしろ、ある程度の年月、原子力は使い続けなくてはならない。

原発は事故が起きるととても怖いので、私も自然エネルギーに転換していくことに賛成だ。移行期間が長く苦しくても耐えられる。元々アナログ人間なので大丈夫と思う、たぶん。

でも、脱原発を口にする多くの人が、原発をただちにやめることはできないことや、移行期間の長さ苦しさを少しでも想像しているのだろうか。

10年になるのか20年になるのか、その移行期間をつましく生きる覚悟があるのか、あるいは、何も考えずにただ「原発やめろ」と言っているだけなのか。

日本人の多くが、給料が上がらない、仕事がない、福祉が不充分だ、と不満を言っている印象があるのだが、それなら日本人は電力不足による経済低迷をこれ以上耐えられるのか。

それでも、本当にそういう覚悟を決めたのなら、頼もしいことだと思う。日本人は強い。

 

「原発はいらない」運動の盛り上がりを見ていて、私はかつての学生運動を思い出した。

「財界と結託し」、「アメリカ追従」の為政者や、改革を阻む大学経営者を「稀代の悪人」と決め付けて糾弾し、「権力側」の言い分には聞く耳持たず、とにかく否定あるのみ、という社会全体に吹き荒れた左翼旋風に似ているのだ。

私なども「自民党は悪だ」と思いこんでいたので、学生運動とは関係なかったものの、自民党が失墜すればいいと思っていた。

もちろん権力の横暴は許してはならないし、改革はしなくてはいけない。しかし社会をより良きものに変えようとする時、ポピュリズムに乗っかるのは危険なことだ。

物事の一面だけを見て、雪崩を打つように一方向に流れてしまいかえって不幸になってしまわぬよう冷静な観測と判断が必要だ。(まあ、そういう不幸を経験して学習するということもあるのだけど)

安保闘争が終わって、活動家たちは「国を動かすことができなかった」という敗北感を味わったのだが、権力側が左翼運動を抑え付けて勝利したというようなものではなく、「なんとしても国が生き延びなければいけない」という為政者の必死の覚悟の結果だったのだと思う。

どうすれば国民を食わせていくことができるのか、時の政府が腐心する間に、安全保障の意味もわからず「安保反対」と叫んで暴れただけの活動家は、さながら、食わせてもらいながら親に反抗する子供のようだった。

私たち人間は常に、矛盾に戸惑い、危険を覚悟しながら生きている。人間社会に安定などないと私は思うのだ。

不安と不運につきまとわれる社会生活の中で、時々小さな喜び大きな喜びに出会って幸福感を感じる。それが人間というものではないだろうか。

日本人は価値観を変えて、貧しくても平和で幸せな生活を実現できるのかどうか、これはやってみないことにはわからない。

人間は経験して学習する。特に日本人は経験しないとわからないんじゃないだろうか。

国民が覚悟を決めた時、若者は3Kの仕事を厭わずやるようになるだろうし、老人は「年寄りは死ねというのか」などと言わなくなるだろうし、貧乏人の子沢山が推進されて少子化が解決するかもしれない。

しかし、脱原発を唱える政治家がエネルギー政策について表明する時、国民に向かって「貧しくとも不便でも幸せを感じられる生活を」などという公約は掲げられるはずもなく、「大丈夫。自然エネルギーだけで十分豊かで便利にしてみせます」という、言ってる本人も嘘か本当かわからない約束をしなければならないのが彼らにとって辛いところだ。

だって、政治家の仕事とは、国民の生命財産を守ることであって、価値観の転換をお願いしたり命令したりするものではないのだろうから。

菅直人首相が脱原発の市民運動の集会に出席して気勢をあげている様はまるで市民活動家のようだった。 しかし国民の生命財産を守る最高責任者としては、どんなに叩かれても「原発を今すぐ止めるわけにはいかない。自然エネルギーが定着するまで30年かかる。それまでは原発を使わなくてはならないし、移行期間も厳しいものになる。耐えてほしい」とでも力説すべきなのだ。

それも言わずにニコニコ顔で「自然エネルギーを推進すれば日本は良くなる」みたいな、民衆受けすることしか言えないのであれば、国民から叩かれながらも日米同盟を守った自民党の指導者たちの足元にも及ばない。

 

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コメント

「貧しくとも不便でも幸せを感じられる生活を」
が、個人の生活信条ということならそれで良いのですが、国全体の話になると、国力が落ちると、外国の圧力をはねのけられなくなる、もっと言うと外敵の侵入を受け易いという、国防上の危うさを招くのではないでしょうか。「貧しくて不便になる上に、足元を見透かされて、常に強国の出方を伺っておびえて暮らさなければならなくなる」と思うのです。幸せなんてぬるいこと言ってる余裕なんか無くなって、生存するために必死にならざるを得ないような気がするのですが。。。

日本が本当に底力を発揮して立ち直るには、まだまだ落ち方、危機感が足りないので、もっと落ち込まないと、本当には立ち上がらないのかな?というような気もします(復興に全力で立ち向かっている被災者以外の人です)。

投稿: ap_09 | 2011年6月21日 (火) 11時58分

★ap_09さん、

仰る通りだと思います。
私も経済の成長期に生まれ育って、人生の大半を豊かな時代に過ごしましたから、今、貧しくなるってどういうことかあまり正確には想像できません。
でも日本人は北朝鮮、中国、ロシアなどの恐ろしさを経験して目覚めましたから、やはり貧乏を経験してみるのもいいことかなと思います。
今の国際情勢の中で、あの戦後のように目ざましい回復ができるものかどうかはわかりませんが。
それはともかく、東北の復興をなんとしても推進しなければならない時に、国力を落とすような価値観の転換は、どだい無理な話なのです。

投稿: robita | 2011年6月21日 (火) 13時36分

私も「やってみれば?」と思うことがあります。東京は、毎年「ヒートアイランド現象」が話題になります。皆がクーラーを使いますが、あれは室内を冷やすために外気に熱を放出するので、つまり東京では「自分の部屋を冷やすために、東京を温める」ことをしているわけです。試算では、東京の夏の平均気温を2.5度上昇させているそうで、それだけ電力が必要なわけです。つまり、皆が今年は「節電だ」とクーラーを切ったら、ホントに2.5度温度が下がるのか?それが事実なら、こりゃ太陽光パネルの比ではないエコになるわけで、やってみる価値はありそうです。

脱原発についての私見ですが、私は「一定のメドがついたら」で良いと思ってます(笑)

投稿: single40 | 2011年6月21日 (火) 17時37分

Robitaさん、こんばんは。
大変ご無沙汰してます。

>私たち人間は常に、矛盾に戸惑い、危険を覚悟しながら生きている。人間社会に安定などないと私は思うのだ。

そうですよね。
そうした覚悟が足りない人たちほどぎゃあぎゃあ騒いでいるような気がします。

余談ですが、今回の記事を読んで、曽野綾子のコラムを連想しました。
下記拙ブログで紹介したところ、その記事が江川紹子氏のツイッターで否定的に取り上げられ、彼女のフォロワーに非常に評判が悪かったみたいです。一応リンク↓貼らせてください。

■「安心病」と詐欺師の関係/曽野綾子のコラム~「安心病」の特効薬は~
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-624.html

投稿: 一知半解 | 2011年6月21日 (火) 22時11分

★single40さん、

ほー、2.5度もですか。
どうりでクーラーのなかった子供時代より2.5度ばかり暑いなあ、とかねがね思ってたんですよ。
みんなでクーラーをやめたらどうなるかぜひやってみたいですねー。

>脱原発についての私見ですが、私は「一定のメドがついたら」で良いと思ってます(笑)<

なにごとも、思いつきや行き当たりばったりでなく、一定のめどがついてからでなくてはいけませんね(笑)

投稿: robita | 2011年6月22日 (水) 11時25分

★一知半解さん、

こちらこそご無沙汰しています。
うち、産経新聞とっているので、そのコラム読みました。
世界の国々を知っている曽野さんの持論として「日本ほど安心して暮らせる国はない」というのがあります。
私は世界を実際に知っているわけではないですが、いろいろ読んだり聞いたりして判断するとやはり、曽野さんに深く共感します。
リベラルな人々がよく思い描く「経済発展がなくても幸せに生きていける社会」が構築できればこんな良いことはないのですが、そううまくいかないのが人間のサガというもので、様々な不安定要素が働いてこその人間社会なんだと思います。

一知半解さんの記事読ませていただきました。
あれが江川詔子さんのツイッターで取り上げられたのですか?
記事の最後に「Will」の曽野・渡部昇一対談を批判する左翼ブログのことを取り上げておられますね。
あの対談、私も読みました。
たしかに老人に厳しい物言いなんですが、曽野・渡部両氏とも自身が高齢者なので、全く別領域の人を批判しているつもりはなく、自分たちも含むじいさんばあさんはこうあるべきだ、という感覚だと思うんですよね。

投稿: robita | 2011年6月22日 (水) 11時28分

おはようございます。
今日も暑くなりそうです。

日本のエネルギーについては、もっと若いひとたちの考えを聞きたいと私は思います。
今すぐすべてを自然エネルギーに切り替えられるわけではないし、10年20年もっと先のことを、働き盛りを過ぎた人たちが決めて良いのか疑問です。
私は60歳を過ぎていますが、とても良い時代に豊かに生活してきました。自分たちは充分良い思いをしてきて、これからはもう生活のレベルを落とそうじゃないか、などと若い世代には言えません。
年金問題でも世代間格差が問題になっています。年寄りは
この国の未来を考える若者たちが決定したことに従う覚悟も必要です。
脱原発だけを謳いあげて解散される前に、
若い世代の議論を聞きたい。


投稿: サヌカイト | 2011年7月 8日 (金) 10時53分

★サヌカイトさん、

毎日暑いですね。
ご意見に同感です。
60代以上の人々が概ね豊かに幸せに暮らしてきたこと、未来は若い人たちのものであること、これを高齢者はしっかりと自覚する必要がありますね。

>年寄りはこの国の未来を考える若者たちが決定したことに従う覚悟も必要です。<

仰るとおりですが、困ったことに、今の若者は欲望がないといいますか、年寄りと戦う気がないといいますか、なにせ、今や年寄りのほうがずっと元気で戦意が旺盛ですね。選挙にも熱心ですし。
政治家は数の少ない若者より、政治の成り行きに熱心な高齢者の票をあてにしますから、政治が若者の味方にならない構図になってるんですねえ。

必要なのは高齢者の意識改革なんでしょうか。
だとしたらそれを促すのは誰なんでしょう。

>若い世代の議論を聞きたい。<

若さは往々にして間違う、ということもありますけれど。

投稿: robita | 2011年7月 9日 (土) 16時09分

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