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2011年7月22日 (金)

上下があるから面白い

NHKの連続ドラマ「下流の宴」は非常に面白かった。

原作を読んでいないので、ドラマの最初の頃、子供に勉強を強いる「上流の人々」が間違っていて、おおらかな育て方をする「下流の人々」が人間らしい、という凡庸な対比に、林真理子らしくない、と疑問を持ったが、終盤は痛快なものだったし、結末も納得できるものだった。

子供を勉強に駆り立てず自由にのびのびと育てるほうが子供のためになるとか、子供自身の意思をまず尊重してやることが大事、などというもっともらしい意見を耳にしながら、今の時代に親たちはそんな悠長な子育てをする余裕はなく、「一所懸命勉強しないと将来困ることになるのよ」とか「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」などと説諭し、勉強のモチベーションを上げるべく色々な物事を体験させたりして、子供に努力をすることの大切さを教える。
  
ドラマではそういう母親(黒木瞳)が悪者のように描かれるが、あのような母親は、今の時代ごく普通だ。

息子が「結婚したい」と連れて来た娘が、ネットで知り合ったどこの馬の骨ともわからない下品で教養のない「下流の娘」だったので、母親はなんとか別れさせようとする。  これも、きちんとした考えを持つ親なら黒木瞳同様の反応をしても決しておかしくない。

そりゃあ、母親や祖母(野際陽子)が何かにつけて家柄や学歴を誇示するのは嫌な感じだけど、それはドラマの演出上の事とさておいて、あまりかけ離れた価値観の家族と縁を結び、うまくやっていくというのはそう簡単なことではない。

勉強して上を目指すのは悪いことではない。
努力の大切さを子供に教えるのも親の義務だ。
娘や息子にヘンな虫がくっついたら親として心配になるのは当然だ。

上流志向の旺盛な林真理子(私の見るところ)自身、そういう親であるに違いない。

しかし、この作品の面白さは後半にある。人生や世の中はそう単純なものではないのだ。

ただ、ドラマに出てくるフリーターの女の子はあまりに可愛くて素直で明るい。
あんな娘なら、こちらからお願いして息子をもらってほしいくらいだ。

高校中退の、やる気のないフリーターの男子がこんないい子を見つけてくるだろうか。

まあ、それもこれも私の偏見なのかもしれないが、下流には下流の、上流には上流のそれぞれ相応しい選択があってしかるべき、ということを、まさにこの娘の誉れ高い行動が示している。

下流に甘んじるのも、上流を目指すのも、こういう時代だからこそ、自分の生き方の選択とも言えるのだから、自分の意志で選んだ以上は、伴侶にしろ、生活程度にしろ、やはり、自分の「格」に見合ったものになるだろう。

愛だけでは結婚できないし、釣り合わぬは不縁のもと、という立派な格言もある。

人は自らのやりようによって、上になったり下になったりするから面白い。

結局、人生は自分次第ということになるか。

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2011年7月19日 (火)

総理の自己実現

民主党政権は「左翼政権」と言われる。

「左翼」は普通は「共産・社会主義者」を指すことが多いが、その意味合いは限定的でなくおおまかに「リベラル」という風に言われるようになった。

右翼とか左翼の区別は単純なものではないかもしれないが、「左翼」といえばいわゆるああいう人たちである、というイメージはある。

世界のいわゆる「リベラル」というのとは異なり、日本では「左翼」というと、特殊な思想を持った人々のことを指すのではないだろうか。「国家は悪」「日本は悪」「軍隊は必要ない」みたいなことである。

諸外国では少なくとも、日本でのような意味合いはないと思う。

右だろうが左だろうが、国政に携わる政治家ならば、国家観が必要だし、愛国心も国防意識も不可欠だ。右でも左でも根底に自分たちの国家の成り立ちについての共通認識がある。

しかし、現政権のトップは左翼活動家出身で、国会議員になってからはほとんど野党として国家権力と戦ってきた。

戦ってきたものだから、いざ自分が国家権力そのものになると、何をしていいかわからなくなっている、というのが現在の混乱の原因ではないだろうか。

活動家の菅さんとして、ここでやるべきは「革命政権」樹立なのだろうが、国の体制を根本からひっくり返すほどの勇気はないし、国家観がないから体制転換しようにも目標がない。

まあ、民主党独自の政策などはあるようだが、ことごとく評判が悪い。
結局今までの政治を大筋で継承するだけになってしまう。

継承してもいいし、自民党と似たり寄ったりになってもそれはそれでかまわないとは思うが、能力がない。与党内のとりまとめの能力も、野党との折衝能力も、やるべきことの優先順位の判断能力もない。

能力がなくても、それはそれでまあいいかとは思うが、やっかいなのは、自分で何でもやりたがることだ。

組織では、「無能な働き者」が一番困るんだそうである。

菅さんの、首相という地位への異常なまでの執着心が多くの国民に見えるようになった。

これはもう政治問題ではなく、人格問題だと指摘されることも多くなった。

ちょっと「自己啓発本」なるものを例えに出してみよう。

たぶん、そういう本には、「『自分はできる』というイメージを作り自信につなげよう」とか「マイナス思考はやめてプラス志向に」とか「何があっても絶対にあきらめないことが大事」とか書いてあるんじゃないだろうか。

とてもよく菅さんに当てはまる。
つまり、菅さんは、国政を自己啓発の道具に使っているらしく、我々は菅さんの自己実現という究極の個人的マターにつき合わされているんじゃないだろうか。

自分を愛するのに頭がいっぱいで、国を愛することが出来ない人なんだと思う。

やっぱり政治家は「国家」を悪として否定する人じゃなく、ちゃんと「国家観」を持った人じゃないとだめだ、ということがわかっただけでもよかった、と思うより他ない。

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2011年7月16日 (土)

無縁社会?

地域社会と隔絶され、一人孤独に陥り、最後は「無縁死」などと形容される事態に、人々は何とかしなくてはと声をあげ、社会学者は「家族がなくても独りにならない『包摂性』のある地域社会の構築を急ぐべきだ」と力説する。

しかし、「構築する」というような問題なんだろうか、と私は常々思っている。

常用語となった「無縁社会」だが、これは、わずらわしさを嫌い、ひとり気ままに暮らすことを好んだ人の個人的問題じゃないんだろうか。

例えば、私が入っているシニアクラブには、ご主人が健在なのに、奥さん一人だけで参加している人が何人かいる。
聞いてみると、「主人は知らない人の中に入ってお喋りしたり旅行に行ったりするのが嫌いなの」などと言う。 お喋りや旅行そのものが嫌いなのではなく、身内とだったらそういうことはする 、というのだ。

わかる。うちの夫がそうだから。

妻とお喋りしたり一緒に出かけたりするから寂しくなんかないし、わざわざよその人と無理して交流を持たなくても事足りているのだ。

そこには「妻のいなくなった後」の発想はない。自分が死ぬまで妻は死なないと思い込んでいるのだ。

家事などは妻がいなくなってからでもなんとかなる。食べなくてはそもそも生きられないのだから生命維持のためなんとかして食べる努力はするだろう。
今の時代、経験がなくても家事というものはとてつもなく楽になっている。男の一人暮らしでも、昔風のやり方にこだわらなければどうにでもなる。
しかし、人付き合いのノウハウは若い頃からの蓄積だ。
年を取ってからでも、人と交流したいという熱意があれば問題はないが、それがなければ、ますます引きこもり、ますます困難になり、孤独に陥る。

男性の一般的特質として「集ってお喋り」が苦手、ということがあるのはたしかだ。
シニアクラブの男性たちも「自分もそうだった」と口々に言う。
それでも地域社会の連帯は大切だからという思い、あるいは、妻や近隣の人に熱心に誘われて、という理由で入会した人たちが、名前も顔も住所も覚え合った今では決して地域社会の中で「忘れられる」ということはない。

学生時代からの、あるいは仕事上でできた人間関係も大切だが、居住地域での普段からの連帯が、人を孤立や孤独から救う。

「都市化」につれて地域関係が希薄になったなどと言われるが、昔に比べて人が冷たくなったのではない。人は昔よりずっと優しい。→「人情味あふれる地域社会」 

それでは昔はどうしてそういうコミュニティが可能だったのだろうか。

どうして今の時代、家庭や地域の崩壊が懸念されるようになったのだろうか。

いったい社会が冷たくなったからそうなったのか、「無縁社会だ!たいへんだ!」と大騒ぎする前に、落ち着いて考えてみる必要がある。

それは、社会が冷たくなったのではなく、他者のおせっかいがなくても快適に生きていける時代になったからではないだろうか。

そういう時代には他者の介入はわずらわしいだけなのだ。

「独りぼっち」になる原因はいろいろあるだろうから、同情に値するようなやむを得ない事情を抱えた人もいるだろう。
小説やドラマにあるような、何の罪もない善良なおじいさんおばあさんがひとりぼっちで死んでいくのはとても可哀想だ。

でも自分で選んだ道なら、社会の冷たさのせいではない。
自分で選んでそうなったのなら、若い頃からのその人の生き方が問われることになる。

ところで;

私は女性であるから、ある程度の柔軟性も備え、世間話にもなんとか付き合えるので、近所づきあいが苦痛ということはない。

しかし、もともとおばさんトーク的ノリが悪く、出不精な性格を考えると、もし、男だったらやはり夫のように近所づきあいを拒否していたのではないだろうか。

我慢してそんなめんどくさいものに参加するより、独りで気楽に過ごすほうを選んでいたかもしれない。

私の場合、子供の頃から独りでいることを寂しいと感じたことはないが、全く独りになったことがないので、老いの孤独がどんなものか正確には想像できない。

それでも、それを自分で選んだなら、結果としての孤独を受け入れるべきなのだ。

孤独死や無縁死が可哀想だからと周りが気の毒がってなんとか救おうと考える人間の優しさ頼もしさに心うたれるし、自分もそうありたいと思う。

しかし、周りとの接触をみずから拒んだ以上、基本的に責任は自分にある。協調か排他の選択の問題なのだから。

結局、地域社会の崩壊などということはもともとなくて、「豊かさと便利さ」が、「頑なな人の動かなさ」という個人的な問題をいっそう強くしているだけのことなんじゃないかと、私は思う。

社会学者の宮台真司首都大学教授などは、何かにつけて「地域社会の再構築が重要」と力説する人だが、地域社会の重要性など誰しもわかっている。

しかし、人がそれを選択しない結果がこれなのだ。嫌がる人々を説得したり強制したりすることはできない。

むしろ、平時に評論家がそれを声高に叫ぶより、今回の大震災のような社会状況の大きな変化により、人は自ら価値観を変え、共同体の必要性を感じ、自らの意志で新たな生活様式を模索するようになるのだろう。

独り暮らしをする女性が彼氏との結婚を望むようになったり、若者同士の共同生活(シェアハウス)がにわかに増えたりの報道を見ていると、凡百の説得より実体験によって人は自ら考えるようになるものだと改めて思う。

不安感にかられ、必要にかられて、人は変わる。

何事もそうだが、人は痛い目に合って初めてわかる。

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