無縁社会?
地域社会と隔絶され、一人孤独に陥り、最後は「無縁死」などと形容される事態に、人々は何とかしなくてはと声をあげ、社会学者は「家族がなくても独りにならない『包摂性』のある地域社会の構築を急ぐべきだ」と力説する。
しかし、「構築する」というような問題なんだろうか、と私は常々思っている。
常用語となった「無縁社会」だが、これは、わずらわしさを嫌い、ひとり気ままに暮らすことを好んだ人の個人的問題じゃないんだろうか。
例えば、私が入っているシニアクラブには、ご主人が健在なのに、奥さん一人だけで参加している人が何人かいる。
聞いてみると、「主人は知らない人の中に入ってお喋りしたり旅行に行ったりするのが嫌いなの」などと言う。 お喋りや旅行そのものが嫌いなのではなく、身内とだったらそういうことはする 、というのだ。
わかる。うちの夫がそうだから。
妻とお喋りしたり一緒に出かけたりするから寂しくなんかないし、わざわざよその人と無理して交流を持たなくても事足りているのだ。
そこには「妻のいなくなった後」の発想はない。自分が死ぬまで妻は死なないと思い込んでいるのだ。
家事などは妻がいなくなってからでもなんとかなる。食べなくてはそもそも生きられないのだから生命維持のためなんとかして食べる努力はするだろう。
今の時代、経験がなくても家事というものはとてつもなく楽になっている。男の一人暮らしでも、昔風のやり方にこだわらなければどうにでもなる。
しかし、人付き合いのノウハウは若い頃からの蓄積だ。
年を取ってからでも、人と交流したいという熱意があれば問題はないが、それがなければ、ますます引きこもり、ますます困難になり、孤独に陥る。
男性の一般的特質として「集ってお喋り」が苦手、ということがあるのはたしかだ。
シニアクラブの男性たちも「自分もそうだった」と口々に言う。
それでも地域社会の連帯は大切だからという思い、あるいは、妻や近隣の人に熱心に誘われて、という理由で入会した人たちが、名前も顔も住所も覚え合った今では決して地域社会の中で「忘れられる」ということはない。
学生時代からの、あるいは仕事上でできた人間関係も大切だが、居住地域での普段からの連帯が、人を孤立や孤独から救う。
「都市化」につれて地域関係が希薄になったなどと言われるが、昔に比べて人が冷たくなったのではない。人は昔よりずっと優しい。→「人情味あふれる地域社会」
それでは昔はどうしてそういうコミュニティが可能だったのだろうか。
どうして今の時代、家庭や地域の崩壊が懸念されるようになったのだろうか。
いったい社会が冷たくなったからそうなったのか、「無縁社会だ!たいへんだ!」と大騒ぎする前に、落ち着いて考えてみる必要がある。
それは、社会が冷たくなったのではなく、他者のおせっかいがなくても快適に生きていける時代になったからではないだろうか。
そういう時代には他者の介入はわずらわしいだけなのだ。
「独りぼっち」になる原因はいろいろあるだろうから、同情に値するようなやむを得ない事情を抱えた人もいるだろう。
小説やドラマにあるような、何の罪もない善良なおじいさんおばあさんがひとりぼっちで死んでいくのはとても可哀想だ。
でも自分で選んだ道なら、社会の冷たさのせいではない。
自分で選んでそうなったのなら、若い頃からのその人の生き方が問われることになる。
ところで;
私は女性であるから、ある程度の柔軟性も備え、世間話にもなんとか付き合えるので、近所づきあいが苦痛ということはない。
しかし、もともとおばさんトーク的ノリが悪く、出不精な性格を考えると、もし、男だったらやはり夫のように近所づきあいを拒否していたのではないだろうか。
我慢してそんなめんどくさいものに参加するより、独りで気楽に過ごすほうを選んでいたかもしれない。
私の場合、子供の頃から独りでいることを寂しいと感じたことはないが、全く独りになったことがないので、老いの孤独がどんなものか正確には想像できない。
それでも、それを自分で選んだなら、結果としての孤独を受け入れるべきなのだ。
孤独死や無縁死が可哀想だからと周りが気の毒がってなんとか救おうと考える人間の優しさ頼もしさに心うたれるし、自分もそうありたいと思う。
しかし、周りとの接触をみずから拒んだ以上、基本的に責任は自分にある。協調か排他の選択の問題なのだから。
結局、地域社会の崩壊などということはもともとなくて、「豊かさと便利さ」が、「頑なな人の動かなさ」という個人的な問題をいっそう強くしているだけのことなんじゃないかと、私は思う。
社会学者の宮台真司首都大学教授などは、何かにつけて「地域社会の再構築が重要」と力説する人だが、地域社会の重要性など誰しもわかっている。
しかし、人がそれを選択しない結果がこれなのだ。嫌がる人々を説得したり強制したりすることはできない。
むしろ、平時に評論家がそれを声高に叫ぶより、今回の大震災のような社会状況の大きな変化により、人は自ら価値観を変え、共同体の必要性を感じ、自らの意志で新たな生活様式を模索するようになるのだろう。
独り暮らしをする女性が彼氏との結婚を望むようになったり、若者同士の共同生活(シェアハウス)がにわかに増えたりの報道を見ていると、凡百の説得より実体験によって人は自ら考えるようになるものだと改めて思う。
不安感にかられ、必要にかられて、人は変わる。
何事もそうだが、人は痛い目に合って初めてわかる。
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