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2012年10月28日 (日)

目を覚ませ

≪作家の村上春樹さん(62)が、東アジアの領土をめぐる問題について、文化交流に影響を及ぼすことを憂慮するエッセーを朝日新聞に寄せた。村上さんは「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと書いている。≫
のだそうです。

一ヶ月も前の朝日新聞への寄稿ですが、昨日本屋さんで「月刊WiLL」を捲っていて山際澄夫さんの記事で知りました。

いつもの「日本人にお説教」ですね。中国を怒らせるようなことをする日本が悪いのだ、と。

山際さんも書いていましたが、村上さんは中国問題がどういうことなのか考えたこともないのでしょう。

文化交流が断ち切られることに深い悲しみを持つのは理解できます。
「『国境を越えて魂が行き来する道筋』を塞いではならない」という文学的表現もとても素敵です。

しかしそれを「日本のせい」にするのは何故ですか。
情緒だけで世界を判断してくれては困ります。

中国のふるまいを、そして日本の姿勢を、最低限の知識としてちゃんと頭に入れてほしいのです。

よくこう言う人がいます:
「せっかく鄧小平の時代から日中でお互い『棚上げ論』を守ってきたのに石原都知事が『尖閣を買う』なんて言い出した。日中関係の悪化はそんなことを言い出した人間の責任だ」

これは明らかに間違いです。

「棚上げ」というのは、鄧小平が勝手に言い出したことで日中で合意したことではありません。
仮に合意したことだったとしても、先に「俺のものだ俺のものだ」と強硬な態度を押し進めてきたのは中国のほうです。
それを何とか穏便に収めようと努力してきた日本に対し、足元を見てなおも図々しく出張ってきたのも中国です。

たしかに都知事が「買う」と言わなければ、反日暴動は起こらなかったでしょう。そのかわり、どんどん進出の度合いを強めてきて、なし崩し的に自分たちのものにしてしまったと思います。
フィリピンのミスチーフ環礁を掠め取ったのと同じ手口ですね。軍事力の弱いフィリピンと同じように、日本は戦うことができないのですから。

だいたい鄧小平の棚上げ論は尖閣奪取のための狡猾な戦略の一環に過ぎません。
あの時代は、まだまだ中国は貧しく、経済力のある日本の助けが是非とも必要だった。だから「棚上げにしよう」と自分たちに都合の良いことを言ったまでです。
お人好しの日本はその言葉にホッとし、日中平和友好条約を結んで経済面での援助・協力を惜しみませんでした。
(この「脅したり優しくしたりして人の心をコントロールする」って、なんだかあの尼崎事件の怖い女の手口に似てませんか。日本人の中に親中派を作って日本人同士争わせるというところも)

その間に中国は、経済力、軍事力を増大させ、愛国教育で尖閣は中国固有の領土であると国民に教え込み、自国の法律にしっかり書き込み、国際社会に向けた大々的な宣伝工作を仕掛け、着々と尖閣諸島奪取の環境作りに励んできました。

そして、民主党政権になって、日米関係にヒビが入るや否や、好機とばかりにさらに強硬な態度に出始めました。

このままでは本当に、日本の正しい主張が国際社会でも認められなくなってしまう、という危機感を抱いた都知事があの行動に出たのを、なんで、「日中関係が悪くなったのは都知事のせいだ」なんて言うんでしょうか。

思考能力がないにもほどがある。

村上春樹さんについて言えば、自己の内面とばかり遊んでいる人が、情感だけで政治を語るからこういうトンチンカンな論評になってしまうのでしょうね。

チベット出身の政治学者ペマ・ギャルポさんに「恥ずかしくなるくらいに地球市民を気取っているのが情けない」と指摘されてしまった日本ですが、最近マインドコントロールから目覚め始めている人が増えてきたように思います。あともう少し。

自分を戦後思想の安全な場所において、日本人に説教して悦に入ってる村上さん、恥ずかしいからもうやめて。
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以下が村上春樹さんのエッセイです:

 尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。

 この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。

 僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。

 たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。

 このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。

 今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。

 国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。

 そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。

 僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。

 最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。

 安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。

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コメント

robitaさん、

コメントを書いていったら長くなったので、自分のブログの方に載せました。相変わらず長い文章ですので(笑)お時間のある時にどうぞ。

投稿: 真魚 | 2012年11月 3日 (土) 13時34分

★真魚さん

今そちらに書いてきました。
真魚さんの文章を引用しながらですのでとても長くなっちゃいましたけど

投稿: robita | 2012年11月 3日 (土) 23時18分

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