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2013年2月28日 (木)

死亡率100%

このところ、日本人が外国滞在中に亡くなるという事件・事故が続いています。
故国から遠く離れた地で、死の準備もしないまま終末を迎えなければならないのはどんなにか無念なことでしょう。
危険な地域に赴く人々の覚悟はともかく、楽しみに心躍らせながら旅行に出かけた人々の悲惨な最期にご遺族の苦しみもいかばかりかと思います。

私も65歳になりましたが、死を意識する気持ちが年を重ねるごとに強くなってきます。
できるだけ安らかに死にたいと希望するものの、そんなにうまくいくものではありません。

予期せぬ事件・事故に巻き込まれ、苦しみながら死ななければならないこともあるでしょうし、脳卒中に見舞われ、長年寝たきりになって下の世話を受けながらだんだん弱っていく死に方もあるでしょう。

そんなのいやだ、と思っても死に方は選べないし、誰でも必ず死にます。

でももし選べるとしたら、やはり癌かな、と思います。

だいたいの死期がわかるし、痛みの緩和治療もずいぶん進んでいるようです。無理やり癌をやっつけようとするから痛いのだ、と力説するお医者さんもいます。

死ぬまでの時間があれば、人生の整理整頓ができますし、痛くないのであればこんな良いことはありません。

iPS細胞の研究が進むことは難病を抱える患者にとっては朗報ですが、「お年寄りにどうやって死んでいただくかが問題となります」とコメントした評論家がいました。
まったくその通りで人間は順番に死んでもらわなくては社会はやりくりできません。

しかし、もしかしたらiPS細胞って、楽に明るく死ねる道へのヒントも提供してくれるんじゃないか、なんとなくそんな気がします。

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関連記事: 「日本人の死に時」  
お勧め本: 「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(中村仁一)

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2013年2月24日 (日)

ぶざま

NHKテレビ「課外授業_ようこそ先輩」という番組があります。
各界有名人が出身校を訪ね、一日先生になって子供たちに授業をするというものです。
昨日、お笑い芸人の又吉直樹さん(ピース)が出身小学校を訪ね、「恥をさらけ出す勇気」という課題で授業を行いました。

彼が敬愛しているという太宰治の作品(「畜犬談」)をベースに、小学生たちに恥ずかしい思いをした体験談を原稿用紙に書かせ、文章をより良く練り上げるために一人ひとりとの面談を通してヒントを得てもらう、というものでした。

人柄の良さが滲み出る言葉のやりとりの温かみや、読書好きだという又吉さんの目が知性の光を放っていたのが印象的でした。

私の人生、恥ばかりかいてきた、と自嘲的に語る人は多いですが、この又吉さんもそうなのでしょうか、太宰が自分の弱さをユーモアをもってさらけ出している文章を読んで心を動かされたと言います。
恥ずかしいことを隠さずに思い切って喋ってしまうことで共感を得たり自信がついたりするものだ、と子供たちに教えたかったのでしょう。

まあ、そうは言っても、言える恥と言えない恥があって、失敗や惨めな体験を抱えることの重圧はそう簡単に解き放てるものではありません。

それでも、お笑いブームの影響もあってか、近頃の人は結構大胆に恥ずかしいことを告白するようになったと思います。

しかし、そのように告白する人はたいてい、明るくて話のうまい人だというのもまた事実です。

「暗い」とか「話下手」とか「要領が悪い」というのがお笑い芸人としての又吉さんの芸風だと思いますが、人気者として成功している以上、そんなキャラクター設定はどこかいかがわしい。
クイズ番組などで見かける又吉さんに、読書好きにしては教養がないじゃないのと思ったことはありましたが、これもネタだったかもしれません。知的でカッコいい又吉さんではサマになりませんから。

そんな又吉さんが誰をどのように励まそうと、陰気な性格がいきなり陽気に転換するとは思えませんが、それでも、「僕だって恥ずかしいことだらけだよ」と体験談を面白おかしく話してくれる先生は、不器用さに悩む生徒にとっては、強圧的でご立派なことばかり言う先生よりずっと救いになるでしょう。

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2013年2月18日 (月)

最初の一撃

近所にホームセンター建設計画があって、その住民説明会というのに行ってきました。
別に建設反対とか要望とか疑問があるというのでなく、単に「住民説明会」という見たことのないものを見てみたかったという、いささか不純な動機でありました。

地域の自治会総会などで、強硬に要求を押し通そうとする住民の様子は見たことはありますが、この住民説明会はまるでつるし上げのような格好でした。

住宅街の真ん中にできるというのでなく、幹線道路に面した土地であり、その後ろに住宅街が控えています。
環境悪化を心配した住民たちが「どうやって環境悪化を防いでくれるのか」と疑問をぶつけます。
それは当然の疑問ではありますが、最初から喧嘩腰で、事業者側を嘲笑したり、恫喝ともとれるような脅しが何人もの住民から次々と繰り出され、事業者側も多少の具体的な対策を提案はするものの、完璧に今まで通りの環境を守ることを保障するとも言えず、しばしば立ち往生してしまいます。
なんだか気の毒で、いたたまれなくなって私は途中で退席してしまいました。

もちろん、住民の不安はもっともなことです。
周辺道路の渋滞や駐車違反、住宅街に車が入ってくることで起こる交通事故。
閑静な住宅街を気に入って住んでいたところに、混雑の予想される商業施設ができるなんてどうにも納得がいかないことでしょう。
できるなら計画を中止してほしい、静かな環境を守りたい、というのは当然の要望であろうと思います。

しかし、企業のほうだって商売をする権利はありますし、法律的に何の問題もないから認可されたのでしょう。

こういう問題が起きた時、住民と事業者がじっくり話し合って妥協点を探りながら折り合っていくしかないと思いますし、実際にそのようにして双方満足とはいかないまでも着地点を見出した事例も数多くあると思います。

しかし、あのように端から敵意むき出しで果たして話し合いなどできるのだろうか、と思います。
それとも、最初に強硬な態度に出ないと甘く見られ、説明会がただのガス抜きになってしまうということなのでしょうか。

交渉ごとは、まずガーンと一発くらわせたほうが有利ということなのかもしれませんね。

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2013年2月 3日 (日)

体罰についての議論が長い

スポーツ界の体罰(暴力)の問題ですが、暴力をふるって選手が強くなるわけがない、という当たり前のことが共通認識として広がりつつあるのに、テレビのコメンテーターなどの中には依然として「愛のムチ」に対する郷愁が感じられる発言をする人が見受けられます。

体罰というのはいくつかの側面があって、分類して整理することが必要じゃないかと思います。

まず、軍隊式の指導方法をスポーツ界に持ち込んだのがそもそもの勘違いだったわけですが、思いますに、軍隊で新兵に対して理不尽な暴力が振るわれたのは、理由があるかもしれません。

戦争は暴力そのものであり、敵を殺すことが戦場での目的であり、暴力を振るわれることを怖がったり暴力を振るうことをためらっていてはこっちが殺されてしまいます。まさにやるかやられるかの世界。

戦場で殺されないためには暴力に対する恐怖心を乗り越えなければならないでしょうから、一つの「鍛錬」として新兵に対する暴力があったのかもしれません。
そういう意図はなかったかもしれませんし、ほんとに意地悪で乱暴な上官が気晴らしで部下を殴っていただけなのかもしれませんが、人一倍痛みに敏感で暴力を嫌う日本人が兵士として勇敢に戦ったのは、「人を殺す」という行為を、自分が受けた暴力によって麻痺させる経験を積み重ねていたからとも言えるのではないでしょうか。
あるいは「麻痺」というより、本当に「こんちくしょう」という憤怒の感情が生まれ、戦場での奮起につながったのかもしれません。

スポーツの技術を磨くということは、それとはまったく関係のないことで、例えば格闘技にしても、選手たちは好きで入った世界であり、既に経験を積み、初心者としての恐怖心などないはずなのですから、軍隊式の暴力は必要がないどころか逆効果だということは明らかです。

また、体罰で育てられたと思い込んでいるOBがしばしば体罰容認の発言をするのにも勘違いというか、もっと言えば「洗脳」じみた体験があるのではないでしょうか。

精神的肉体的に極限まで痛めつけられ続けた生徒や選手たちが、卒業式や何らかの節目で、「よく頑張った」と涙を流しながら抱きしめてくれる指導者に感激して「厳しかったけど報われた。愛情で叱ってくれたのだ」という思いに至るのは、カルト宗教の手法にそっくりだと言われます。
このような手法は組織に忠実な人間を作るかもしれないけど、スポーツの技術が向上することにはなりません。

京都伏見工業高校ラグビー部の山口良治監督が生徒たちを殴って強豪チームに育て上げた、というのが美談として知られていますが、強いラグビー部を作ることが、当時京都で最も荒れた高校の一つであった伏見工の非行少年たちを立ち直らせるための手段であったようです。
一筋縄ではいかないツッパリたちを導くには、時として体罰が必要であったかもしれません。
現場を知らない私たちに、「どんなことがあっても暴力は許されない」などと、教師を責める資格はありません。
そういう困難な状況に苦慮し最も悩んでいる先生たちを差し置いて、外野にいる者がどうしてとやかく論評などできるでしょうか。

多くの人のこうした思い違いが、体罰問題の解決を難しくしているのではないかと思います。

因みに、弱い者いじめをして説諭しても反省をしない子供は叩くしかないと私は思っているのですが、こういう子は叩いてもわからないものなんでしょうか。

関連記事: 「体罰」 
        「殴れ」

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