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2013年2月 3日 (日)

体罰についての議論が長い

スポーツ界の体罰(暴力)の問題ですが、暴力をふるって選手が強くなるわけがない、という当たり前のことが共通認識として広がりつつあるのに、テレビのコメンテーターなどの中には依然として「愛のムチ」に対する郷愁が感じられる発言をする人が見受けられます。

体罰というのはいくつかの側面があって、分類して整理することが必要じゃないかと思います。

まず、軍隊式の指導方法をスポーツ界に持ち込んだのがそもそもの勘違いだったわけですが、思いますに、軍隊で新兵に対して理不尽な暴力が振るわれたのは、理由があるかもしれません。

戦争は暴力そのものであり、敵を殺すことが戦場での目的であり、暴力を振るわれることを怖がったり暴力を振るうことをためらっていてはこっちが殺されてしまいます。まさにやるかやられるかの世界。

戦場で殺されないためには暴力に対する恐怖心を乗り越えなければならないでしょうから、一つの「鍛錬」として新兵に対する暴力があったのかもしれません。
そういう意図はなかったかもしれませんし、ほんとに意地悪で乱暴な上官が気晴らしで部下を殴っていただけなのかもしれませんが、人一倍痛みに敏感で暴力を嫌う日本人が兵士として勇敢に戦ったのは、「人を殺す」という行為を、自分が受けた暴力によって麻痺させる経験を積み重ねていたからとも言えるのではないでしょうか。
あるいは「麻痺」というより、本当に「こんちくしょう」という憤怒の感情が生まれ、戦場での奮起につながったのかもしれません。

スポーツの技術を磨くということは、それとはまったく関係のないことで、例えば格闘技にしても、選手たちは好きで入った世界であり、既に経験を積み、初心者としての恐怖心などないはずなのですから、軍隊式の暴力は必要がないどころか逆効果だということは明らかです。

また、体罰で育てられたと思い込んでいるOBがしばしば体罰容認の発言をするのにも勘違いというか、もっと言えば「洗脳」じみた体験があるのではないでしょうか。

精神的肉体的に極限まで痛めつけられ続けた生徒や選手たちが、卒業式や何らかの節目で、「よく頑張った」と涙を流しながら抱きしめてくれる指導者に感激して「厳しかったけど報われた。愛情で叱ってくれたのだ」という思いに至るのは、カルト宗教の手法にそっくりだと言われます。
このような手法は組織に忠実な人間を作るかもしれないけど、スポーツの技術が向上することにはなりません。

京都伏見工業高校ラグビー部の山口良治監督が生徒たちを殴って強豪チームに育て上げた、というのが美談として知られていますが、強いラグビー部を作ることが、当時京都で最も荒れた高校の一つであった伏見工の非行少年たちを立ち直らせるための手段であったようです。
一筋縄ではいかないツッパリたちを導くには、時として体罰が必要であったかもしれません。
現場を知らない私たちに、「どんなことがあっても暴力は許されない」などと、教師を責める資格はありません。
そういう困難な状況に苦慮し最も悩んでいる先生たちを差し置いて、外野にいる者がどうしてとやかく論評などできるでしょうか。

多くの人のこうした思い違いが、体罰問題の解決を難しくしているのではないかと思います。

因みに、弱い者いじめをして説諭しても反省をしない子供は叩くしかないと私は思っているのですが、こういう子は叩いてもわからないものなんでしょうか。

関連記事: 「体罰」 
        「殴れ」

 

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コメント

こんにちは。

イギリスなんかですと、一度は体罰を禁止にしましたが、その後、保護者や現場教師からの嘆願で体罰認可になったという経緯があるようです。お隣の韓国も。アメリカは州ごとに異なりますが、やはり体罰認可の州があります。

少なくともこれら体罰認可の国に限って言えば、体罰(懲罰)を行う手順、方法などが明文化されています。
例えば、「なぜに懲罰を受けることになったのか名言する」「(認可を受けた)道具で、指定箇所を叩く」「叩く回数の上限などがある」「生徒が希望するなら、奉仕活動などでの代替が可能」「体罰実施の記録を残す」といった辺りです。

よく考えてみれば、こういった決まりや手順は、逮捕された犯罪者が判決を受けて刑に服するのと同じことなんですよね。

投稿: えまのん | 2013年2月 4日 (月) 13時41分

★えまのんさん

こんばんは。

>少なくともこれら体罰認可の国に限って言えば、体罰(懲罰)を行う手順、方法などが明文化されています。<

>こういった決まりや手順は、逮捕された犯罪者が判決を受けて刑に服するのと同じことなんですよね。<

なるほど。
口で言っても反省しないからといって、叩けば反省するものでもないですよね。
心から反省しているかどうかはわかりませんし、相手を自殺に追い込むほどの酷いいじめをやるような子供がそう簡単に「悪かった」などと反省するとは考えにくいですね。
だから「体罰」という罰を与える、という掟を作るわけですね。犯罪者が刑に服するのと同じように。

投稿: robita | 2013年2月 4日 (月) 22時05分

体罰指導を徹底するには、究極的には教師が武装する必要があります。不良生徒なら教師を殴り返しかねません。

銃や刃物が抑止力となるなら良いのですが、教師は教育の専門家であって戦闘の専門家ではありません。力の使い方を誤る恐れが大です。あっ、待てよ。体罰をすること自体が、抑止力としての拳や蹴りの使用の誤りだ!

恐怖で従わせる体罰はなくすべきですが、不良相手の抑止力もないと善良な生徒が恐怖に怯えることにもなります。校内安全保障の議論は冷静沈着に行ないたいものです。

投稿: Σ・亜歴 | 2013年2月11日 (月) 18時17分

★Σ・亜歴さん

2・30年前の荒れた時代の、学校の手に負えない暴力であれば警察も必要でしょうが、今は生徒が暴れるというようなことは少なくなって、代わりに陰湿ないじめが問題になるようになりましたね。
いじめというのは認定がなかなか難しいものです。
見解の違いや、客観と主観、モンスターペアレントなど小を大に騒ぎ立てる者もいて、「体罰」といっても、本当に制度的なものにするならば、刑事裁判のように手続きや時間をかけた裁定が必要になるでしょうね。 
結局、学校の最高責任者が毅然とした態度で対処するかどうかですね。
教育者たるもの、責任逃れや事なかれ主義に陥ることなく、矢面に立つ覚悟を見せればいいのにと思います。

投稿: robita | 2013年2月12日 (火) 16時41分

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