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2013年11月25日 (月)

どっちがより怖いか

特定秘密保護法案について連日報道が盛んです。

この法案に反対しツイッターで呼びかけ合った人々が東京日比谷公園に集まって大規模集会を行い、「知る権利」や「報道の自由」を求めて気勢を上げていました。
デモ行進をしている様子がよくテレビに映りますが、掲げているプラカードには「暗黒の時代」だとか「戦前に戻してはならない」だとか「軍国主義」「憲法改正反対」などの文字が読めます。

うーん、軍国主義ですか・・・・

先頭に立っているのは、こういう集会にはお馴染みの福島瑞穂議員のパートナー海渡雄一氏や元アナウンサーの落合恵子氏。

特定秘密保護法というものが必要なのかどうか、私にはよくわかりません。一般国民のほとんどがわからないんじゃないでしょうか。

だって、この法律を制定してもしなくても、どっちにしても怖いらしいですから。

現状では日本はスパイ天国で、軍事や産業の情報が簡単に漏れて国益を損なう恐れが大きく、一方で、こういう法律ができると政府は都合の悪いことを国民に隠すことが可能になるのだそうです。

国家としてこういう法律が必要だということで、戦後何度か議論され、提出された法案だということですが、そのたびに、世論の反対で廃案になってきたという経緯があるそうです。

なぜ今こんなに急いでやろうとするのか、という声もよく聞きますが、「急いで」ということではなく、もういい加減に決めなきゃ、ということなのかしらと思います。

「特定秘密」の範囲があいまいなので、国民が真に知るべきことも隠されてしまうのではないかとか、知らないまま罪に問われたりするのではないか、という懸念も上げられます。

ならば、範囲を決める話し合いをしたらいいと思うのですが、そもそもきっちり線引できるような事柄ではないからこのようなことになるんじゃないでしょうかね。

この法案について、「よくわからないけどなんとなく怖い」という声も聞きます。

私はこの「よくわからない怖さ」というのは、戦後ずっと続いてきた左翼言説の影響だろうと思います。国は信用できない、という。

こんな記事を書いたことがあります。  →「反骨と協力」 
                           「憲法記念日に思った」  

おめでたいと言われようが、バカと言われようが、私はやっぱり、日本って根幹のところで政府を信用しても大丈夫な国だと思うのです。(民主党政権はちょっと危うかったけれど)

といいますか、「国家権力にあくまでも抵抗する勢力」と、「国をある程度信用している暢気な人々」のバランスが実によくとれている国なんじゃないかと。

だから、反対集会もデモも大いにやればいいでしょう。

但し、国家運営に責任を持つ政治家は、反対勢力の有様をマスコミがどんなにオーバーに報道しようが、国民の安全のためと信じるならば断固として方針を貫く勇気を持ってほしいと思います。

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2013年11月16日 (土)

価値観の転換は起こるか

同じ敷地内の一人暮らしの妹が、母親と住んでいた古家を壊し、一人用の小さな家に建て替えた。

家庭菜園ができるほどの土地の余裕ができた。

我が家の敷地との間に段差があるので、その高低差を緩和すべく、暇さえあれば姉妹でせっせと土運びに勤しんでいる。
夫は腰痛持ちだし、土や虫の類が苦手な人なので手伝いは期待できない。

かなり平らになってきた。見よ、女の底力。
畑でできた作物で家族の毎日のおかずが賄えるぐらいになるといいのだが。
きゅうり、トマト、ゴーヤなど、放っておいても勝手に生ってくれるようなものなら多少作ったことはあるが、もっと成りの良いものや種類も多くとなると丹精込めなければならない。頑張ろう。

近年農業に関心を持つ人が増えてきた。家庭菜園から本格的農業まで、よくテレビで紹介される元芸能人などの畑仕事もプロフェッショナルだ。

その誰もが作物を育てることの楽しさや収穫した野菜の美味しさを実に満足気に語る。日々食べるものを自分の手で作り上げるという人間の原点を知る自信に満ちあふれている。

本屋で何気なく手にとった「里山資本主義」。
冒頭の「なにも、便利な都会暮らしを捨て、昔ながらの田舎暮らしをしなさいというのではない。『ブータンみたいな幸せ』を押しつけようというのでもない。ひょっとすると、生活の中身はそれほど変わらないのかもしれない。しかし本質は『革命的に』転換されるのだ。」という一文に興味が湧いて読んでみた。

里山資本主義とは、地域内で経済を循環させる、ということのようだ。

よくわからない点もある。

木材ペレットを燃料にする木質バイオマスで地域のエネルギーを自給自足する話は、ずいぶん前にドイツの実例を聞いたことがある。
木造建築を増やし、製材が盛んになればペレットの原料となるおが屑や樹の皮などが大量に出るという。
優れた集成材が鉄骨よりずっと火事に強いというのは以前から聞いている(地震にも強いらしい)。
「里山資本主義が語るエネルギー問題は、『自然エネルギーに切り替えて脱原発を実現しよう』といった、よくある話ではない」というが、木を燃やすだけで現代人が困らないだけのエネルギーが供給できるものだろうか。
日本人の大好きなネオンやイルミネーションは今まで通り楽しむことができるのだろうか。

地域で採れる果実でジャムを作ったり地元の採れたて野菜を使ってレストランを開いて好評だという話も紹介されている。

要するに、マネー資本主義を反省して、田舎で採れるものを使って地域で金の流れをつくる、というのが「里山資本主義」というらしいのだが、それを実践している地域をNHK広島取材班のスタッフがいくつか取材している。
「地方は宝の山だ」、「高齢者も働く場所を見つけて皆生き生きしている」、「温かい絆社会」、「田舎は素晴らしい」と自然と人情いっぱいの田舎を賛美する文章が続く。

しかし「自然に帰れ」という話なら、何も目新しいことではないんじゃないかと思った。

田舎は田舎でそういう産業を起こして頑張るのはおおいに賛成なのだが、都会に住む人間にそのような生活を営むことは難しいし、また、敢えてそういう生活をしたくないのが都会に住む理由の一つでもあると思う。

地域内で経済を回す、ということは地域外にはお金を出さない、よそ者には儲けさせないといった閉鎖性を感じるのだが、そういうことではないのだろうか。

「革命的な転換」とは何なのだろうか。都会は今までのままで、田舎さえ頑張れば日本中が革命的な転換を起こすのだろうか。そうした動きが広がって安定することが大事なのだろうか。

中に一章だけ日本総合研究所員の藻谷浩介氏の書いた部分があり、「『里山資本主義』とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された『マネー資本主義』の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。」とある。

ふーん、これならなんとなくわかるような気が。

もちろん、グローバル化した世界の中で引きこもるわけにはいかないから、グローバル経済に乗ることは必要だろうが、災害やら経済破綻やらでお金が役に立たなくなった時のための保険のようなシステムと考えたらいいのだろうか。

こういうシステムを全国に広げていくとあるいは国としてのGDPは下がるかもしれない。製鉄やエネルギーなど既存の産業の既得権を侵害するかもしれない。それでも日本全体の幸福のためにはこういう方向がいいのではないか、と藻谷氏は提言する。

そして、田舎に住みたくない人も少し考え方を変えて頑張っている地方の生産品を買ってみるとか、少々高くても自分の住む街でしか手に入らないものを贈答品に選ぶとか、たまには手作りしたものを贈るとかしてみてはどうだろうと提案する。

要するに、価値観を変えろということなのだ。そうでなければ国も人心も疲弊する、と。

お金だけが幸福をもたらすのではないというのはもちろんいつの世でも言われることなのだが、いわゆる「左翼的」な人々がそういうことを言っても胡散臭く感じるのは、彼らは具体的な案を示さないからではないだろうか。
そして口ではそう言いながら、気づかぬまま自分自身が電気をふんだんに使う都会生活にどっぷり浸かっているからではないだろうか。

あくまでも今までのようにお金を儲けて華やかな使い方をしたいという人はそれを続けてもいいとは思うが、サブシステムとして地産地消の体制をしっかりと構築しておくことは必要だと思う。

そして地方に働く場所ができれば、そこに住みたい人だって増えるだろう。

田舎に住みたくない人も「里山資本主義」を理解し、その発展のためにどんな協力ができるのか、それを考えるだけでもとても意味のあることではないか。

この「価値観の転換」をどうやって国民に促すか。それには教育が必要だろうと思うのだ。
しかしその教育は国が主導するものではもちろんない。GDPが下がったり既得権を侵害するような考え方への転換を国が奨励するわけがない。

そこで、登場するのが産経新聞連載中の「ミッション_建国」に描かれるIT塾である、と勝手に関連づけてみる。

小説はこうだ:

貧困から抜け出すためには高い教育を受ける必要がある。
学校外の教育(塾)のための費用が出せるか出せないかで、貧富の差が大きくなる。
インターネットを活用すれば塾に通わせる余裕のない家庭の子供も受験に必要な学力を格安で身につけることができる。
小説の主人公の政治家、甲斐孝輔と、ITベンチャーの雄、クロコディアン社を経営する多田野英明との会話からこの民間によるオンライン塾構想が醸成される。

そこで私は考える。
貧困から抜け出すための良質の教育をネットで提供することができるなら、日本という国の方向性について師弟ともに学ぶネット私塾ができたっていいのではないか。

そうだ、これぞ時代の大きな変革期に出現した私塾の再来だ。

そういえば、何年も前にタイトルに惹かれて買い、読まないままの「私塾のすすめ」という本があったのを思い出した。
斎藤孝と梅田望夫両氏の対談だが、パラパラとめくってみると、こんなやりとりがある。

«毎日ブログを書いていて30年たったときに、「あの人はネット上で私塾を開いた初めての人だったんだった」とか言われたいですね。»
«たしかにネットが将来、「私塾」としてみられることになるかもしれないというのは、わかります»

学者、評論家、政治家などの多くがネットで毎日のようにブログなどで発信しネット内に情報があふれている現在、その中で私塾として発展していくものがあるのか、あるいはやはり、国を想う志の高いIT企業がきちんとした講座を用意するのがいいのか、どんな形になるのかわからないが、ネットであれば誰でも参加できる。
松下政経塾のようなハードルの高いエリート養成学校である必要はない。

平成の松下村塾や慶應義塾が出現するだろうか。それともネット空間はすでにそのような場所になっているのだろうか。

それはともかく、我が家では小さな菜園を耕すことのできる土地ができた。
ありがたいことである。
庭の片隅に煮炊きのできる場所でも設けようか。

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2013年11月12日 (火)

希望がいっぱい

歌手の島倉千代子が亡くなって「人生いろいろ」という歌がテレビからよく流れてくる。
演歌とか歌謡曲に普段あまり興味はないのだが、聴いていると、そうかこんな歌詞だったのか、と初めて気付いた。

・・・・・
ねぇおかしいでしょ若いころ
ねぇ滑稽でしょ若いころ
笑いばなしに涙がいっぱい
涙の中に若さがいっぱい
・・・・・

なんと巧みな表現だろうか。

死んでしまおうなんて思うほどの苦境に陥ったことは自分はないけれど、まあそれなりにあれこれ経験しながら生き延びた年配者にとってグッと来るような文句である。

歌詞の内容は恋の悩みのようだが、島倉自身が「私の人生そのもの」と言っており、お金やら仕事やら健康やら人間関係にまつわる人生の試練全般に当てはまる。
うまくいくだけの人生では喜びも感動も成長もないとか、若いうちの苦労は買ってでもしろとか、年月を経て振り返れば笑い話だとかいう言い古された教訓がこの短くも味わいのあるフレーズの中に凝縮されているようだ。

本人がどのくらい真剣に悩み苦しんだのかは定かではないが、我が家の末息子にも「笑い話になる時が来るよ」と言ってやったことがある。(「本日、未熟者」)
今では希望の職種に就くことができたけれど、あの頃のことを笑い話にするには若すぎるし、まだまだこれからいくつもの困難が待ち受けているだろうから決してめでたしめでたしではない。

若者だけではない。我々高齢者だってこれから死ぬまでの間に何が起こるかわからない。
人生は油断ならないのである。

二番の歌詞
・・・・・
いまかがやくのよ私たち
いまとびたつのよ私たち
笑いばなしに希望がいっぱい
希望の中に若さがいっぱい
・・・・・

いくつもの国難を抱える今の日本だが、高齢者とてぼやぼやしていられない。

希望の中に若さをいっぱい詰めざるを得なくなる時代が到来するかもしれない。

これからの日本人にとってどんな生き方が望ましいか、そのヒントが「里山資本主義」(藻谷浩介・NHK広島取材班)の中にある。

というわけで、次回はこの本について書いてみます。

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