発想の転換
1月19日産経新聞コラム「小さな親切、大きなお世話」で、作家の曽野綾子さんが「高齢者も働ける社会を」という一文を寄せています。
【夫は先日、満88歳になった」
「昔は88歳なんて人、見たことがなかった。珍品だね」
と夫は言う。
「百年前だったら、『88年も生きてる人間』という珍獣として、サーカス小屋の見せ物になれたかもしれないわね」と私もレトロなことを言う。
しかし今は「珍獣」どころか元気な高齢者はどの町にもいる。しかしその生き方は必ずしも充分に議論されていない。高齢者という世代に対する、昔の概念を引きずったままだ。
その現状に、違和感をもつ世代もいるのだ。数日前に会った若い中年は言う。
「お年寄りがお元気なのはいいんですが、ご夫婦でせっせと歩いておられるのを見ると、歩く元気があるならもう少し働かれたらいいのに、と思います」
ほんとうは見かけでは人はわからないのだ。内臓の病気を抱えている人はかなりいる。外見は元気だが、実は痛風でいつも痛みに耐えていた人もいる。
若いときから貧しい家庭に育って働き通してきたから、せめて60歳を過ぎたら遊んで暮らすのを生涯の目的としてきた人もいる。一応元気なのだが、私のように怪我の後、関節が曲がりにくくなって畑仕事ができなくなったのもいるだろう。
日本は個人の希望を大切にする自由な国なのだ。だから、遊んで暮らしたければ、そしてそれが個人的・社会的に可能なら、遊んで生きればいい。
しかし年寄りの中には、2種類の精神的性向がある。遊んでいるのが好きな人と、どんなことでもいいから働いてその生産性によって社会と繋がることを望む人とである。後者が私の周囲には、絶対多数である。どうして政府は年寄りに、収入はある程度安くていいから、体力の許すだけの働く場を作らないのかと不思議に思う。
ある日、わが家の屋根の下に住む高齢者の平均年齢を調べたら、87歳だった。この3人はしかし3人ともまっとうに、肉体労働によって経済的収入を得ている。つまりまだ現役なのである。ただ椅子に座ってお茶を飲んで、時々居眠りをするような生活はしていない。
中国その他アジア諸国の労働賃金が安く太刀打ちできないというが、日本の老齢人口が、安い労賃を承認しながら、「日本社会のために働く」という意識を持てば社会はかなり変わると思うのだが、それは不可能なのだろうか。60歳や70歳で定年退職させるのは、その人が長年培った得難い特殊技能までをみすみす捨てさせるようなものだ。
その代わり、高齢者は、自分の年を考えて後進にポストと高額な給与の道を譲り、自分は「ほとんど道楽か趣味で」ただ日本社会の未来のために、自分の技術と残る体力をささげるという、新しい老後の生活目標の自覚があってもいいだろう。
遊んで生きられる老後は、既に社会の年齢上の人口比が急速に変化してきている以上、不可能になりつつあるが、遊んでいきたい人は遊び、働きたい人は働くという晩年の自由を、すべての老人が得られる社会を創出してほしい。】
冷凍食品に農薬マラチオンを混入した容疑で49歳の男が逮捕されました。
動機はまだはっきりしませんが、給与に不満があったとも言われています。
中国毒餃子事件以来、冷凍食品の会社は工場を日本国内に移す傾向にあるそうなのですが、人件費を安く抑えなければならない事情がこういう事件の背景にあるのでしょうか。
働き盛りの人にはこれからの成長産業でより多く稼げるように、政府は対策を考えてもらうとして、一方でこういう食品工場で高齢者が働けないものでしょうか。短時間の交代制ならば高齢者にとってもそれほどキツイということはないと思います。
曽野さんは「どうして政府は年寄りに、収入はある程度安くていいから、体力の許すだけの働く場を作らないのかと不思議に思う」と書いています。
こういった案は政府が作るものなのか、企業が提言するものなのかわかりません。新しい制度を作るのは面倒といえば面倒ですが、その気があればすぐにできることのように思えます。
年寄りをどうやって養うかということばかりじゃなく、どうやって協力してもらうか、という発想もこれからの社会には必要だと思います。社会保障費をどうするか、考えるだに恐ろしい、ならば固定観念からの脱却しかないのでは。
いつもありがとうございます →人気blogランキング
関連記事:「誇りを持って見栄を捨てる」
| 固定リンク
| コメント (16)
| トラックバック (0)

最近のコメント