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2014年6月30日 (月)

女の目

夫婦の平等度が高まり、夫が家事に参加すればするほどセックスの数は減っていく・・・・・、これは最近の社会学の研究で実証されていることなのだそうです。

週刊新潮連載の医学エッセイ「医者のけもの道」で岩田健太郎医師が心理療法士ロリ・ゴットリーブのエッセイ(ニューヨーク・タイムズ・マガジン)を紹介しています。

≪しかも、よりフェミニンな家事、たとえば炊事、洗濯、お掃除なんかを夫がよくやる夫婦は、よりマスキュリンな家事、たとえばゴミ出しとか、自動車の修理・・・・を夫がやる夫婦よりもセックスの回数が5割減なんだとか。
なぜか。
その説明としてゴットリーブはこう考えます。
炊事や洗濯をしてくれる、理解のある夫と一緒にいるのはとても楽しく、妻はより幸せになる。
でも、そういう夫はセックスの相手としては、魅力に乏しくなるのではないか、と。≫

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もちろんこれは夫婦間に起こること(つまり同居しているからこその事態)であり、独身男性が家事をやっているからといって女性から見て魅力がなくなるというわけではありません。
昔から一人暮らしの男性は家事を全部自分でこなしていたし、結婚した時点で、家のことは妻に任せるようになる人が多かったのです。

岩田医師も次のように分析します。

≪確かに、性欲というのは相手の「他者性」に惹かれるわけです。自分ではない、他者との関係性、その「差異」が、異性への恋愛感情を生み、性欲をドライブするのでしょう。
ところが、仕事においても家事においても、いろいろな生き方が同化していくにつれ、男女の違い、その「差異」が小さくなっていきます。
「差異」が小さくなればなるほど、両者の間に諍いは起きなくなり、夫婦の仲はよりよくなっていく。しかし、逆説的に「差異」の大きさが生み出す性欲が減退する。≫

私、男女平等に関する問題をたくさん記事にしていますが、「女性たちはそのうち『おばさんみたいな男ばっかりで、もうやだ~』なんて言い出すんじゃないかと心配で心配で・・・」なんて書いたことありましたっけねえ。

          (次回「男の目」に続く)

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関連記事:「男が家事育児に参入すると」  

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2014年6月28日 (土)

生前贈与

「親のスネはどんどんかじりなさい」と学生たちに言ってるんですよ。

・・・・と、ある大学教員が言っていました。

低収入なので、若者は結婚もできず、若夫婦も二人目の子供を生むこともできない、と盛んに言われる一方、親の世代は豊かな時代に順調な給料上昇を経験し、老後の蓄えは充分です。充分ではない人もいるでしょうが、日本国民の貯蓄の6割は60歳以上の高齢者が占めているといいます。

定年後、高齢者は趣味や旅行や買い物を楽しみます。
お年寄りがパアーッとお金を使うのは景気浮揚にはとても良いことだと思います。
しかし若い世代は困窮の中にあり、それはまさに自分の子供たちです。

貧乏な親と貧乏な子供の組み合わせももちろんありますが、そこそこお金のある親と貧乏な子供の組み合わせだったら、遠慮なく経済援助をすればいいと思います。

今の時代、それは「若者を甘やかす」という意味を持たないんじゃないでしょうか。

私にとって、老後の楽しみは旅行でも買い物でもなく、若い人たちが生き生きと活動する姿を見ること。これは何より愉快です。

どんなに貧しくても親に頼ってはいけないと、子の自立を何より願う親御さんもいらっしゃるでしょうし、その精神を受け継ぐ子供たちもまた立派だと思います。
矜持を守るその姿は、たとえこんな厳しい時代でも親の援助を受けずとも幸せな家庭を築くことは可能なのだという証となるのではないでしょうか。

さて、高齢者が貯めたお金は相続分として次の世代に引き継がれるわけですが、親が死んでから引き継ぐというのは社会をうまくまわすという点では効率が悪いのかなと思います。

今の政府は高齢者優遇で若者が困窮している、ということがよく言われますが、それでは、世代間の格差を政策でなくすことができるかというと、それがなかなか難しい。
高齢者は人数が多い上に選挙に熱心ですから、若者優遇策がなかなか立てられません。

それなら自分たちの意志でそれをやればいい。
まとまったお金を渡すと税金がかかることもありますから、それこそ、少しずつ生活費等に紛れ込ませて、貯金を増やすよう勧め、若い世代に少しずつお金を移動させていく方法はどうでしょうか。
老人の死を待つ人々を増やすより健全ではないかと思うのです。

それが冒頭の、親のスネをかじるということだと思います。

老後のためにと思って温存しておいたお金を使いきれないうちに死んじゃって、それを複数人で相続するとなると揉め事のもとにもなるし、それなら生きてるうちに少しずつ分け与えたらいい。

長生きしたらどうするんだ、と心配で仕方がない人は「野垂れ死にの覚悟」という不埒な題名の本など読んでみたらどうでしょう。私もこれから読もうと思っているんです。

ただ、問題は贈与や相続の減少で国の税収が減るということになるのでしょうか。それとも少し生活に余裕ができた若い世代が結婚し、子供を二人以上持つようになるだろうから、長い目でみると国益にかなうのでしょうか。
現実的には、少しずつ資金移動しても生活に余裕ができるほどにはならないか、という気はしますがcoldsweats01

いずれにしても、色々な面で、この国を救うのは老人の矜持と覚悟しかない、と思う今日この頃であります。

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関連記事:「老人vs.非老人」   

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2014年6月20日 (金)

追悼 ダニエル・キイス様

作家のダニエル・キイスが亡くなった。
single40さんの追悼記事を読んで私も少し書いてみようかと思った。 

「アルジャーノンに花束を」は、たぶん生涯で私が一番好きな小説かもしれない。
他にも好きな本は数々あるけれど、半世紀近くも前に読んだこの作品から受けた感動は折にふれてよみがえる。

「--------ひくい知能がくらい部屋をすかして、鍵穴をとおして、戸外のめくるめく陽光をかいまみていた-------」といった表現に正鵠の共感を覚えたのも、うすのろまぬけであった子供の頃から「遠くに明るい場所がかすかに見える。あそこに行けばみんなと同じように考えることができるのだろうか」と、もやのかかったような頭でぼんやり感じていたからだろう。

知能の発達と急激な後退の過程に心が震えた。最後は泣きに泣いた。

この作品が収録されている「ヒューゴー賞傑作集」を編集したアイザック・アシモフが、ヒューゴー賞授賞式のことをその前書きで書いている:
 ≪皆さんよくご存知のように、私にとっては、毎年受賞者にヒューゴーを手渡すのが、じつに辛い仕事なのだ。とくに私自身の作品で、ヒューゴーに値するのが、半ダースやそこらはあるというにおいておやである。むろんこんな感情は、私はみごとな手ぎわで隠してしまう--------だが、さすがに私もただ一度だけは、その感情を持たなかったことがある。
  それは第18回大会(1960年 ピッツバーグ)のときで-------これは純粋に私の個人的意見だが、いままでの全大会を通じてもっともすばらしい、もっとも成功した大会だった-------私がダニエル・キイスに「アルジャーノンに花束を」で受賞したヒューゴーを手渡した瞬間であった。≫

 ≪私の言葉は情熱的に会場の空気を振るわせた。「どうしてこんな傑作ができたのでしょうか?」と、私は芸術の女神にむかって訊いた。「どうして出来たのでしょうか?」
         
            
--------略------------
  
  すると、ダニエル・キイスのまるい、優しい顔が、あの不滅の言葉をささやいたのである。
 「ねえ、もしあなたに、どうしてわたしがあの作品が書けたかわかったら教えてくれませんか。私ももう一度あんなのを書いてみたいんです」≫

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私が読んだのは短編だが、ずいぶん後に長編として書き直された。一応買ったが読んでいない。機を逸してしまったこともあるが、あの時の感激だけで充分だという思いがあるからでもある。

「まごころを君に」の題名で映画化された。モノトーンの素朴な印象のその作品もよくできていた。
主演のクリフ・ロバートソンの演技が秀逸で、アカデミー賞主演男優賞を受けている。私はこの授賞式の様子をテレビで見たが(アカデミー授賞式やその周辺は今のように派手でなかった)、地味な作品で受賞するとは思っていなかったのか、彼は現場におらず、代理人がオスカーを受け取っていたのを覚えている。

人間性を育ててくれたのかもしれない海外SFの巨人たち、アーサー・C・クラークもブラッドベリも死んでしまったけれど、若い時に出会うことができて本当に幸せだったと思う。

ありがとうございました。

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関連記事: 「アカデミー 」  

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2014年6月18日 (水)

「集団的」という言葉が怖い?

最近、集団的自衛権について、二つの場で話題になりました。

ひとつは、役員を務めている女性団体。もうひとつは、地域のシニアクラブです。

シニアクラブのほうは男性が多かったせいか、「集団的自衛権行使」は国際社会の一員である以上当たり前という認識なので議論の必要もなかったのですが、女性団体のほうは私以外ほとんど全員が容認に反対、というか恐怖や疑いを持っていて、「なぜこんなに急ぐのか」とか「歯止めがきかなくなる」とか「アメリカの戦争について行かざるを得なくなる」とか「安倍さんは自分がやりたいことのために国民や自衛官を危険に晒すのか」とか、マスコミで盛んに言われているようなことを口々に発言します。

これが我が国の平均的な女性たちの認識なのか、どこから説明すればいいのかと戸惑いながらも、まず「この問題は何も安倍さんが急に言い出したことではなく、もう何十年も前から無理やりの解釈をし続け、個別的自衛権での対処も限界にきてるのだからもういい加減に決着させないといけない。」と言ってみると、それだけでもう大変、みんなが一斉に色々なことを叫ぶものだから、まともな議論も出来ず、やっとのことで「石破幹事長の説明はわかりやすいから参考にすると良い」と言うと、「石破さんが正しいかどうかわからないでしょ」と、あくまでも「集団的自衛権行使容認を進めようとしている人の説明など信じられない」といった構えです。

まさに多勢に無勢。
3・4人なら落ち着いて議論もできるのだけれど、10人近い人数では私のような押しの弱い者には太刀打ちができません。おばさんのパワーは凄いのです。
しかし、それでも勇気を奮い起こして普段ブログ記事に書いているようなことを述べて行きました。
最後には一番強硬な女性一人との言い合いのような形になり、他の人は押し黙ってしまいました。

いつも和気藹々と作業している仲間たちなのに、なんだか申し訳ないような気持ちになりますが、こんな恐ろしい世界の中で日本という国が存立するための安全保障は、やはり「ダチョウの平和論」を押し通してなんとかなるものではないのだということを理解するべきだと思うのです。

護憲派の人と話したり、護憲改憲の議論を聞いていたりすると、いったいどのように話を持っていけばわかってもらえるのだろうと徒労感に陥ることがしばしばです。

一番の方法は「集団的自衛権を使えるようにしておくんだった」と後悔するような事態に陥ることなのでしょうが、危機管理はそれでは意味がありません。

何も起こらないようにできるかぎりの備えをしておくことが大事なのだと思います。

護憲派(いまや、集団的自衛権反対のあまり憲法改正を言い募る人々)はよく「外交努力」と言いますが、ハハサウルスさんは「外交力を単なる話術だと思っているのでしょうか」と疑問を呈しています。コメント欄がないので無断で貼り付けさせていただきます。 

産経新聞のコラム「一筆多論」でも、「強盗もお茶でもてなせば、何とかなるとでも思っているのだろうか」と論説委員の佐々木類氏が書いています。

「話し合いで解決を」と言うばかりで何ら具体的な方法を提示しない人々というのは、外交を「話術」だとか「お茶でもてなす」といった類のことだと、もしかしたら本気で思っているのかもしれません。

大事なことは「手出しできない国」と思わせることだと、集団的自衛権について実はよくわかっていない無知な私でもわかるんですけどね。

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2014年6月12日 (木)

DNAと環境、どっちが先?

韓国の朴槿恵大統領が次期首相候補に指名した文昌克氏の過去の発言が大問題になっているそうです。
講演で、「日本による朝鮮半島の植民地支配は神の意思」だとし、「怠け者のDNAを持つ民族に与えられた試練だ」などと発言していたというのです。 → http://sankei.jp.msn.com/world/news/140612/kor14061211100001-n1.htm

2011年のことだそうで、そのときに大騒ぎにならなかったのは、この人が有名な人ではなかったからなのか、それとも2年前はそういうことを言ってもあまり問題視されないほど日韓関係が悪くなかったからなのでしょうか。

それにしても、日本では、政治家などが他国(特に中韓)を批判したり自国を擁護したりすると大問題になるのに、韓国ではまったく逆で、自国を批判したり他国(特に日本)を擁護すると大問題になるんですね。

日本のような態度を「自虐的」といいますが、反対に韓国のようなのを何というのだろうかと調べてみましたら、自虐の反対語は、自愛、自尊、自賛などと出てきました。「夜郎自大」と表現されることも多いですね。

それぞれ国柄が出ていて面白いですね。ま、両国ともに足りないのは真の「プライド」でしょうか。

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2014年6月 1日 (日)

「言葉」を怖がる日本人

ある講演会で、自主憲法制定についての話が出ました。

戦後70年現行憲法の下に日本は発展してきたのだから今さら自主憲法などとんでもない、という話です。

講演者は、「自主憲法制定は現行憲法の全否定ということです。今の憲法には『主権在民、基本的人権の尊重、平和主義』という立派な三大原則があります。戦後できた憲法を破棄するということは東京裁判まで否定するということになってしまいますよ。歴史修正主義ですよ。保守政治家の中でも極右以外自主憲法を言う人はいません。」と言います。

ちょっと待ってくださいよ。

自主憲法制定ってそういうことじゃないと思うんですけど。

そもそも「憲法改正」と「自主憲法制定」との違いは何か。

「憲法改正」は、その時々の事情に応じて条項を書き換える、という部分変更で、「自主憲法制定」は、その名のとおり自分たちの手で自分たちのものを作るということですね。

自主憲法制定の考えの背景には「今の憲法は占領軍の思惑の下にできたものなので、日本人自身の手で国民の憲法を作りたい」という願いがあります。

それはもっともなことだと私は思いますが、「自主憲法制定とは現憲法の全否定である」などと説明されると、「えっ、平和憲法を否定するの? 国民主権じゃなくなるの?」、「あー、だめだめ、そんな恐ろしいことはしてはだめ」と人は思ってしまうのではないでしょうか。

自主憲法を作っても現行憲法とそんなに中身が変わるわけがないですよね。憲法ってそんなものじゃないですか。

平和を追求するし、人権は守るし、主権は国民にあるし、近代民主主義国家においては、まあだいたい、どこの国も同じような憲法を定めているでしょう。そんな突拍子もない恐ろしい憲法なんてあり得ません。

自主憲法制定すると東京裁判を否定することになる、ってその理屈がわかりません。

そりゃあ、世の中には「東京裁判をやり直して屈辱を晴らさねばどうにも腹の虫が治まらぬ」というかたがたがいらっしゃるのでしょうが、そんな過激な思想に与する必要がどこにあるのでしょうか。

東京裁判はたしかに不当で不愉快な裁判だけれども、今さらそこまで戻ってどうするの。その不当性については知識として持っていればいいことだと思います。

「街で見かけるスピーカーのついた黒い車(右翼街宣車)のボディに『自主憲法制定』って書いてありますね。もうあれは(特殊な)固有名詞になっています。」と講演者は言って拒否感を表明するのですが、それはもうその「言葉」を嫌がってるというだけのことじゃないんでしょうか。「ああいう怖い人たち」が使う危険な言葉だからと。

≪自民党憲法改正草案 Q&A≫より: 

「現行憲法は、連合国軍の占領下において、同司令部が指示した草案を基に、その了解の範囲において制定されたものです。日本国の主権が制限された中で制定された憲法には、国民の自由な意思が反映されていないと考えます。そして、実際の規定においても、自衛権の否定ともとられかねない9条の規定など、多くの問題を有しています」


「憲法改正草案」となっていますが、これは自主憲法制定草案と同じことじゃないでしょうか? 

それとも無知な私が何か勘違いをしているのでしょうか? どなたか教えてくださいませ。

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