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2015年2月18日 (水)

地球に棲む日々

曽野綾子さんの例の記事に対する内田樹さんの批判が凄いです。→http://blogos.com/article/105880/

「曾野綾子の知性が不調なのは・・・・・、このように低調な知性の持ち主に・・・・・、個人の頭の悪いのは処罰ではなく教化の対象である。」

気に食わない人間が失言をしたので嬉々として飛びついた、という感じでしょうか。

ですから、南アのアパルトヘイトの実態を知っている曽野さんがそれを奨励するはずがないでしょ、というだけのことなのに、何を煽っているんでしょうね。ちゃんと全文読んだのでしょうか。

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昨日のTBSラジオデイキャッチで国際政治評論家の小西克哉さんが次のようなことを言っていました。

「曽野さんの文章全部読みました。たしかにアパルトヘイトを肯定するものでもないし、(日本人が読めば)そんなにひどいことを言っているとも思えない。しかし、本人は意図していないと言うが、それこそが差別なんです。住居を別々にするのがアパルトヘイトの根本思想であり、リベラルな国際世論ではこれは差別なんです。」

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うーん、国際世論ですか・・・・。国際世論とか国際常識ってつまり欧米の価値観主導で決められたものですよね。

前記事のコメント欄にも書いたのですが、欧米の差別意識を日本人の感覚で理解するのはちょっと難しいのではないかと思います。

日本人が異民族や異人種に感じるのは、主に「違和感」(つまり自分たちとは違う)でしかなく、ある意味人間として自然な感情です。
白人が有色人種に対して抱いてきたのは、蔑みや見下しだったと言っていいのではないでしょうか。

もちろん、両者ともそうでない人たちだって存在します。しかし白人による差別の長い歴史があったのは事実です。

これが彼らの心の深層にあり、だからこそ、「差別」に対する強い戒めを定めざるを得ないのだと思います。

国際社会の標準は、従うべきもののほうが多いでしょう。国際社会の秩序維持は重要です。

しかし、日本人が日本人の常識をもって自分たちで律することのできる分野にまで「国際常識に従え」とは、おかしいのではないでしょうか。

イスラム世界が国際常識とかけ離れているからといって誰もそんなこと要求しないでしょう。

今の時代、われわれは欧米標準とやらとそれ以外の民族の精神性との摩擦の中で生きています。争いに発展しないようなんとか調整するしかありません。

曽野さんの文章は日本人が読んで違和感を感じないものであったのに、特定思想の持ち主たちがわざわざ大騒ぎして海外に拡散しただけのことです。
それは「ぜひとも欧米基準のとおりにしなければならない」と焦る日本人の卑屈さの表れでもあります。しっかりしなはれ。

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コメント

1990年代後半の数年間、ニューヨーク、ブルックリンの貧しい地区に住んでいました。

当時、ジュリアーニ市長が、警官の数を増やして街の治安が良くなりつつあったものの、同じアパートに麻薬の売人がいて警察が踏み込んだり、1階の部屋で女の子が強姦されたりと、夜もおちおち寝ていられないような日々でした。
なんとか住みよい地域にしたい、と思ってゴミの出し方のチラシを配って注意を喚起したり、昼間たむろしている近所の子供に学校に行くように勧めたりする住民と、ゴミや落書きや割れ窓など気にもならない住民が混在していました。

小さなキッチンの付いた部屋でしたが、匂いがアパート中に充満するので、料理臭も出せない為、私は近所のデリで簡単な惣菜を買って済ませていました。

日本に戻った時には、ホッとして焼魚やニンニク料理を作ったものです。
世界各地のチャイナタウンもコリアタウンもそういう欲求から広がったのかもしれませんね。勿論、言葉や情報の為にかたまって住むことから始まったのでしょうが。

自主的に自分が住み易い居住区を選ぶのならば、
差別にはあたらないと思いますが。

投稿: Kai | 2015年2月22日 (日) 13時58分

★Kaiさん

>ニューヨーク、ブルックリンの貧しい地区に住んでいました<

そうでしたか。「割れ窓理論」によって改善されたと聞きました。貴重な体験をなさいましたね。

日本が期間限定の労働移民を受け入れるのであれば、移民用住宅を用意することになるのでしょうか。
その時、同じ文化を持つ者同士が同じ棟に住んでもらう、ということが可能であればそうしたらいいと思います。

移民を受け入れている国々が、現に難問に直面して悩んでいるのだから、どうしたらいいか色々な案を出すのは当然のことと思います。

「差別だ!」とただただ糾弾するのでなく、より良い共存の仕方を模索する現実的な議論をするべきですよね。

投稿: robita | 2015年2月22日 (日) 22時34分

曽野さんの書きたかったことが、あらぬ方向に拡大解釈されてしまったのでしょうね。こうなることも含めて要配慮すべきところを、勇み足にされてしまったのでしょうか。内田さんは文章の手練れだから、原稿依頼にハイハイと応じて、サクサクと売上伸ばしているって感じですね。笑

投稿: 案山子 | 2015年2月26日 (木) 12時40分

★案山子さん

>曽野さんの書きたかったことが、あらぬ方向に拡大解釈されてしまったのでしょうね<

はい、そう思います。
人種や民族の問題は難しいこととは思いますが、より良い方向を模索しなければならないわけで、ヒステリックに否定するだけでは何の解決にもなりませんね。
内田氏はなかなかうまいことを言う、というのでファンも多かったようですが、近頃なんだか先鋭的というのか、穏やかさがなくなってきたと思います。年をとると怖いものがなくなるのか、結構激烈になる人もいるんですね。
ハイハイ・サクサクと書いたのかもしれませんが、同時に思いつめた感じが伝わるような文章だなと思いました。

投稿: robita | 2015年2月26日 (木) 14時30分

今晩は。ご無沙汰しております。

私は内田樹の書を見たことがありませんが、ネットで内田が「特定思想」人なのを知りました。曾野氏の発言は確かに語弊がありますが、「教化」は酷すぎる。相手は未成年の学生でもないのに。「教化」とは「洗脳」の別表現でしょう。

その内田を痛快に斬った東大准教授がいて、発言を取り上げたブログがあります。
「こういうものを「思想」と呼んでいるうちは、日本のメディアは3流以下。「思想」というものを勉強している人間として、本当に許せない思いだ…」
http://blog.goo.ne.jp/askys/e/887953f2f5c6f574028f7797db397c70?fm=entry_related

この准教授・池内恵氏は気鋭の若きイスラム学者で、『世界』『朝日新聞』から締め出されている人物です。あと、2009年1月20日付の貴女の記事「根深汁」を先日拙ブログに引用させて頂きました。事後報告で申し訳ありません。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/ea4a1059780bceb1646d7a6416668093

投稿: mugi | 2015年3月 1日 (日) 14時17分

★mugiさん

お久しぶりです。
いつも論理的で落ち着いた文章を書かれる池内さんのあんな論調に笑ってしまいました。
ずいぶん前まだ朝日新聞をとっていた時、初めて池内さんの文章を読んで共感しました。購読数拡大のために朝日も右派の論説を載せているのだと聞きました。
やっぱり都合が悪いんでしょうか、現在は締め出されているのですね。
私の拙い文章を引用してくださってありがとうございました。
mugiさんの記事読ませていただきました。中東のことはやはり難しいですね。mugiさんの豊富な知識や分析には本当に感服いたします。
私など、いつもそうですが、素人は素人なりの思いつきのような文章しか書けません。それでも頭にインプットされた異なる分野の事柄をつなぎ合わせて考えをまとめるのは楽しい作業です。

投稿: robita | 2015年3月 2日 (月) 10時32分

ながーく「朝日」に育てられたクチの案山子です。苦笑
記事がつまらなくなって、数年前に購読やめました。たぶん池内恵氏が若くして何かの賞を受賞した話題も、朝日で読んだと思います。ドイツ文学者の父上のコラムなどもあったりして、朝日で読んでいます。右派とか締め出されている、とか、という書き方って、挑発的に見えちゃうけどな~。
ちょっとはイスラムを知らなくっちゃ、と池内恵さんの本を2週間ほど前に電子書籍で購入して、読み始めたけれど、イスラムの成り立ちから延々と、で、マニアックに極めるつもりもないし、中断しています。右派とか言われているなんて、へぇ~、? です。
私事ですが、これからの季節、卒業式、入学式が目白押し、なんです。「朝日」育ちなので、自分の子供の式の時は、一度も君が代の歌を歌わないで通し、各学校の挙行の仕方に神経質にもなっていたのですが、そんなに頑なになる必要もないか、という心情になっています。「なんだったのだろう、あれは」と自分に問うています。年月が私をそうさせた、のでしょうか。
きっと、私と似たり寄ったりタイプも、少しはいるんじゃないかしら。

投稿: 案山子 | 2015年3月 2日 (月) 12時38分

★案山子さん

>締め出されている、とか、という書き方って、挑発的に見えちゃうけどな~。<

mugiさんの文章を受けただけなので  「掲載されなくなった」としましょうか。

>右派とか言われているなんて、へぇ~、? です。<

そうですよね。
朝日から見ると、ですかね。まあ「真っ当」とか「中立」でもいいんじゃないでしょうか。
とにかく日本では長らく、朝日に異を唱えると「右派」とか言われてきましたからね。何とも呼びようがないといいますか・・・。池内さんは親米保守とされていたこともあったような気がします。

子供たちの通った学校ではすべて君が代斉唱がありまして、最初の頃は周りのお母さんたちも起立だけで歌ってなかったようで、私も確固たる信念などなかったものの「歌っちゃいけないもの」という感覚を持っていましたよ。
まったく何だったんでしょうね

投稿: robita | 2015年3月 2日 (月) 13時23分

なんだか、きっぱり表現が、私とは日本語の使い方が違うタイプみたいですね~。笑


「最初の頃は周りのお母さんたちも起立だけで歌ってなかったようで、私も確固たる信念などなかったものの「歌っちゃいけないもの」という感覚を持っていましたよ。」
      ↑
えっ!そういう雰囲気だったのですか。
なんだか、きっと時代は同じでも世界が違うって感じです。
私は、「君が代を歌いたくない」ということを、周りと話題にしたことはありません。母として列席した時も。だから、ひとり、ひっそり口を閉じていて、周りにも同類いないかしら、と少しだけ、キョロキョロしていました。長女の高校卒業式の時、起立の号令で立たない生徒が何人かいて、「ああ、ご家庭でも、この件の話題で話し合っての意思表示なのだろうと」見守る思いでした。二女の卒業式では、開会の辞の前に君が代のメロディーがサラッと流れて、式の中ではありませんでした。職員会議でいろいろ議論された結果なんだろうと、想像したりしていました。
社会人1年目で、この問題を意識するようになって長らく、私的には懸案事項でした。夫とは話題にしましたが、私の周りからは一度も、何にも聞こえてこず、、、です。私の交際範囲がアンチリベラル気味だったのかしら(苦笑)。
だからrobitaさんが、「歌わないのが大勢」という認識とは、長い間対極にあった、というわけです。

多分同世代同士で、同じ日本語を使ってやり取りしていても、基盤となる認識って、違っているものなのですね~。

長くなってしまいました。
ほんと、ひとりでながくこだわっていたのです。
声が出るかどうかわかりませんが、5日は卒業式列席です。苦笑

投稿: 案山子 | 2015年3月 3日 (火) 07時50分

★案山子さん

>「歌わないのが大勢」<

そういうことではなく、国旗も国歌も触れてはいけないものという雰囲気がなんとなく社会に蔓延し、君が代も堂々と歌いにくかった、という意味です。

>私は、「君が代を歌いたくない」ということを、周りと話題にしたことはありません<

「君が代を歌いたくない」とか「歌いたい」とか話題にできない社会の雰囲気でした。

けれども、前にも書いた覚えがあるのですが、14・5年前だったか、子供の学校の役員をやっていた時、広報誌を作る作業などしながらあれこれお喋りをするわけですが、「君が代、なんで歌っちゃいけないの? いいじゃない、ねえ?」と恐る々の感じで言った人がいて、それに続いてみんなで「私もそう思う」と頷き合いました。
つまり、歌いづらい雰囲気は、少なくとも私の周りでは、その頃まではあった、ということです。
なぜ君が代日の丸を恥じる雰囲気が生まれたのか、それは教育現場から始まったのではありませんか。
国歌国旗法が制定されてからも、抵抗する日教組の教師たちが式典で揉めたり、裁判沙汰になったりしてましたね。

参考までに:「国歌を歌いたくない若い人たち」    「君が代が嫌い」

      

投稿: robita | 2015年3月 3日 (火) 22時54分

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