戦時中の庶民の暮らし
戦前・戦中の人々の生活について、ネガティブなことはよく見聞きします。
「見聞きする」といっても、それは実際に戦争を経験していない人々のまた聞きがほとんどで、今となっては実際の体験者の証言を聴くことはあまりなくなってしまいました。
私の亡父母は戦前戦中を大人として生きていましたが、詳しく聞きたいと思ってももういません。
なぜもっといろいろ聞いておかなかったのだろうと思うこともありますが、世に伝播されていることに疑問を持ち始めたのが遅すぎたのです。
祖父や祖母はほとんど戦争中の話をしなかった、という若い人の声を聞くこともよくあります。
下の世代からのアプローチがなかったというだけでなく、体験者も「もう終わったことだから」と割り切ったからかどうか、「戦争は悲惨だからいけない」ということは積極的に主張しても、当時の国民生活の実態や隣近所とのつきあい等を通して自分が何を思っていたかなど、具体的なことはほとんど語られていないのではないかと思います。
母の戦時体験の話を断片的に思い出すのですが、こういうのがありました:
「防火訓練めんどくさいからねえ、家のことで忙しいしお母さん行かんかったことがようあったんよ。隣組の班長が『○○さん、参加してください』ゆうてよう言いに来た。うるさかったわ」と笑いながら言うのですが、聞いてる方も笑ってしまうようなのんびりした印象でした。
地域の決まりごとをサボる適当な母と、責任者として地域活動を周知させようとする律義な班長さん、それは、地域清掃に参加しない不真面目な人や「○○さんいつも来ないわね」と困惑する真面目な人がいる今の世の中とあまり変わらないような気もします。
よくドラマなどで見る、国防婦人会のたすきをかけた怖いおばさん連中が押しかけてきて「非国民!」などと罵るなんてこと本当にあったのかなあ、なんて思います。気心の知れた近所同士の仲でそんな風に豹変するなんてちょっと不自然ではないでしょうか。
東京大学名誉教授平川祐弘氏は「日本人に生まれて、まあ良かった」(新潮新書)に、「私は戦争中も一生懸命英語を勉強しました。戦後に流布された、戦時中の日本は英語を排斥し英語教育をないがしろにしたという話は必ずしも真実ではありません。日本では戦争末期の1944年にも『研究社新英和大辞典』は2万8千部刊行されており、私はその一部を求めました。先生方も一生懸命教えてくれました。」と書いています。
これはエリート校だけのことであったかもしれないし、普通の学校ではそもそも勤労動員で授業どころではなかったのかもしれませんが。
ずっと前、コラムニストの故天野祐吉氏が言っていたのですが、「戦争中といったって市民の生活感覚なんて普段とそんなに変わらなかったよ。子供たちなんか『贅沢は敵だ』のスローガンの張り紙に『素』の一字を書き加えて『素敵』にするイタズラなんかやって面白がってたしね」
ほんとうに隣近所同士監視し合い、締め付けの厳しい社会だったのか。みんなが「戦争」という熱に浮かされ、一億総火の玉と化して人間的な感覚を失っていたのか。
物不足で不自由だったでしょうし、戦死の悲報が頻繁に届く毎日で、たしかに辛い時代ではあったけれど、人としての感覚がそれほど平時とかけ離れていたとは思えません。
戦後日本が豊かになるにつれ、「あの頃はひどかった」という記憶が知らず知らず増幅していったものか。
あるいは戦時中、日本人はみんな狂信的だった、ということにしておきたい誰かがことさら大げさに広めたものか。
前記事で引用した内田樹氏の記事の中には、
≪戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回った≫、
≪時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだった≫、
≪それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。≫、等々といった描写がこれでもかというぐらい並べられており、驚くべきしつこさです。
戦後生まれの内田氏がまるでリアルタイムで目撃したかのように「みんな狂っていた」と決めつけるのは、ちょっと無責任ではないでしょうか。
日本人が魔法にかけられてボーっとしていたのは、戦時中ではなく、むしろ戦後の占領政策と左翼勢力による70年という思い込みの期間ではないかと私には思えます。
存命の戦争体験者にもさまざまな意見はあるでしょうが、できるだけ多くの証言を聞いておきたいものです。
戦後風潮の影響を受けていない人となると、少なくとも90歳以上ということになりましょうか。証言を得るのはなかなか難しそうですね。
関西に住む叔母二人、80代ですが、今度訪ねて一応聞いてみましょうかね。
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コメント
そうですね、私の明治生まれの両親も戦争を語りませんでした。母が後に、竹やりで突く訓練に参加しながら「竹で突いて勝つわけない」と、内心思いながら参加したそうですし、
父は後に、片手で缶詰めをブシュッ!と開ける進駐軍をみて、日本が負けるわけだと思ったそうです。
体験者は、あまりにも悲惨すぎて語りたくないだと思います。
投稿: fuuraiです | 2015年6月 1日 (月) 14時27分
★fuuraiさん
アメリカ人の使う便利な道具等を見て「かなわなかったはずだ」と言う話はよく聞きますね。
日本の技術力は優れていたし兵士の質も良かったけれど物量の差が大き過ぎたということでしょうか。
戦前戦中について戦後書かれたものには嘘が多いと聞いたことがありますが、そう言われてみれば「本当かなあ?」と疑問に思うことがあるもので、実態を知りたいと思いました。
もうずいぶん前に亡くなりましたが文筆家の山本夏彦が「戦後の作り話」についてよく書いていたように思います。
このままでは作られた話(もちろん本当のこともあるでしょうが)が定着してしまいますね。
投稿: robita | 2015年6月 1日 (月) 22時38分
私の叔母は戦時中、赤ん坊がいたので防火訓練など遅刻したり、サボったりしていたようです。
口うるさい人はいたようですが、叔母は特に反抗的とかではなくただの懲りないタイプで。
今、働いている老人介護施設で比較的しっかりした老人が時々戦時中の話をすることもあります。結構、あー、そうなんだ、というようなことは聞けますよ。
昨日のご飯は忘れていても、70年前のことは、よく覚えている方もいます。
戦後生まれの内田さんの「人づての記憶」より参考になることも。
どちらにしても記憶というのは誠に危ういものですね。
正しく書き留めておく、または、映像に残しておく、のは必要だとは思うけど、最新の技術で、人の発したア、だかオの一音からその人の声で会話を作ることができる、という話を聞いて、証言も証拠も当てにはならない、とつくづく思うのです。
投稿: kai | 2015年6月 2日 (火) 11時08分
こんばんは。
私のは皆さんとは毛色が違った内容、です。
どちらかというと、子供のころから(話が理解できる年ごろから)、何度も繰り返し、母の戦争中の辛かった話を聞いてきました。赤ん坊を姑さんに預けて、生活費を稼ぐために、未経験の力仕事で苦しかった話は耳たこになったほど。母が20代から30代の初めにかけては暗い時代でした。終戦後も父はシベリアに抑留されたために生死も不明の状態で、もし父が帰ってこなかったら、赤ん坊の兄を連れて死のうと思っていたと。
兄と私は9歳違いです。「年齢の開きがあるのは、長く戦争に取られていたから」そう言い聞かされ続けていました。だから、私より、少し年上の人に接すると、言葉には出しませんが、お父さんが戦地に行っていなかったんだ~、とそういう発想をしてしまう子供でした。
だからというわけでもないけれど、それらの関連本はずっと読み続けてきています。中国残留孤児のかたへのボランティアに加わろうと思ったのも、満州の畑で父が生のジャガイモを齧って命をつないだこともあったと聞いたこととも無関係じゃありません。
でもね、見方を変えると、それでも父は帰ってきたし、戦火で家が燃えたわけでもないし、健康に何十年も暮らせたから、良かったほうだ、と、そんな風に思っています。
今年は70周年ですね。10年前の60年の時に銃後の母の暮らしが地方紙に載ったのを思い出しました。父がシベリヤから持ち帰った食器(ツルのついた小さなバケツのようなものと、ひしゃげた匙)をみた記憶もあります。帰国したばかりのころは、味噌汁を出すと、旨いうまいと、煮干しまでぜーんぶ食べてしまった、と語っていました。
投稿: 案山子 | 2015年6月 2日 (火) 20時46分
★kaiさん
>叔母は特に反抗的とかではなくただの懲りないタイプで<
わかります。母も基本的に真面目な人間ですが、よく言えば「柔軟」、悪く言えば「いいかげん」
>今、働いている老人介護施設で比較的しっかりした老人が時々戦時中の話をすることもあります。結構、あー、そうなんだ、というようなことは聞けますよ。<
私の妹も介護の仕事をしているのですが、そういうことがあると言ってました。ただ、仕事中ですからそんなにゆっくり話は聞けないようです。
>最新の技術で、人の発したア、だかオの一音からその人の声で会話を作ることができる<
そうなんですか。悪意さえあれば捏造できるとは、技術の発達は諸刃の剣ですね。
投稿: robita | 2015年6月 2日 (火) 22時11分
★案山子さん
戦時中の生活の苦しさは私も母からいろいろ聞いています。案山子さんのお母様のように何度も繰り返しではありませんけど。お母様はそれだけ苦労が大きかったのだと思います。
kaiさんも私も、戦時中の生活が苦しくなかったと言ってるのでなく、内田樹さんの文章のように日本人が「イデオロギーを振り回して」だとか「他人をどなりつけ、脅し、いたぶった」だとか、皆が皆、目を吊り上げて狂信的になっていたなどという言い方には疑問を感じるということです。そういう人はいたかもしれませんが、私は両親からそんな人に悩まされたという話は聞いていないので。
戦時中の各家庭の状況は、東京や大阪などの大都市、地方の都市、また農村地帯などによって、様子が違ったようですね。
もちろん全体的に苦しい状況だったでしょうが、地域によって差異はあったと思います。
シベリアに抑留された日本兵の胸の痛む悲惨な経験、ずっと前この話しましたね。→ 「長寿万歳」
投稿: robita | 2015年6月 2日 (火) 22時21分