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2015年11月22日 (日)

アイデンティティ

「韓国 従軍慰安婦の書籍執筆の教授を在宅起訴」

「産経抄」

韓国のこういう事情がたびたび報道されて、なんとおかしな国だろうかと私たちは首を傾げたり、ため息をついたり、苦笑したりします。

韓国だけでなく、中国だって、呆れるほどに図々しく、横暴で国際ルールなどおかまいなし、平気で歴史を書き換える、とてもおかしな国ですよね。

しかし、質は違えど、戦勝国から施された洗脳が70年も経ったのにまだ解けない日本という国も相当ヘンなので、人のこと笑えないと思うのですよ。

戦後刷り込まれた自虐史観は、世代を越えて受け継がれています。

洗脳とは恐ろしいもので、目覚める人もいる一方で、若い世代に受け継がれていく思想はさらに先鋭化していくように見えます。と言いますか、日本人の顔をしたどこかしらの外国勢力による洗脳が続けられているのかもしれません。


私たち日本国民は戦後思い込まされてきたことを一度白紙に戻し、思考の整理をしなければなりません。それは「自分たちに都合の良い歴史に書き換える」などということではもちろんありません。

確かにあった「日本人を骨抜きにするための占領政策」に基づく数々の歴史操作や思想教育の矯正をするのは当たり前のことじゃないでしょうか。

自民党が近現代史の学び直しを目的に「歴史を学び未来を考える本部」を設置したというニュースがありましたが、『「アメリカや中国、韓国に警戒感を抱かせるおそれがある」と懸念する声もあることから、意見の取りまとめや提言は行わない方針』なのだそうです。→  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151115/k10010306551000.html

たしかに「真実はこうだった」なんて大々的に発表したら、中国と韓国の反発は凄まじいものになるでしょうし、東京裁判の不当性や原爆投下の犯罪性を公的に発言することもアメリカとの良好な関係を毀損し、国益を損ねます。

ただ、検証結果を教育に反映させてほしいのです。

「誇りのために。名誉のために」などと大上段に構える必要などありません。

事実を淡々と日本の子どもたちに教えてほしい。

日本国民が公平中立な目で見た歴史観を持つことで、他国に謂れなき非難をされてもおどおどせず堂々としていられるのです。

戦勝国から刷り込まれた思想を自分たち自身で克服できれば、つまり、日本人がきちんと自分というものを持てば、誇りはおのずと身につくし、名誉はおのずと回復する、私はそう思います。

国を骨抜き状態のままにしておきたい勢力を「リベラル」などと見当はずれの呼び方をするヘンな国、それが戦後日本です。

人がどんな思想を持つかは自由ですが、誰かに思い込まされたままでいいはずがない、ということには思い至らなければなりません。

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2015年11月13日 (金)

下町ロケット 2

昨年、慰安婦強制連行という捏造に深く関わった朝日新聞が誤報を認めました。

でも世界に流布された汚名は消えませんし、韓国の態度も相変わらずです。

世紀の大不祥事を起こしておきながら朝日新聞という企業が何事もなかったかのように存続しているのも不思議です。

企業vs.住民の説明会や謝罪会見などで、怒りに燃えた住民やマスコミが、平身低頭の責任者たちをつるし上げにしている様子を見ることがよくありますが、朝日新聞にはそういうことはありません。
なぜ、国家をこれほどまでに貶めた企業がきちんと謝らず、何食わぬ顔で事業を続けていられるのでしょうか?

「穏便に穏便に」と人はよく言いますが、不正をやって相変わらずふんぞり返っている相手に毅然と抗議して回答を求めるのは当たり前のことではないでしょうか。

彼らは謝罪も反省もしないどころか、自分たちのせいで国家に着せられた汚名を晴らそうという最低限の努力すらしていません。

例えば製品に重大な瑕疵があり消費者に多大な損害を与えた企業ならどうでしょうか。謝罪や反省、できる限りの補償に努めなければ被害者も世間も許さないですよね。


記事を書いた特定の記者やその家族を脅迫するなどという愚かな行為は決してしてはなりませんが、決着を目指して話し合いを要求するのは当然です。

それは、不正を追及し正義を追求するのがお得意のマスコミ自身がやるべきことだと思うのですが、同業者ではやりにくいのでしょうか。

ならば消費者がその意思を見せる必要があるでしょう。

個人的な損失にはあんなに果敢に抗議するのに、国家の損失には無関心な人が多く、そういう人が今も朝日新聞を取り続けているのかもしれません。

そういう人たちは、歴史検証に真剣に取り組む人々の言動をまるで他人事のように傍観するか、批判したりします。

おかしいですね。自分が国の一員であるという自覚がなく、父祖や子孫がどんな汚名を着せられ続けようともそんなことには興味はないのでしょうか。

間違いを犯した企業はつぶれるまで叩くべきだとは思いません。深く反省し謝罪している者の頭をさらに踏みつけるような被害者の驕りはかえって交渉を困難なものにしてしまうと思います。

朝日新聞が心から反省して生まれ変わり、率先して日本の名誉回復に努めるならば潰す必要などあるでしょうか。それどころか積極的に応援したいと思う人もどんどん増えていくのではないでしょうか。

朝日新聞にはなぜそれができないのか。

絶対に謝るなとか今までのスタンスを守らないと購読をやめるぞとか圧力をかける読者が大勢いるのか、あるいは朝日新聞社自体が日本の新聞ではなく中国や韓国の出先機関なのか、それならばやはり消えてもらうより他ないでしょう。

国にかけられた冤罪を晴らすという当たり前のことができにくい日本人のメンタリティはどこに起因するのでしょうか。

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前記事で紹介したドラマの町工場、佃製作所の社員たちは「佃プライド」という合言葉を胸に結束を固めます。

日本は、「国がプライドなど持つと戦争になる。団結すると戦争になる」などと騒ぐ変な人たちが正義面する変な状況から脱する必要があるんじゃないでしょうか。
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2015年11月11日 (水)

下町ロケット

TBSドラマ「下町ロケット」(原作 池井戸潤)を楽しみに見ています。
優れた技術力を持つ小さな町工場の山あり谷ありの苦労話なのですが、「半沢直樹」や「ルーズヴェルトゲーム」と同じ制作チームによる作品だそうで、プライドをかけて闘う男たちという設定が共通しています。

大企業の理不尽な要求に全社員が団結し、下請けという弱い立場でも卑屈にならず、理を通そうと必死に抗議する勇気ある姿勢に感動する人も多いのではないでしょうか。

ふと思うのですが、会社は一致団結して闘うのに、なぜ国が一致団結してはいけないんでしょうね。

恫喝、内政干渉、日本を貶めるための偽りの歴史の流布、領海領空侵犯、これでもかというほど意地悪をする国が実際に隣にあるわけですが、「国が団結すると戦争になる」と信じている人が多いためなのか日本の態度はあいまいで腰が据わっていません。

個人的にそんなことをされれば憤激するのに、国家のこととなるとまるで他人事になってしまいます。国家への帰属意識が欠落してるんでしょうねえ。

特に南京大虐殺や従軍慰安婦などという作り話に義憤を覚えない人がいるのが不思議でなりません。国家にかけられた冤罪はどうでも良いのでしょうか。

一丸となって闘う態勢を取ったからといって、町工場が理性を欠いた暴走を始めるわけがないのと同様に、日本が他国の狡猾なやり口に怒り、気持ちを一つに団結しても戦争になんかならないと思うのですがどうでしょうか。

どこの国だって、やってもいないことで濡れ衣を着せられ世界中に流布されたら、国中が一つになって抗議の意思を示すと思うのですけどねえ。

日本には、誤解を正そうと努力している真っ当な人をなぜか鼻で笑うような態度を取る人々がいます。あれはいったい何なんですかね。

また、冤罪に熱心な人権派弁護士さんたちがこういうことには無関心なのは何か理由があるのでしょうか?

 <続く>
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2015年11月 8日 (日)

最先端

<前記事より続く>

元アナウンサーの下重暁子氏(79歳)が「家族という病」という恐ろしいタイトルの本を出してベストセラーになっているそうな。

彼女の言い分をテレビで見たことがありますが、幼いころから家族というものに並々ならぬ不信感を抱いていたようです。

父親は感情の起伏が激しく横暴で、ひたすら従属する母は唯一の心のよりどころである娘暁子に過剰な愛を注ぎます。

下重さんは家族という重荷に耐えきれず、高校生から家を出て独り立ちし、アナウンサーという職を得ます。

彼女は結婚しましたが、子供は儲けず、ご主人とは別居で別々に生計を立てています。気が向いた時に会う程度のつき合いで、「夫だなんて思ったことない」そうです。

家族ほどしんどいものはない、家族を盲信する日本人、人聞きの良い家族が良い家族だと思われている、等々、下重さんの徹底した家族否定の語録が並べられていました。

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そしてもう一つ、一か月ほど前、NHK土曜ドラマ
「2030 かなたの家族」というのがありました。キャプションに「最新の近未来予測や取材をもとに、ある家族の15年後を描く物語」とあります。

50代夫婦、20代長男長女、祖父母の6人家族。

妻の単身赴任がきっかけで夫婦は離婚し、子供たちもそれぞれ独立したが、みんなで暮らしたニュータウンの一戸建に、一年に一度は家族が集まって一緒に食事をするという習慣を続けている。

シンガポール赴任が決まった長女の提案で、恒例の会食に終止符を打って家族解散ということになった。

祖父母は安全で快適な高齢者居住区「シティ」に住み、その事業立ち上げに関わった妻はそこで責任者として働く。

長男は35歳以下限定のシェアハウスに住みながら家庭用ロボットの開発とメンテナンスの仕事をしている。

家族が暮らした一戸建てには、「我が家」に執着する夫が一人で住み、再び町に活気を取り戻そうと、さびれたニュータウンの管理事務所で今も働く。

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物語の展開を書いていると長くなりますが、示唆に富んだなかなか面白いドラマでした。

大きなミスをしてシンガポールの会社を辞め、離婚も経験した傷心の長女はふと子供のころ暮らした町に戻り、家族ではない気の合う仲間たちとコミュニティを形成して自己満足に浸るも、結局裏切られて一人ぼっちになり、「家族」という土台の存在に気づくのです。

誰かに振り回される人生は嫌だ、一人で自由に生きたいと、そう願う一方で、人はやはり誰かと一緒にいたい。

個の自由を得た時代には、家族以外の理想的な仲間たちとならうまくやっていけると信じてしまうのでしょうか。

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どこの家庭でも大なり小なりトラブルはあるものです。誰も理想を夢見て家族を盲信しているわけではない。

面倒くさく、しんどい思いをしても、それを補って余りある価値を見出すから人は家族を作ろうとするのでしょう。

血縁で繋がっているからこそ憎しみが倍増することもあるでしょう。それをなんとか調整して一つの形を保とうとするその葛藤にこそ意味があるのだと、それは昔から言われてきたことじゃなかったでしょうかねえ。

家族はトラブルの元だからそんなものはいらない、と徹底した個人主義を貫く下重暁子さんの意志力には感心しますが、自分の家族の過酷な事情をもって一般論とする強弁には同意できません。

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「自分のためだけじゃない人生っていいなあ、って。 一人でいるとだいたいの問題を避けて生きられるじゃない? でも子供を産んだらどうしても避けられないことってあると思う。そういう苦労を一つ一つ乗り越えていきたい。」

ドラマの中で長男のシェアハウスメイトの女性が言った台詞、こんな言葉でもわざわざ絞り出して自分を納得させないと人は子供を産まない時代になっちゃったんだなあ、としみじみ思いました。

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家族というのは、時代遅れの概念ではなく、子孫繁栄と幸福のための最も有効な手段として人類がついにたどりついた最新のシステムじゃないでしょうか。

これより新しいものを想像すると何だかゾッとします。

 <おしまい>


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2015年11月 6日 (金)

子供の底力育成

<前記事より続く>

お金がかかるから子供は一人だけとか、共働きでなければ生活できない、という夫婦が多い。

事実、塾や習い事、大学まで行かせるとなると大変な額になるし、大卒でなければ就職にも苦労する。

周囲が当たり前のようにやっていることを自分たちだけやらないのも不安だろうし、子供にしたってみんなが塾に行っているのに自分だけ行かなければ放課後一人でゲームでもするしかないだろう。

だから子供にお金をかけるのをやめられず、そうやってお金をかけた子供のほうがお金をかけない子供よりは幸せを得る確率が高いということになっている。

昔のように、勉強好きの者、頭の良い者だけが大学まで行く時代ではないから、仕方がない。

ただ、今年のノーベル賞受賞者である大村智氏が農家の生まれで子供の頃から農業を手伝っていたとか、梶田隆章氏は本ばかり読んでいたとか、そういった子供時代の過ごし方など知ると、そのほうが優れた頭脳を育成するんじゃないかと思ったりする。

公立中学出身のお二人は小学生の受験塾に通うことなどなかったろう。

大村さんも梶田さんも元々の地頭が良いから塾なんか行かなくても立派な研究者になったのだとは思うが、普通の子でも、塾に通って受験術など一所懸命覚えるより、農業を手伝ったり本を読んだりする方がよほど広く深く人間力がつくのではないか。お金もかからないし。

現代がこうなっているのはそれなりの理由と流れがあるのだから、昔が良かったからとあれもこれも元に戻すことはできないが、せめて子供が育つ環境だけでももう少し何とかできないかと思う。

しかし、子供を日常的に自然に親しませるのは都市部ではかなり難しい。
最新携帯機器によるSNSやらゲームやらも立ちはだかる。

山里で現代人離れした生活でも覚悟しなければそういったものから逃れることはできないだろう。

何しろ森の中にいても子供はスマホの中身の展開が気になって仕方がないのである。 →「子ども時代」 

問題は携帯機器と同じぐらいの面白い野外活動を、大人が勇気を奮って容認できるかどうかということじゃないかと思う。

自然の中でのワクワクするような冒険には危険がつきものだから、誰しも「責任問題」の前に怖気づいてしまうのだ。

 <続く>

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2015年11月 3日 (火)

家守

<前記事より続く>

専業主婦は戦後のほんの一時期に現れた形態だから日本の伝統でもなんでもない、と言われる。
昔は商家、農家、また家内工業がほとんどであったから、妻も働いていたと。

それは事実だと思うが、その形態に女性の自立という意味はない。
彼女らは「家」に属していたから家業に携わったに過ぎず、婚家を出ても自立して生きていけたというわけではない。

どんな社会形態、家族形態であっても女はいつだって「家」に留まって家事育児を主に担当してきたのではないだろうか。

時代とともに女性も家を離れて「通勤」するようになって共働きも増え、それにつれて女性の社会的労働力の価値も上がる。有能な女性が男性と遜色ない仕事をこなすようになり、地位も上がっていく。子供は誰かに預けざるを得なくなった。

こうして「男社会の解消を目指し」「女性の自立を推進」してきた結果、先進国では子供が生まれにくくなった。

子育て支援政策だとか、夫婦で家事育児を平等に担当するだとか、そういう対策を無理やりひねり出してみても出生率が劇的に増加するわけではない。

子供を3人以上産んだ女性は政府の手厚い支援によって働かなくても生活できるというフランスの例など聞くと、何のこっちゃと思う。
女性の自立とか働く女性が子供を産みやすくするとか言いながら、いったい何を目指しているのかわけがわからなくなっている。

順当に子孫へのバトンタッチが行われなくなった社会は混迷の極みだ。

この際、役割分担はどうか。

キャリアを生かして外でバリバリ働く女性と、家に留まって沢山子供を産む女性と(笑) そして子供がある程度手を離れたら、時間の許す範囲で働きに出るくらいがちょうど良いのではないか。

男性偏重の社会になんかならないから心配はいらない。
専業主婦だろうが職業婦人だろうが、どっちみち家庭では女が主導権を握るのだから。

 <続く>

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