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2018年9月25日 (火)

お婆さんはどこへ行った

雑誌「新潮45」8月号に≪嗚呼、我ら『年齢同一性障害』≫という特集があった。
掲載された映像作家萩原朔美氏(72歳)の論考の書き出しの部分。
≪どうもおかしい。納得できない。
何がと言えば、自分の実年齢と自分の思い込み年齢のズレである。自分が日々実感しイメージしている年齢と実際の年齢とが、おかしなことにかなり離れていて合致しないのである。≫

 

この感覚は非常によくわかる。まさに年齢同一性障害だ。

これは「若く見える」だとか「いつまでも青春」だとか「美魔女志向」みたいなこととは関係がない。

 

萩原氏の論稿には、「店員に勧められた服を、オジサンぽいと拒否してしまったが、考えてみれば年齢的には自分はまぎれもないオジサンだった」とか「20代の女性だって恋の対象になり得る」といったことも書かれているので、外見的な若さ、あるいは性的な若さをも含むものだろうが、私の場合、主に頭の中のことである。

考え方などは若い時と変わっているのは自覚できるのだが、なんというか、「感覚」が30・40歳の頃と同じような気がする。性格が変わっていないということなのだろうか。

 

私が若いころに仰ぎ見ていた70歳の女性といえば、まぎれもなく「お婆さん」で、言葉遣いも物腰も服装もその年齢にふさわしいものを身にまとっていた。

今の老人は少なくとも見た目は若い。

ただし、外見だけ若くても、「ああ、やっぱり年寄りだな」と思える人もまた多い。

 

この特集には、他にAV監督の村西とおる氏やタレントのデヴィ夫人なども寄稿していて、文章を読むとこの人たちは「老けこまずにいつまでも若く生きていきたい派」なのだろうと思うが、いつまでも「男」でありたい「女」でありたい、という執着心がかえって、老人臭を醸し出しているように思える。


京都造形芸術大学客員教授の榎本了壱氏と作家の山口文憲氏は、人間の寿命の延びや社会の変化などから論じていて納得のいくものだ。

榎本氏が「老成の文化の忌避と若年信奉の合併症の現在」と指摘する通り、今の時代、加齢恐怖症とでも言ったらいいだろうか、若さを保つことに執着する人が目立つ。それはまるで病のようだ。外見ばかり取り繕っても醜悪に見えるだけのような気がするが。

70過ぎても若い女性を演ずる吉永小百合を「怪物」と否定的なニュアンスで評した文章を以前二つも読んだ。

そういえば、女優樹木希林が亡くなった時「お婆さん役をやる女優がいない」と誰かがテレビで言っていた。

昔は、美人女優でも加齢とともにお婆さんの役に移行していたものだが、今は美人女優はいつまでも美人女優でなければならない。

お爺さんらしいお爺さん、お婆さんらしいお婆さんになるのは90歳を過ぎなければならないのだろうか。

その頃には痴呆が始まる人も多くなってくるだろうから、ちゃんとした意識のあるうちにちゃんとした「老人」としてふるまえる時間はほとんどないだろう。

老成の文化は廃れていくのだろう。

ただ、頭の中が年を取らなければ、おのずと服装や立ち居振る舞いも若くなってしまうのかもしれない。

私も70にもなって若作りはみっともないと思うものの、冒頭の萩原氏のように服を買う時は「こんなオバサンぽいのはいやだ」とか思ってしまうものなあ。お婆さんのくせに。

白髪染めをするつもりはないけどね。

 

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