かたじけなさに涙こぼるる
世の中には、論理的な根拠を示せるわけではないが感覚的にすんなり受け入れられる、といったことがあります。
天皇や元号などは、庶民にはその由来や存在意義についてはよくわからないけれど、なくすのはもったいない、あってほしい、そのようなものです。
天皇や元号を日本国民が大切に思う気持ちにそもそも理屈はなく「説明できないけれど守っていきたい」といったものであろうと思います。
それでも、風雪に耐えて継承されてきた伝統文化の意義が、専門家によって分析され、説明されると、それはそれで「なるほど」などと感心するものです。
例えば先日の産経新聞「正論」で読んだ長谷川三千子埼玉大学名誉教授の元号に関する意見。→ https://special.sankei.com/f/seiron/article/20190424/0001.html
それは朝日新聞社説の問いかけを紹介するところから始まります。
≪でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。『平成』といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。そもそも時とはいったい何なのか≫
朝日のことだから、「時というものは世界中の誰にとっても平等に流れているものなのに、日本が勝手に区切った元号の変わり目に何をそんなに騒いでいるのだ」といったニュアンスで書かれているのかな。読んでないから知らないけど。
長谷川先生によると、キリスト教では神が「時」を創造し、その始まりも終わりも支配しているのに対し、日本の神話では、「時」は神によって創造されたものではなく、次々と登場する神々が、既に流れている「時」の生成力そのものを体現してゆく有様が感じられるというのです。
≪つまりこのように、毎年新しい年がめぐり来るたびに、われわれは『古事記』の昔からの〈時の体験のかたち〉を、国を挙げて生き生きと再現しているわけなのです。毎年のお正月、かくも多くの人々が神社にお参りし、皇居の一般参賀に訪れるのも、偶然のことではありません。
表立って意識してはいなくともわれわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。そしてそのことがあればこそ、元号という時の区切りが意味を持ち、改元ということに意義があるのです。
改元の日、われわれは元旦と同様、ただ晴れ晴れと「おめでとうございます」と言えばよい。それこそがわれわれの「時とは何か」への答えなのです。≫
西行が伊勢神宮を参拝した時に感動して詠んだ歌:
「何事のおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」
「何事のおはしますかは知らねども」というのは「そこにいらっしゃるどなたかは目には見えないけれども」という意味だそうです。
「そこになにがあるのか、どんな意味があるのかわからないけれども、なんだかとてもありがたい」と読みたくなる平成最後の夜。
天皇陛下さま ありがとうございました。
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コメント
その通りですねえ。
>われわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。そしてそのことがあればこそ、元号という時の区切りが意味を持ち、改元ということに意義があるのです。
素晴らしいお説を教えて頂きありがとうございました。
投稿: さなえ | 2019年5月 1日 (水) 11時13分
いつも楽しみに興味深く見させていただいております。
「かたじけなさに涙こぼるる」・・・いいですね~。
西行のこの歌、以前どこかで読んで書き留めていたような・・・と思い出し、
気になったことを書き留めている覚え書きノートをめくってみると、
向田邦子さんの「眠る盃」に書かれていたものでした。
そのメモによると
・・・旅の途中、お伊勢参りをした西行は、その神々しさに胸を打たれ歌を詠んだ・・・とあります。
そして、
・・・目には見えないけれど誰かや何かがいつもそばで見守っていてくれる、そう感じられるだけで涙がこぼれるほどありがたい・・・と。
私は、伊勢神宮の神々しい佇まいはこういうことなのかと
感動したことを覚えています。
そして、平成の最後の日にrobitaさんのこの記事を読んで、
ハタと気付いたことがあります。
私は未だ天皇陛下にお目にかかったことがなく、
皇居勤労奉仕や地方へのお出まし時に
「天皇陛下にお目にかかると自然と涙がこぼれた」と言っておられる人たちをテレビやネットで見ても
それがどんな感覚なのかよくわからなかったのですが、
robitaさんの記事を読んで「これなのか!」と思ったのです。
私たち国民のために祈ってくださる天皇陛下のご存在こそが、
私たちにとって「かたじけなさに涙こぼるる」なのですね。
そのお姿を目の前にして、その気持ちがあふれ出るということなのだと私なりに納得したのでした。
気付かせてくださったrobitaさんに感謝です。
投稿: 花水木 | 2019年5月 1日 (水) 15時59分
★さなえさん
元号は中国から伝わったものですが、今や日本独特のものになってしまいましたね。
日本がこの文化をしっかり残していることを誇らしく思いますし、うまく言えないけど、元号は時代に風情を与えるものだなあと思います。
中村草田男の「降る雪や 明治は遠くなりにけり」という句なんて、なんかしみじみとしますよねえ。
投稿: robita | 2019年5月 1日 (水) 22時33分
★花水木さん
神社の境内に入ると何か他の宗教施設とは全く違う厳かさを感じるのですが、日本人独特の感覚なんでしょうかね。
天皇陛下のお姿を目にするとありがたくて涙がこぼれてしまう、というのはまるで神様のような存在ですね。
でもこちらから拝んで何かをお願いしたりひれ伏したりというのでなく、天皇陛下のほうが祭祀の長として日本国民のために祈ってくださる存在なんですね。
それがありがたくて国民は天皇を敬愛し相乗的にとても良い関係を結んでいるのだと思います。
日本人が特定の宗教に囚われず、キリスト教や仏教の慣習や行事を自然に取り入れる大らかさを持っているのは、古代から受け継いだ神道精神によるものかもしれません。
投稿: robita | 2019年5月 1日 (水) 22時41分
この記事に触れましたので御紹介しようとしたのですが、なんとトラックバック機能の提供が終了していました。ドンドン下降線を辿るライブドアです。↓で御紹介していますので、よろしかったらご笑覧下さい。http://blog.livedoor.jp/ganbare_watashi/archives/52074535.html#comments
投稿: さなえ | 2019年5月11日 (土) 12時48分
★さなえさん
トラックバック機能はココログでももう終了です。
そういえばもう長いこと使っていませんでした。
ブログ記事拝読しました。紹介いただきありがとうございます。
上皇陛下が天皇に即位された時、昭和天皇の存在が印象に残り過ぎて、違和感とか頼りないとか、どういう言葉だったか忘れたけどそのようなことが言われていたのを覚えています。
あのころ朝日新聞とっていたので、その不敬な論調はもしかしたら皇室にあまり敬意を持っていない朝日新聞だったかもしれません。朝日は皇室の方々に敬語使ってませんでしたから、そのような書き方をしても不思議はありません。
でもこの30年間で両陛下のご努力は朝日新聞さえも変えてしまったように思えます。
西行のあの句は、日本人にとって、ああ、それなんだ、と胸にストンと落ちる表現ですね。
投稿: robita | 2019年5月11日 (土) 22時06分