「差別」考
LGBT理解増進法案をめぐって自民党内で意見がまとまらず、今国会での法案提出を見送った、とのニュースがありました。
この法案に「差別は許されない」という文言を書き込むことを既に与野党間で合意していましたが、自民党の特命委員会で反対の声が出たため紛糾したということです。
これを受けて「差別禁止に反対するなんて、自民党は差別を温存したいのか」という批判が出ています。
「差別禁止条項」に反対している人たちの言い分は、「差別禁止」を明確に謳うと訴訟が頻繁に起こって混乱するのではないか、というものらしいです。
訴訟が頻繁に起こるかどうかはわからないけれど、こういうことって法律で禁止することの弊害の方が大きいような気が、私はします。
ツイッターで次のような趣旨の投稿を見ました。
「外国に比べて日本人は差別しない方だと思う。こんな規定わざわざ加える必要あるのか。今まで通りじゃいけないの? 自分はこれまでLGBTの人とも普通につき合ってきた。こういう法律ができると、どういうことが差別になるのか判断が難しくなり、腫れ物に触るように接するようになるのではないか」
同感です。
日本は差別が少ないと私は常々思っています。→「差別断固反対!」
一部のふとどき者を抑えるためにそんな「差別禁止条項」が必要でしょうか。
人間関係は委縮し、息苦しくなり、かえってギスギスした世の中になるんじゃないかと思うのですが。
日本にもそりゃあ色々な人がいます。
マイノリティを差別して蔑む人、決して差別せず必要以上に気を使って優しく接しようと努力する人、からかったりしながらもおおらかな態度で仲良く付き合う人・・・等々、そういう人たちが混在するのが人間社会というものではないの?
「からかう」という言葉に引っかかる人もいるかもしれないけれど、別にLGBTでなくても、親しい仲でからかい合うのはよくあることです。そこには「気にしない」も「嫌だ」も人それぞれあるでしょうが、度が過ぎなければ容認の範囲内ではないでしょうか。
そういうことがすべて禁止され、たとえ心の中で何を思っていようが、きれいな言葉、優しい言葉だけで覆われた社会ってどうなんでしょう。
法律で縛るのじゃなくてそれぞれの常識や道徳心に任せたほうが良いような気がします。
LGBTの人は特別扱いして配慮してあげるべきだと言うなら、それこそ差別的感覚じゃないのかなあと思います。
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コメント
同意です。
言葉にすると、というか言葉が出来ると差別が先鋭化してくるように思えます。
病気にしても性別にしてもそれを取り上げて区別することで際立ち口に上りかえって差別が広がるという一面があるように思えるのです。
森蘭丸と織田信長の関係など、昔は無視されていたように、母は子供時分にはライ病で鼻の欠けた人も市中で暮らしていて鼻欠けさんと子供たちは呼んでいたけど誰も気にしてなかったし差別してなかったという。
言葉が与えられ広まると自覚するようになり、鮮明に差異を意識し先鋭化するという一面もあるのではないかと。最近の激しいBLMが好例かと。
投稿: さなえ | 2021年6月 3日 (木) 06時16分
★さなえさん
妹尾河童が子供時代のことを書いた「少年H」に、子どもたちに「オトコねえちゃん」と呼ばれるなよなよした青年の話が出てきます。オトコねえちゃんは子供たちに慕われ、そんな呼称は禁止されることもなく近所で普通に交流していました。振り返ってみれば私たちが子供の頃はそういった類のことがよくあったと思い出します。
ちょっと変わった人でも、危険がないのであれば遠ざけるのでなく、おおらかに共存する、ということが昔は自然にできていたと思います。
皆と違う→「弱者」と認定して保護の対象にしてしまう、これが間違っているんじゃないでしょうか。
あんまり構えすぎるとかえって物事をこじらせると思うのですが、現代ではこういう考え方が通用しなくなっているのでしょうかねえ。
投稿: robita | 2021年6月 3日 (木) 08時32分