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2021年10月12日 (火)

合理と神秘

元外交官の佐藤優氏が産経新聞に興味深いコラム記事を書いていた。

≪政治家には2つのタイプがある。合理性を判断基準にする人と人知を超えるものに対して畏敬の念を強く抱く人だ。
筆者がソ連・ロシアで見てきた政治家では、ゴルバチョフ元ソ連大統領は合理性を重視した。だから少数民族の感情を皮膚感覚で理解することができず、それがソ連崩壊につながった。メドベージェフ前大統領もこのタイプだった。
対してエリツィン元大統領は、政治は人知を超えるもので、合理的計算通りにはいかないという認識を強く持っていた。無神論国家のソ連で育ったにもかかわらず、エリツィンは神を信じ、信仰心も強かった。
実はプーチン大統領もこのタイプだ_____≫
 
有料記事 https://www.sankei.com/article/20211010-CWH7Q3TJ5JMW5CE4WM3UGI3OVA/ 


そして、話は日本の政治家へ:

≪第2次安倍政権が7年8カ月も続いた最大の理由は、安倍氏が人知を超えるものに対する畏敬の念を強く持つ政治家だったからだと筆者は考えている。≫

なんか腑に落ちた。

「人知を超えた」なんていうとオカルト的な印象があるが、実はきわめて合理的な説明も可能なのではないか。
「生物学的、人間行動学的に説明すれば」と言ってもいいと思うが、この「人知を超えたものに畏敬の念を抱く」とは、人類の生存やさらなる幸福を得るための方策、つまり生存戦略として祖先が積み上げてきたものと考えれば、それは科学的であり理にかなったものと言えるのではないかと思う。

多様性だとかジェンダーフリーだとか個人主義が至上の価値として祭り上げられる昨今だけれども、刹那的で無味乾燥とも言えるその行き過ぎた風潮に違和感を感じる人々も多い。

人間社会に巻き起こる様々な問題を「個人の利益・不利益、便利・不便」として片付けようとする合理的な人と、その場限りの判断によらず神秘性を帯びた民族的価値を判断の基軸に置く人との間には、どんなに話し合っても埋まらない深い溝があると感じる。

「人知を超えたものに対する畏敬の念」、左翼にはこれがない。

 

そういえば人類の未来を扱うSF小説には、「合理性」を選択してきた人類が、失われたもの捨ててきたものへの憧憬、悔恨の思いを募らせるといった描写が多い。

特に小松左京の作品には多かったような気がする。

日本民族の強靭さを信じた小松が描いた民族再出発の物語「日本沈没」、TBSで始まった。


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