「国を守る」を考える
橋下徹氏が大阪府知事・市長であった頃は、改革に熱心で信念も度胸もあるので応援していました。
政治家をやめてテレビのコメンテーターになってからもその意見のほとんどは傾聴すべきものがあります。
けれどもロシアのウクライナ侵攻が始まった時「とりあえず逃げて2・30年経ってから祖国に帰って復興に努めればいい」というトンデモ発言をして以来、それを糊塗するためなのかヘンな言い訳をしつこく繰り返し、国家や戦争を語る時にとても賛同できないような屁理屈を並べるようになりました。
頭の良い人なんだからわかるはずなのに、最初の失言を失言と認めたくないんでしょうかね、とても意固地な面をさらけ出しています。
昨日のフジTV「日曜報道ザ・プライム」での櫻井よしこさんとのやりとりは、前にも同じようなことで議論し、櫻井さんに説得されたと記憶していますが、またも同じような主張をして同じように言い負かされてしまった感があります。
それを「櫻井さんと僕の国家観の違い。僕は国民の命を守ることが国家の責務だと思う」などと言うのです。違うよ。国家観の違いなんかじゃない。
櫻井さんはそれに対して「私も国民の命を守るのが国家の一番の責任だと思ってますよ。あなたと私の間でそういう無益な対立点を作るのはやめてください。」と答えていました。本当にそれ。
戦後教育に影響されたままの人はどうしても「国」と「国民」を対立概念としてとらえがちです。
「国民を守る」とは「国を守ること」なんですよ。対立概念でも何でもない。国を守らなければ国民を守ることにはなりません。
橋下さんは「戦争が起こった時、一般国民は戦うと言う人もいるけど逃げる自由もあってしかるべき」と言います。
この考え方は正しいと言えるとも思いますが、一方で何か違和感があります。
たしかに一般国民が武器を持って戦わなくていいように軍隊があるわけなんですけど、それでは、戦争が終わるまで一般国民がみんな逃げて息をひそめて隠れていればそれで済むかと言えばそんなことはないわけで、製造や流通や国の基礎的労働のかなりの部分を一般国民が担わなければ国そのものが成り立たないですよね。
それに、どこに逃げるか知らんけど、戦争が終わって復興が始まる時に戻ってくるんかな。
私はそういう人を責める気持ちはありませんし、現代の日本では「非国民」などと指さす人もいないでしょう。
でも、逃げて戻ってきた人自身が苦しむのではないかと思います。
「死にたくない」と言う人に逃げる自由を認めるべき、それはたしかにそうなのだけど、侵略者が襲ってきた時、みんなで協力して立ち向かう気概は必要ないというのだろうか、と私は思ってしまいます。
俺は国のことは知らん、じゃなくて自分の国なんだから自分のこととして考えるのが普通なんじゃないかと思うんですよね。
高齢者、子供、女性など弱い人は安全なところへ退避するべきとは思いますが、残れる人は残って戦うなり労働するなりしないと国は滅びてしまいますよね。国が亡びる、すなわち国民は守られなかったということなんじゃないですか。
ところで、戦いたくない人が増えると、志願制の日本では兵隊の数も減っていきます。軍隊が成り立たず攻められても防衛もできません。
以前「志願者が激減して兵隊がいなくなった時、それでも男たちは侵略者と戦わず、女性や子供をほっといて逃げるんだろうか」ということを書きました。「逃げるって、どこへ」
だから理屈としては徴兵制もあり得ると。
今日は終戦の日。戦没者を追悼し、戦争反対の声をあげる日です。
「戦争が遠のいてしまってるので、若い人が戦争を知らず、改憲(9条改正)に賛成の人が多い。これは問題だ」と、「サンデーモーニング」は相変わらずトンチンカンなことを平気で放送します。
戦争反対を言うなら、迷惑顧みず乱暴狼藉を働く全体主義国家の力を削ぐにはどうしたらいいかを考える、そして憲法9条はそういう邪悪な国々にとって都合がいいものでしかないと理解することが必要です。
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コメント
いまも世界のある場所では、残酷なひととひととの命を奪い合う戦いが繰り広げられている。
ひとは愚かだ。
同じ過ちを繰り返す。
神様がアダムとイブをつくられたときに、邪神蛇が、ふたりに知恵の林檎をあたえ、そそのかし、争いが産まれた。
勝者に幸せはあるのだろうか。
敗者の悲しみはいかほどだろうか。
そのどちらにも、血をながした後悔と痛みは残る。
終戦記念日が訪れるごとに強く思う。
繰り返さないで!
知恵と欲望は紙一重。
されど、略奪と殺戮は賢い人類ならば、守るためにはならないことを知るべきだ!!
誰にもいる、愛しい大切なひとのために、平和で安泰なつつましい暮らしが、何よりも必要なのだということを!
それには戦いは無用なのだ。
ここでちいさく地味に呟いてもどうしようも出来ないことではあるが、
わたしはこの地球のどこかで、戦争のために、飢えて、病んで、奪われて、泣いているひとが、たくさん、たくさんいることが、何よりも悲しい。
投稿: J | 2022年8月16日 (火) 07時09分
★Jさん
反戦のお気持ちのこもった詩をありがとうございます。
この世が賢明で謙虚な人ばかりであったなら争いは起こらないでしょうにねえ。
欲望と欲望、主張と主張のぶつかり合い、時には力を持った愚かな者たちの一方的な理屈で戦争が起こります。
世の中のあらゆる不幸を全部なくすことはできないけれど、せめて祈りましょう。
投稿: robita | 2022年8月16日 (火) 12時06分
私が思うに、どうも想像力の欠如という問題なんじゃなかろうか?と思ったりします。
メディアには「国のために銃をとって立ち上がった」ウクライナの勇敢な市民が出ますけど、実際はどうでしょうか?
私は「色々あって、逃げるも逃げられず、ほかに方策がないので、やむなく戦うことにした」人が相当数いるはずだと思っています。
橋下さんは「どんな状態でも逃げるという選択肢はある」という前提で話をされていると思います。しかし、現実はそんなものじゃないのじゃないか。諸般の事情で仕方なく、という場合のほうが人生の様々な場面では多いと、私は思っているのですよ(苦笑)そんなに決然と、己の意思を示す機会など、そうそうないのが現実じゃないかなあ。
だから、きっとそういうときでも「なんとなく、戦うことになってしまった」状況で途方にくれながら慣れない戦闘準備とかすることになるんでしょう。
そんな想像もしてみたら橋下さんも、あるは櫻井さんも良い人だろうと思うんですが、このひと達は「決然と意思を示す」自分しか想像できない人なんじゃないかと思ったりするんですね
投稿: single40 | 2022年8月18日 (木) 11時12分
★single40さん
仰る通りで、実際にウクライナみたいにガンガンミサイルが撃ち込まれ、あたりが死体だらけになったら誰だって逃げたくなります。
でもそれでも、ウクライナの人たちは女性でさえ武器を手に戦う気満々だという報道はよく見聞きします。仕方なく、という人ももちろん多いでしょうが、日本人の心構えとは全然違うと思いますね。
>そんなに決然と、己の意思を示す機会など、そうそうないのが現実じゃないかなあ<
日本人は遺伝的にも「世界一怖がり民族」だそうですし、長い間の平和が日本人をそのようにしてしまった面もあります。
私も残酷なことからは逃げたいし痛いのも苦しいのも嫌ですから、そうそう「戦う」なんて簡単に言えないです。
あの戦争で徴兵された日本兵たちも仕方なく戦っているうちにがむしゃらに敵を倒すことが当たり前になっていったんだろうと思います。
敵に立ち向かうことに対しての想像力が現代の私たちには欠如しているのは事実なんですが、それでは、侵略されて逃げたい人が逃げてしまうと国はいったいどうなるのかとも考えます。
これは言って良いことかどうかわかりませんが、もう何年前になるか牛刀を持った少年がバスジャックして乗客が何人か死傷した事件がありました。
サービスエリアかどこかで停車した時、男性が一人窓から逃げたのですが、自分だけ逃げたらどんなことになるか、想像ができなかったんでしょうね。
犯人と戦うべきとは言わないけれど、女性や子どもを残して自分だけ助かろうというのは、これは当たり前の生存本能なのでしょうか。それとも日本人特有の行動なのでしょうか。
誰だって残酷な形で死にたくないから逃げることで頭がいっぱいになるとは思うのですが、こういう場合日本人以外の男なら違う行動をとるだろうとも言われます。
攻撃を受けた時、そんなに簡単に逃げることもできないし、一般国民がそんなに簡単に戦えるものでもないというのはその通りです。
想像力がないのは仕方がないですが、それではどうしたらいいかというと、防衛力を強化するしかありませんね。自衛隊への志願者がいなくならないよう、国民全体の国防意識も高めることも大事だと思います。
投稿: robita | 2022年8月18日 (木) 14時12分