私たちは祈ることを知っている
安倍元総理の国葬は無宗教で行われるそうです。
靖国論議の中で、「無宗教の追悼施設を作るべきだ」という主張に対して「無宗教では魂は存在しない。いったい何を拝むのか」という反論もあり、無宗教とは一体なんぞや、と考えるきっかけにもなりました。
私自身は特定の宗教を信じておらず、まあ無宗教なのかなあ、とも思いますが、神社やお寺に行けば神妙に手を合わせますし、キリスト教会ではアーメンと発して頌栄します。この世ならぬものの存在に畏怖の念を持つことは重要だとも思います。
日本人の大多数はそんな感じで、寛容と言うか、いい加減と言うか、私はそんな日本人は幸せだなあと思うのです。
エリザベス女王の国葬が絶賛されていますが、イギリス国教会の教えに基づいた葬儀には異なった宗教を信じている人々が大勢参列しました。司祭や新首相が聖書の一節を朗読するのをどのような思いで聞いていたのでしょうか。
以前クリスチャンの人たちが「違う宗教のお葬式に行った時、どのような心構えで、どのようにふるまえばいいのかわからない」という悩みを牧師さんに相談していたのを側で聞いたことがあります。
そんなことで悩むのかとびっくりし、信仰とは大変に重いものであることを知りました。
そこいくと大多数の日本人は、神道だろうが仏教だろうがキリスト教だろうが無宗教だろうが何でもござれ、まったく何という幸せな国民でしょうか。
27日の国葬では、たくさんの花に囲まれた安倍さんの遺影が中央に置かれ、参列者はその遺影にこうべを垂れ、一本一本花を捧げていく、というような次第になるのかどうかはわかりません。
しかし宗教が体系化される以前のはるか昔、原始人も死者を悼み花を捧げたというなら、その原点に戻ってどんな思想にも邪魔されず静かに追悼する、それでいいんじゃないでしょうか。
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