日本人と桜
私の住む地域では桜は終わってしまいましたが、東北に桜を見に行った娘が今を盛りに咲き誇るソメイヨシノの画像を送信してくれました。東京と違って人でごった返してないのでゆっくり楽しむことができた、と。
産経新聞連載エッセイ「モンテーニュとの対話」(桑原聡)で≪願わくは満開の山桜の下で≫と題して桜と日本人の心について綴られていました。
豪華絢爛なソメイヨシノの咲きぶりに「低級な桜」と嫌悪感をあらわにしたのは評論家小林秀雄だそうですが、ソメイヨシノの美しさに感動しながらも「山桜の方が好き」という人は日本人には少なくないのではないかと思います。
私はどちらも大好きですけど、江戸末期に作られて明治以降日本中に広がったソメイヨシノでなく、元々自生していて古くから詩歌などにも盛んに詠まれる山桜の方が日本人としての自分の心情に合うと感じる人もいるでしょうね。
≪・・・・・ないがしろにできない重大な問題があった。それは日本人が桜に仮託してきた「日本精神」「武士道」「大和魂」だ。
桜が象徴する3つの精神から昭和の日本人は自由になれなかった。桜に仮託した民族の精神は、平成に入ってから、すなわち半世紀の時間をへて忘却されるようになった。果たしてそれは日本人として喜ぶべきことなのか。悲しむべきことなのか・・・。私は判断を保留したい。______≫
時代も人も変わっていくのは仕方がないかもしれませんが、折に触れて日本人の来し方をたどってみることがとても大事なのだと思います。
大抵の日本人が、年を取ると「来年の桜を見ることができるだろうか」という心境になります。
人生の終焉に結び付けるようになるんですね。
因みにモンテーニュの言葉としてあげられているのが:
≪我々は静かに人間の宿命に堪えなければならない。いくら医学がひかえていても、我々は老いるように・衰えるように・病気になるように・できているのだ≫
≪お前は病気だから死ぬのではない。生きているから死ぬのである。死は病気の助けを借りなくたって、立派にお前を殺すのである≫
日本人は
≪願わくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ≫(西行)
≪敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花≫(本居宣長)
などの歌をしみじみと味わいます。
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