死んでたまるかという本能
脚本家山田太一のエッセイ集を読んでいたら、10年以上前のNHKのドキュメンタリー番組「老人漂流社会」についての一文がありました。
この番組は私も見て、その感想を書いたことがあります。→「リビング・ウィル」
山田氏の感想もほぼ私と同じで、こんな風に記しています。
≪え? この人にこの先生きていて何があるのだろう、寝たきりで食べる喜びもなく、人との交流もなく、多くの人に厄介になり続けなければならない。これはもう実は本人も死にたいのではないか、器械で生かし続けるのはむしろ残酷なのではないか、という思いが「胃瘻を続けますか」という質問には切実にこめられていたからこそ、私もひどい質問と思わなかったのだと思う。≫
しかしそこで山田太一は「人の厄介になるばかりで何の役にも立たない存在になったら死んだ方がいいという価値観が深く巣くってしまっている自分に気づいた」といいます。
そして、自ら選んだ孤独を人生の終盤に改めて嚙みしめる永井荷風の言葉を思い出し、本棚から探し出したそうです。
≪「生きている中、わたくしの身に懐かしかったものはさびしさであった。さびしさの在ったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった」(「雪の日」)
「衰残、憔悴、零落、失敗。これほど味わい深く、自分の心を打つものはない」(「曇天」)
「そもそもわたくしは索居独棲の言いがたき詩味を那辺より学び来ったのであろう」(「西瓜」)
「わたくしはすでに中年のころから子供のない事を一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますますこの感を深くしつつある」(「西瓜」)
「社交を厭うものは妻帯をしないに越したことはない」(「西瓜」)≫
山田太一は「こういう人もいるのである。一老人の頭の中はわからない。傍目には孤絶無縁に見えても心は分からない。死んだ方が幸せだなどと軽々に他人も自分も断じてはいけないと思う。老いは実にさまざまに深い」と結び、それは私も同意しますし、荷風の心境も理解できます。
でも、あのドキュメンタリーの老人の頭の中は、老いの孤独を文学的に表現する意欲を持つ荷風の心情など、とっくに超えた段階になってしまっていると思うのですよ。
終末期医療と老いの孤独は別問題です。また「何の役にも立たない存在になったら死んだ方がいい」というのも違う。
「どうしますか」と聞かれても理性的に答えられる状態ではないだろうし、死ぬより辛い事態に未だ陥ってないから、このままで生きれるだけ生きたいと本能的に思うのも当然でしょう。
要するに適切な判断ができないのです。
自身の終末期医療について、意志のあるうちに書き残しておく必要性を感じる次第です。
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